私の原点 … 私自身を問い続けて
「人生には、国境線のように、それまでの人生と全く違う人生が突然に広がることがある」と本で読んだことがあるが、その契機は人との出会いによって生まれることが多いのではないだろうか。
私も、多くの方々との出会い、人生を大きく左右するような出会い、人生の転機であり、人生の方向性を決定づける出会いを経験している。多くの出会いの中、私自身の同和教育、部落問題学習、特に部落史学習のあり方そのものを根底から揺さぶり、問い直す出発点となった方々がいる。
1 部落問題との出会い
ある夏の日、階下で私を呼ぶ母親の声がした。玄関には、後輩がお付き合いしている女性の父親が私を訪ねて来ていた。私の顔を見るなり、父親は玄関先で土下座をし、「どうか娘とあの男を別れさせてください」と頼み込んだ。呆然と立ちつくす私に、父親は言葉を続けた。「あの男と娘の先輩であるあなたなら、娘も言うことを聞くと思います。ですから、どうか娘とあの男に別れるように言ってください。」
あの男とは、私の後輩であり、彼は被差別部落の生まれであった。娘さんも同じく私の後輩で、私は彼らの真剣な交際を数年間見守ってきた。彼女の両親が結婚に反対していることは知っていたが、反対の理由が彼が被差別部落の出身であることとは思っていなかった。
部落問題に関する知識さえ不十分だった大学生の私には、父親に彼らの結婚を許してくださいとお願いするしか術はなかった。物別れに終わり、肩を落として帰る父親の後ろ姿に、初めて部落差別の現実を知った。
かつて私が新任教師だった頃、部落の学習会の開講式が終わりに近づいたとき、一人の母親が私たち教師を見つめながら、決して目を逸らすことをなく語り始めた。
私の息子は学習会に来ることを嫌がっています。なんで僕らだけ学習会があるんならといつも聞きます。でも私は息子に<部落>を語れないのです。語る自信がないのです。この村に嫁いできて、今まで表立っての差別は受けませんでしたが、事あるごとに探るような、避けるような視線を感じてきました。何とも言えぬ思いです。この思いをこの子も感じる時がくるのかと思うと、辛くて、悔しくて。だから、できれば誰にも知られたくないんです。先生、何で同和教育をするんですか。先生がいらん事をしゃべるからなくならんと、私らが嫌な思いをするんです。もし、息子が『部落はどこにあるんなら』と聞いてきたら、私はどう答えたらいいんですか。先生たちは、ほんとに本気で部落差別をなくそうと思ってますか。ここだけで、私らの前だけで言ってるんと違いますか。本当は、先生方が差別者ではないんですか。差別しとんのは、先生たちでしょうが。
その真剣な目に、数人の教師が一様に下を向き、目をそらせたのを見た私は、後輩の結婚問題に際して当時の自分がいかに無力であったかを語っていた。
「被差別の立場」には立てないのか。「部落に生まれてない者にはわからん。」と幾度となく投げつけられてきた言葉。そして言葉を失い、語れば語るほど真意が伝わらないのではと下を向いた日々。
そんな悩みの中で、退職された先輩教師の一言が自信も熱も失いかけた私に、決して揺るぐことのない勇気を与えてくれた。
差別は人間がおこなうものです。肩書きや地位や貧富が差別をするのではない。人間の心が差別をおこなわせるのです。差別する心は誰にでもあるのです。置かれている立場や状況は異なっていても、<差別心>は誰にでもあるのです。同じです。我々はその<差別心>と闘っていくのです。それが同和教育です。
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1992年、第44回全国同和教育研究大会福岡大会が北九州市で開催された。私は「社会認識A」の分散会場にいた。このとき、フロア-から発言された兵庫県のお母さんの言葉が強く心に刻まれた。お母さんの思いを聞きながら、あの開講式での母親の姿を思いだし、2人の母の思いが重なり、胸に熱いものがこみ上げてきて、涙が頬を流れた。
後年、徳島県板野中学校の森口健司教諭がこのお母さんの発言を「母の願い」と題してまとめておられ、『峠を越えて』に教材資料として収録されているのを偶然に知った。
私自身が部落出身ですと言えるようになったのは,ほんの数ヶ月前です。自分は部落出身だと知り,どうしてこんな所に生まれたのだろうとくやし涙を流した遠い昔の日々がありました。
そして,部落の青年と恋愛し,結婚して3人の子どもに恵まれました。子どもたちを育てていく中で,部落出身であることをどうして私が教えなければならないの…。教えることじたいが差別を認めることになる。
自分さえしっかりしていれば,健康で純真な子どもに育てれば差別はないと信じていました。学校へ行くようになるとおのずと学習会に参加しなければなりません。何も知らず,いや疑問を抱きながら子どもの通う姿は,私にはつらくもあり,腹立たしいものでした。しかし,行くなとも言えず心の中で悩むだけの私でした。
そして,気がついたのです。それは,私の心の中に部落は悲惨であり,貧しく,そこに住む私たちは賤しいものという意識が知らず知らずのうちに入り込んでいたのです。だから,自分自身が顔を上げることができなかったのです。
その意識があったからこそ,故郷に誇りがもてず,部落を名乗れず,生まれたことを恨んでいた自分があったのです。
しかし,部落に生まれたことをそんなに簡単に喜びに変えられますか…。たとえ喜びになったとしても,どれだけそれを表現できますか…。いえ,差別が渦巻く社会の中で,表現なんて出来酔うはずがありません。ではどうすれば故郷を誇りに思い,そこに生まれた私たちも人間としての喜びを感じられるようになるのでしょうか。
故郷に住む若い母親たちとそんなことを話し合いました。その話し合いの中から。いつもいつも差別はなくなったかのように自然にさりげなく会話するのではなくて,このつらくてどうすることもできない気持ちを語り合っていこう。先生に話していこうとする部落差別を真ん中に据えた会が生まれました。
会の中では,「私は同和地区外からここへ来ることによって差別解消の役割をしていると思っていた」とか,「廃品回収の山をトタンなどで隠せばきれいになってみる目も変わるのじゃないかしら」とか,「教養・知識・文化面を取り入れたらもっと認めてもらえるのにねえ」というような会話がかわされていきました。
会も積み重ねてきましたが,私には部落出身であると知ったときの悲しさはどうしても忘れられません。お母ちゃんがお膳の上で書いている習いかけのような幼稚な文字を見て部落差別というものを嫌というほど感じました。友だちのお母さんにあの子と遊んだらいかんと言われても,私は黙ってうつむいていました。こんな気持ちを子どもたちに絶対させたくない。必然と先生から親から声が上がり,私たちも勉強しようということになりました。しかし,本当に勉強というものはしんどいです。それを今日まで続けられたのは,先生の姿でした。
教師だから同和教育をするのではなくて、人間として許せない、許すことができない差別を解消していくんだという先生の姿、今日にでもなくなってほしいと願う部落の人たちの思いを受けて自分は一体何をすればいいのか今もなお暗中模索の状態と言われる先生の姿、国民的課題と言われているが一体自分とどう関わりがあるのだろうかと日々悩む毎日ですという先生の姿、そんな先生方の姿を見て、私たち部落の親が少しずつ差別を訴えていけるようになりました。
差別は黙っていてはなくなりません。あなたの、部落民である私に対する意識がこんなに私を苦しめていますと訴えていかなければいけないのです。こんなに強く発言できるようになったのも、多くの頑張る教師の姿を見たからです。研究大会や講演会,いろいろな大会に出席することによって差別の厳しさを感じていったからです。
この頃こんなことを思うようになりました。差別の厳しさを知れば知るほど,この子どもたちをしっかりさせ,将来きっと出会う部落差別に負けない子どもたちを創っていこうとする先生たちの姿について私は一言言いたいです。
部落の親にとっては,無心になって遊ぶわが子をどれだけいとおしく可愛いものであるか。この子が差別によって人生を狂わされることがあったとしたら…,そう思うだけで差別を今すぐにでもなくしたいと働きかけます。先生たちは将来子どもたちは差別に出会うという前提で取り組まれています。そこなんです,先生たちは無心に遊び、学び、素直な目で「どうして僕たち、学習会にいかなあかんのや」と訴えてくる子どもたちに応えてやっていますか。「差別は先生かて許さへんで、学習会にいかんでもよい社会を先生が創っていってやるで」と応えてくれていますか。「お前たちも一緒に差別解消に取り組むんやで」とはっぱをかけてやっていますか。つまり、私が言いたいのは部落差別をなくしていく一人になってほしいのです。
先生じゃなくて一人の人間として、差別を許さない生き方を見せてやってほしいのです。いけないことはいけないと言える人間になってほしいのです。部落に住む人たちの中でもう差別はなくなっていると言われる方がありますが、「差別はなくなりました」と言わせる社会自体に差別があることに気がついてほしいと強く願っています。
今もはっきりと覚えているあのお母さんの姿、そして心からの願い…。私は決して忘れることはできない。しかし、分科会の会場で、「母の願い」を聞いてから何年の歳月が流れただろう。私はこの真摯な「母の願い」に応えてきただろうか。私は自分の道が見えなくなったとき、いつもこの「母の願い」を読み返し、あのときのお母さんの姿を思い起こしてきた。そして、私の原点を確認してきた。
2 部落史との出会い
三十数年前、某中学校で社会科を担当しながら同和教育に、同和地区の学習会に、そして識字学級の「部落問題学習」を担当する講師として、自分なりに取り組んでいた。
ある日の識字学級、私が部落史の講座として「解放令」の説明をしていた時、熱心に聞いていた一人のお婆さんが静かに、しかしはっきりとした口調で話し始めた。
私の父は水平社運動によって幾度も投獄されました。私自身も錦織のピオニ-ルに参加し同盟 休校の闘いを経験しました。その時から何度も聞かされてきたことは、解放令が出て同じ身分になったのに何で差別されんといけんのか、という父や母、村の人たちの悔しさに震える声でした。何度も何度も繰り返し聞かされてきました。私もいつも不思議に思ってきました。部落
問題といえば、いつも江戸幕府や明治の政府が悪い、時の権力者がつくった、と言われます。
しかし、差別はいつも周りの人から受けました。先生も、明治政府が部落を本当に助けようとして解放令を出したのでないから、民衆の差別意識は残った、まちがった考えや偏見がそのままにされたのは、明治の政府の責任である、と説明されました。でも、私が受けた差別は、その責任のある政府からでなく、隣の村や学校で席を並べた男の子からでした。その人の責任はないんですか。解放令の意味が学校で教えられても、ずっと差別があるのはだれの責任なんですか。私らにとっての解放令はいつなんでしょうか。
衝撃でした。私の意識の根底を大きく揺さ振る問いであった。被差別の立場に立ち、差別解消のために部落問題を語り、正しい歴史認識を生徒に教えるためにと、教材に取り組んできたと自負していた私にとって、それは私自身の差別意識と対峙する契機となった一言であった。
私の部落史学習は、部落差別解消を掲げながらも、差別された歴史の史実を伝えることに終始し、生徒はその歴史的背景と史実を<知識>として理解するが、自分の問題として捉えることは少なかったのではないだろうか。「そんなこと(史実)が(昔に)あったのか」と歴史の傍観者として他人ごとのように知り、やがて忘れていく。むしろ「部落に生まれなくてよかった」「部落はそんなことをさせられていたのか」といったマイナスイメ-ジのみが残り、差別の再生産を助長させていたのが私の授業であったのではないだろうか。
そんな思いが日々の生徒との関わりの中で、私の心に広がっていった。教科書や一般的な部落史の概説書、マニュアル的な指導書、他校の指導案をただ無批判に受け入れていた私の中に広がった疑問を解決するために、もう一度、自分自身の中できちんと整理するために部落史をあらためて勉強することから始めた。そして、生徒に何を教え、何を考えさせ、何に気づかせていくべきか、部落史学習の目的そのものについても考えるようになっていった。差別の厳しさを正確に教えるだけではいけない、お仕着せの差別の禁止を説諭する授業でもいけない。
では、どのような部落史学習を実践すればよいのか、その方向性や視点はどこに求めればいいのか、悩み続ける毎日であった。
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私が「解放令反対一揆」の史実に直接関わるようになったのは、岡山県北部のある学校に赴任し、その町の同和教育推進委員となり、地域の部落史を研究するようになってからだった。
古老から聞かされる惨劇は、まさにこの世の地獄であった。昨日までの顔見知りが、見知らぬ村の者たちと、手には先を焼き固めた竹槍と燃え盛る松明を持って襲ってくる。襲いくる者たちの罵声と怒号、逃げ惑う者たちの悲鳴と叫び声が時空を越えて、今にも聞こえてきそうであった。
家を焼かれ村を焼かれ、逃げ込んだ山林にも火をかける。炎と煙に追われ、逃げ遅れた者たちは、次々と河原に引き出されていった。河原に引き出された人々を待っていたのは<人物改め>であった。「元身分を忘れ」「近村を軽蔑した」とされた者、不遜で増長した者は、竹槍で刺され石を投げて殺されていく。
この一揆は、今でも「エッタ狩り」の名称で、その地域に伝えられている。
岡山県北部、美作地方でおこった民衆による部落襲撃。「美作騒擾」「美作血税一揆」「明六一揆」ともいわれる部落解放反対一揆がおこったのは、明治6年5月であった。
私はこの史実を、怒りをもって教材としたいと思った。この蛮行を決して許してはいけない、部落解放のために犠牲となった彼らのためにも歴史の闇に沈めてはならないと思った。研究書や論文が少なく、史料も散逸している状況の中で研究を進め、朧気ながら全体像が見え始めたとき教材化に取り組んでいった。構想がまとまりかけたある日、識字学級において隣保館の館長より、思いもかけぬ視点からの言葉を聞いた。
私どもの祖先は、詫状を書きました。この地には昔より三つの部落がありました。この明六一揆がおこったとき、当初は私の部落も戦うことを決意しました。しかし、一揆勢の勢いの激しさに恐れ、相談の上、許しを乞うために、詫状を書いたのです。恥ずかしいことです。屈辱です。しかし、女や子ども、村を守るためには詫状しかなかったのです。私もこの話を祖父などから聞いたとき、悔しくて悔しくて仕方がありませんでした。
村には「屈辱の松」と呼ばれる木がありました。この木の下で、詫び状を書かされたのです。差別を受ける度、村の者はこの木を蹴って蹴って涙を流したのです。差別され、馬鹿にされるのも、あの時に詫びたからだとも思いました。
しかし、今は違います。私どもは、この祖先の屈辱のおかげで、今も生きているのです。祖先が悔し涙で詫状を書いたことで、私はこの世に生まれることができたのです。
祖先は生命の尊さを知っていたのだ、と今は感謝の思いです。
部落の惨劇から、怒りにばかり気をとられていた私は、悲惨な史実と差別の実態のみを教材としようとしていた。それによって差別の理不尽さと不合理さ、悲惨さ、恐ろしさ、非人間的な差別を教えようとしていた。
しかし、残酷な仕打ちが待っていようとも、差別からの解放を願い、自らの権利を求めて闘った人々の姿があった。盲目の娘を背負って逃げる父の姿があった。助命を請う祖母の姿があったそして、屈辱の詫状を書いた姿があったのだ。
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この2人の方との出会いが、私に、部落問題学習、部落史学習の明確な方向性を示してくれた。
部落史学習の目的は、単に「差別の歴史」を伝えることではない。部落史を学ぶことで自らの心にある部落問題を見つめ、多様な部落史像を知ることで部落に対する認識を問い直し、部落差別の解消に主体的に取り組む人間になっていくことが目的である。
そのためには、教師自身が部落問題とどのように関わってきたか、自分の人生の中で部落をどのように受けとめてきたかを自らに問い直すことが重要である。
なぜなら、教師自身の中にある<部落>という概念やイメ-ジを見つめ直し意識化しなければ、生徒に部落差別解消の必要性を伝えることはできないからだ。教師自身が自らの「心の中の部落」を意識し、部落問題学習の目的を部落差別の解消であると明確に自覚しないかぎり、教え方の技術や方法論に終始することになってしまう。
部落史を<知識>として教えるのではなく、<史実>を生徒自身の生き方に重ねさせることで教師も生徒も、自らの<差別意識>を洗い出していく部落史学習の授業が求められている。
言い換えるならば、差別の厳しさや悲惨さを<知識>として学習するのではなく、その差別の中を生き抜き、差別を乗り越えてきた人々の姿を通して、生徒自身の生き方を問い直していく授業である。すなわち、史実を通して、その時代にはどんな差別があって、どんな生活があったか、そして差別の中を人々はどのように生きてきたか、どう闘ってきたかを知り、その生きざまに学んでいくことが部落史を学習する目的であると考える。
そして、部落差別を自分自身の生き方の問題として捉え、部落解放への展望をしっかりと認識していく学習を積み重ねていくことにより、生徒の中にある被差別部落に対するマイナスイメージは払拭され、豊かで多様な部落史像が描き出される。
それは、「史実を通して何を学んだか」という視点からの学習であり、互いに語り合うことで自らが学んだことの意味を点検していく学習実践と言える。そして、その学習において重要なのは、教師の「問い」であり「語り」です。この学習から何を学ぶべきかという明確な目的意識に支えられた教師の「問い」と、教師自らがこの学習によって学んだ思いを「語る」ことが、生徒の心情に訴え、感性を揺さぶり、学習の意味を主体的に受けとめようとする意志を生み出す。