部落史ノート(8) 賤民制の成立と確立(1)
山口県文書館の元研究員であった北川健氏の『長州藩における賤民制の成立と確立』という論文がある。長州藩(山口県)における「穢多」「非人」、「道の者」類と呼ばれる賤民が身分的に隔別・統制される「賤民支配体制」がどのように成立していったかを考察している。
ここでは北川氏の研究を吟味することで、賤民制についてまとめてみたい。
北川氏は「本稿の主眼は、長州藩の場合について、賤民制の成立と確定の画期をそれぞれ措定するところにある」とし、その画期・契機に、本論文の副題にも掲げている「寛文元年牢番役拒否事件」があると考える。
北川氏は、この「牢番役拒否事件」の重要性について、次のように述べる。
つまり、被差別部落民(穢多身分)が命じられて「公役(役儀)」として引き受け行ってきた「牢番役」を拒否する要求を藩に出したこと、それを「穢多相応」であると却下され、以後の強要したこと、これにより、被差別部落民(穢多身分)と農民階級(百姓身分)のちがいが公的に「制度的措置」として定められた。これは「分断支配」であり、両者に<身分の違い(峻別)><社会的立場>を明確に自覚させることになる。また、藩が公的に<役儀>と強要していることから<賤民制度>の確立につながるのである。
北川氏は、賤民制の「成立」ではなく「確立」の画期であり、「賤民支配体制の開元」であると結論点を諸示し、その根拠として長州藩の賤民制の歴史的背景を考察していく。北川氏の考察を辿っていくことで、賤民とは何か、賤民支配体制の確立とはどういうことかを明らかにしたい。
実は、岡山藩においても同様の「御役目拒否(返上)闘争」があり、同様の結末となっている。
岡山城下周辺の部落5ヵ村は,御野郡上伊福村国守の「穢多頭」の指図で,藩の刑吏役を勤めていた。断罪(死刑)の者があり,その執行の日が決まれば,町奉行からその下役である「隠亡」を通してその旨が「穢多頭」に伝えられ,「穢多頭」はその手下の者に刑の執行,死骸の取り片づけの仕事を割り付けて従事させていた。
元禄15年(1702年)の暮,駿河屋六右衛門が処刑されることになり,万成の磔の死骸取り捨て(後始末)について、「隠亡」次郎九郎が国守村の「穢多頭」多左衛門に伝えたとき,彼はこれを拒否したのである。
多左衛門は罪人の処刑・拷問は「穢多」の役目であると主張し、おんぼう(非人)である次郎九郎は磔・獄門・断罪・火罪の者の取り捨ては乞食(非人)の役ではなく穢多の役であると主張して対立した。多左衛門は「これまでは,罪人の生命を取ることもやってきた。しかし,死骸の取り捨てという役目は,御百姓たる我々がやるべき仕事ではないはずだ。」というのが拒否の理由である。
やむなく乞食(非人)頭の次郎九郎が配下の乞食に頼み、乞食は二度としないと言いながら取り捨てている。
その後10年間は,次郎九郎が直接に5部落にかけあって頼んでいたようであるが,正徳2年(1712年)に,次郎九郎の子である五郎九郎が跡を継ぐと,多左衛門に対して再び公然と「御役目」を勤めるように要求し,裁判となった。両者とも弁明の書状を提出して争ったが,町奉行の「死刑囚の死骸の片付けは穢多,刑罰以外の死骸の片付けは隠亡」との判決により多左衛門が敗れている。
この史実において着目すべきは,慣例ではあっても藩命を公然と拒否したことである。
多左衛門が死骸の取り捨てを拒否したのは,所轄の大庄屋南方村の庄次郎の「御百姓は(死骸の片付けなど)しない。するのは乞食(非人)である。」という意見から「我々穢多は乞食(非人)とは違い,御百姓である。したがって死骸の片付けは我々の仕事ではない。」と考えたからである。つまり,多左衛門は「穢多」身分であっても「御百姓」であるという意識を持っていたのである。そのことを公然と主張したことからも,彼らが自らの身分を卑下したり卑屈に思って生活していたのではなく,「御百姓」として同等であるという自負心や誇りを強く意識していたことが分かる。ただし,非人に対する差別観があるように封建的身分制の限界を内包してはいる。
この「御百姓」意識は,岡山藩主池田光政の言説に由来すると言われている。彼の遺徳を顕彰する目的で書かれた『率章録』『抑止録』に,彼が部落の者を不浄であると言う側近をたしなめ,自分の領内に住む者であれば「穢多も一統わが百姓」であると言った,という逸話が残されている。同じく,光政の問いに,穢多の米は不浄の米ゆえ米で納めさせていないと答える役人に対して,わが百姓に相違ない部落の者を左様に分け隔てするいわれはないと,米納に改めるように申し付けていることも書き残されている。
柴田一氏は,この「御百姓」意識が被差別部落の人々(穢多身分)の間に浸透し,この「御役目拒否」のように封建的支配体制を支える身分秩序を崩すまでに高まったことに危機感を感じた藩が,次々と差別政策や差別法令を強化していく,それに対して様々な抵抗があり,その結実として「渋染一揆」がおこった,と論じている。
柴田氏の言うように,被差別部落の人々の意識の底流には「御百姓」意識がある。しかし,その意識を日常生活における実際行動へと発展させ,実質的に「御百姓」としての社会的地位を獲得しようとした行動や抵抗は,身分解放への意欲であり脱賤化への希求であった。このことは,彼らが差別に対して無力であったわけでも,賤民身分であることを諦めていたわけでもないことを証明している。すなわち,身分制社会である江戸時代にあって,脱賤化の方向性と行動の根拠を与えたのが「御百姓」意識であり,この意識に支えられて差別政策に抵抗したのである。
なお、私は柴田氏の「御百姓意識」を認める一方で、何もかもがそうであったとは考えにくいと思っている。特に、「渋染一揆」に関しては「御百姓意識」だけでは説明できない面もある。
次に、長州藩の「牢番役拒否事件」と岡山藩の「御役目拒否闘争」を比較して考察してみたい。