前回に続けて、「本妙寺事件」に関して「強制収容」後について、熊本県ホームページに掲載されている「熊本県「無らい県運動」検証委員会報告書」より抜粋・転載しながら検証する。
https://www.pref.kumamoto.jp/uploaded/attachment/49738.pdf
本妙寺集落の「一斉検挙」に際して、「検挙した患者の中不良悪性の者をどう処置するかは本問題計画当初からの悩みであった」という。それに対して、栗生楽泉園から「悪ければ悪い程喜んで引き受けるから」との申し入れがあり、結果として、上記のように37名が送られている。
『風雪の紋』(栗生楽泉園患者自治会編)には37名とある。その内訳は、男17名、女10名、未感染児童10名である。彼らは当初から「不良悪性の者」とみなされて、「特別病室」に収容される手筈であった。
「特別病室」の残虐さについては幾度か書いてきたので繰り返さないが、宮崎松記九州療養所長にせよ、吉見嘉一栗生楽泉園長にせよ、素直に入所する従順な患者以外、従わない患者に対する対応は「犯罪者」扱いよりも酷い。「見せしめ」とも「懲らしめ」とも思える。彼らは「救癩」を使命と自認する医師なのだ。自らの立場と言動を<正義>であると自己正当化するとき、人は何も見えなくなってしまうのだろう。
このように、意に染まない患者を独善的に「不良悪性の者」と断じて「特別病室」に拘留する医者もいれば、遠く草津まで訪ねて安否を心配する者や「特別病室」からの解放を嘆願する手紙を送る者もいる。このことからも本妙寺集落の患者たちが宮崎や十時たちが決めつけたような「不良悪性の者」では必ずしもなかったことは証明されるだろう。要するに、絶対隔離主義者にとっては「目の上の瘤」であり、熊本県の衛生行政や警察にとっては「無らい県運動」の最大の障害であったということだろう。
「本妙寺事件」を契機に、熊本市における「無らい県運動」はより徹底されていく。本妙寺集落は国家権力により一方的な弾圧によって消滅させられたが、彼らが目指した「自治」と「自由」は各療養所における「患者闘争」へと受け継がれていった。このことに強い感動を禁じ得ない。
あらためて<独善性の弊害>を痛感する。「目的のために手段が正当化される」ことの恐ろしさに気づかない。なぜなら、その「目的」が<正義>と認識されるからだ。まさしく「収容側の一方的な論理」を<正義>とした「正当化」により、「無らい県運動」も「強制隔離」も「特別病室」も「手段」として「正当化」されている。
さらに恐ろしいのは、その<正義>を無批判に了承して「正当化」してしまう<善意の思い込み>である。国家のため、人びとのため、患者のため…と「思い込んでしまう善意」は、偏狭な視野と独断的な正当性を生む。
光田健輔と「本妙寺事件」の関わりについて検証しておく。
上記にも名前が挙げられている潮谷総一郎氏が光田健輔との思い出を書き記した「養護施設と本妙寺のことども」が『救癩の父 光田健輔の思い出』に収録されている。潮谷氏は「免田事件」の再審を支援した人物として有名である。この小文を読むかぎり、彼の光田健輔への尊敬と思慕の念は強い。この小文をもとにまとめておく。
潮谷氏と本妙寺集落との関わりは、昭和15年頃、彼が慈愛園の指導員をしていたとき、九州救癩協会が皇紀二千六百年の記念事業として本妙寺周辺の癩部落解決に力を入れることになり、その担当者となったことに始まる。週3回、白米や牛乳、野菜などをもって訪問し、次第に信頼を得て相談を受けるようになり、部落の秘密のすべてを提示して、根本的な解決に協力してくれるようになり、全住民の名簿も提出してくれたという。
国立療養所に再度入所したい6人を愛生園まで引率した際に、熊本出身の内田守医官と事務官、光田健輔と「本妙寺癩部落の実状と解決法について」核心に触れて話しあっている。
一部の研究者は「潮谷は光田に利用された」と考えている。別の見解では、潮谷自身に光田健輔の影響を多分に受けた絶対隔離主義の考えがあったという。私はどちらもそうであると思っている。
光田は全患者を早期に療養所に収容することを目指しており、最大の障害を熊本の本妙寺集落と草津の湯之沢集落と考えていた。しかし、どちらも患者集落としての規模も大きく、自治組織をつくって自活していることから患者の説得はむずかしいと考えていた。そこに、現地を熟知して患者とも懇意な関係を持つ潮谷が登場した。さらに、実行部隊となる警察に大分県より山田俊介警察部長が転勤してきた。光田は「本妙寺集落解体」の準備が整ったと思ったのではないだろうか。