前回に引き続いて、野谷の論考を通して、<当事者の視点>について考察してみたい。
野谷もまた<時代的正当性>を致し方ないと述べる一方で、その根底に「光田氏の温情」を見る。そして、この「温情」が患者にとって「精神的支柱(救い)」でもあったと述べる。最近の光田擁護論者も、野谷と同じ理由から主張するが、そこには決定的な違いがある。野谷は当事者として実際に見聞したり体験したりした事実を根拠とするが、彼らは当事者や光田を支持する弟子や関係者の証言からの推察を根拠としている。当事者としての言葉に表せない葛藤は、決して彼らにはわからないだろう。
愛する家族と引き裂かれる悲哀、残した家族への未練、誰を恨むこともできぬ病苦、療養所しか生きる場のない苦悩、未来を閉ざされた虚無、それでも衣食住の救済にすがるしか生きる術はないのだ。その救済を与えてくれる存在は光田であり、その光田を医者として頼るしかないのだ。巨大な絶対隔離の壁であり、その頂に君臨する絶対的な王にして門番である光田への憤怒もある。そのアンビバレントな感情を野谷は指摘しているのだ。
次に、野谷は「光田氏理念の崩壊」と題して、戦後の療養所やハンセン病患者の状況の変化によって光田イズムがどうなっていったかを<当事者の立場から論及している。
野谷は「新憲法によって」保障された「いくつかの自由」は「極めて重要な意味を持っている」と言い、その例として「選挙権」を挙げている。
長い間、入園者には「選挙権」がなかった。『風雪の紋』(栗生楽泉園患者自治会編)に、次のような一文がある。
なぜハンセン病患者は療養所に入所と同時に「選挙権」を剥奪されたのか。
それは、入所者は「救護法」により国又は地方公共団体の救護を受けているということで、選挙権および被選挙権を与えられていなかったからである。
1929(昭和4)年4月に公布された「救護法」(32年1月施行)は、「隣保相扶」の原則に立ち公的扶助の対象をきびしく限定した。それまでの「恤救規則」(1874年)に対して、65歳以上の老衰者、13歳以下の幼者、妊産婦、精神または身体に障害があり労務を行えない者が貧困によって生活できないときに、主として居住地の市町村長が救護するとされた。その費用については、道府県は市町村の負担の4分の1、国は2分の1以内を補助するとされ、はじめて公的扶助義務を認めるものであった。しかし、扶助の対象には年齢制限があり、被救護者の選挙権の欠格条項も適用されていた。
1925(大正14)年にいわゆる「普通選挙法」が制定されることによって、男子25歳になると納税の有無に関係なく選挙権が与えられる“普通選挙制度”が実施されたにもかかわらず、選挙権が剥奪されたのである。それはなぜか。選挙権は「一人前」とされる者に与えられるものであり、救済を受けるのは「一人前ではない」という考えからであった。
戦後になっても公私の扶助を受ける者には選挙権が与えられていなかったが、法の下の平等を明記した日本国憲法の施行を目前にした1947(昭和22)年4月、参議院が開設された際に、この規定はなくなり、5月になって衆議院でも撤廃された。ようやく、隔離されたハンセン病患者も参政権を手にしたのである。そして、この選挙権獲得が、入所者を政治に目覚めさせることになり、後の「特別病室」問題から発展した「人権闘争」につながったのである。
社会から隔絶されていた療養所に「外からの新風」が吹き込んできたのである。その風によって、諦めて日々を過ごすしかなかった入所者が覚醒したのである。
『全患協運動史』や各園の自治会史、『全癩患協ニュース』、史料などを読む中で、「らい予防法」改正反対闘争の組織力や政治力はもちろんだが、彼らが作成した意見書や要望書等々に見られる憲法や法律に精通した文章や記述、あるいは厚生省との交渉記録の発言には驚きを禁じ得なかった。彼らの中に有名大学の卒業生や在校生、有名企業や銀行などのエリートおよび技術者がいたことは知っていたが、それだけではなく、彼らは貪るように学習し、寸暇を惜しんで努力し、専門的な知識を蓄えていったのだ。それは、まさに彼らにとって「生きるための学習」であった。
彼らを学習へと駆り立てたものは何だったのか。野谷は、次のように述べている。
いかに理不尽であろうとも、ハンセン病者であるというだけで強制収容され、一生隔離されることを甘受するしかなかった入所者にとって、半ば諦めての療養生活であった。「人間扱い」など望むことすらできなかった。外からの情報すら管理されていた彼らにとって、「光田イズム」に従って生きることしかなかった。そんな彼らが新憲法を知り、新しい時代の到来を肌身で感じたことで、まさに自分を取り戻すことの可能性を見出したのである。そのために何が必要か。彼らは理不尽さと闘う「武器」を憲法と法律に求めたのである。
フランスの詩人ルイ・アラゴンの名言に「教えるとは希望を語ること、学ぶとは誠実を胸にきざむこと」がある。