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光田健輔論(87) 当事者の視点(2)

前回に引き続いて、野谷の論考を通して、<当事者の視点>について考察してみたい。

光田氏的理念は二つの側面をもつ。そして第一義的にはそれは「家を清め村を清め県を清め国を清める」(『回春病室』)精神すなわち救らい報国ないし祖国浄化の精神であった。…
…光田氏において、この反ヒューマニチックな精神の背後にライの患者に対する脈々たる親心にあったことは十分みとめられなければならない。否、光田氏の育った精神的基盤と、その時代の政治的社会的機構下においては光田氏の温情も、そのような非人道的形態をとらざるを得なかったというべきであろう。…この精神はひとり施設側においてのみならず、当時の患者たちにとっても一つの精神的支柱(救い)を意味するものであったことも注意されねばならない。

野谷寛三「ライ療養所の論理と倫理」『ハンセン病文学全集』5評論

野谷もまた<時代的正当性>を致し方ないと述べる一方で、その根底に「光田氏の温情」を見る。そして、この「温情」が患者にとって「精神的支柱(救い)」でもあったと述べる。最近の光田擁護論者も、野谷と同じ理由から主張するが、そこには決定的な違いがある。野谷は当事者として実際に見聞したり体験したりした事実を根拠とするが、彼らは当事者や光田を支持する弟子や関係者の証言からの推察を根拠としている。当事者としての言葉に表せない葛藤は、決して彼らにはわからないだろう。

愛する家族と引き裂かれる悲哀、残した家族への未練、誰を恨むこともできぬ病苦、療養所しか生きる場のない苦悩、未来を閉ざされた虚無、それでも衣食住の救済にすがるしか生きる術はないのだ。その救済を与えてくれる存在は光田であり、その光田を医者として頼るしかないのだ。巨大な絶対隔離の壁であり、その頂に君臨する絶対的な王にして門番である光田への憤怒もある。そのアンビバレントな感情を野谷は指摘しているのだ。


次に、野谷は「光田氏理念の崩壊」と題して、戦後の療養所やハンセン病患者の状況の変化によって光田イズムがどうなっていったかを<当事者の立場から論及している。

この光田氏理念の崩壊は何によってであるかというならば、それは一言にいって、戦後、ライの療養所において主体的な人間形成が可能になったことによってである。そしてそのことを可能ならしめた契機として、われわれはまず、次の二つの事実を提起すべきであろう。すなわち新憲法及びプロミン及び同系薬による治療である。
われわれはこの二つの事実を次のように位置づけることができようかと思う。すなわちわれわれライの患者はプロミンによって身体を与えられ、新憲法によって精神の座をかく得したのである、と。

野谷寛三「ライ療養所の論理と倫理」『ハンセン病文学全集』5評論

野谷は「新憲法によって」保障された「いくつかの自由」は「極めて重要な意味を持っている」と言い、その例として「選挙権」を挙げている。

長い間、入園者には「選挙権」がなかった。『風雪の紋』(栗生楽泉園患者自治会編)に、次のような一文がある。

ハンセン氏病患者の場合、療養所へ入所と同時に選挙権を剥奪されたのだが、『全患協運動史』(全国ハンセン氏病患者協議会編)によれば、「21年6月24日・衆議院議員選挙で入所患者がはじめて選挙権を行使」とあり、療養所入所患者も選挙権を得るに至ったのだが。しかし、当園では、当該選挙区に同様の衆院補欠選挙がなかったことからこの時点での選挙権行使はみられない。そして翌22年、憲法及び地方自治法の施行に関連して行われた4月5日の知事・市町村長選挙では、草津町長選挙は任期上の都合で見送られたものの、初の知事公選で法的には確かに患者にも選挙権が保障されていた筈なのに、なぜか当園入所者がそれを行使した形跡は認められない。さらに4月20日参議院、同25日衆議院の選挙についても、県・町の選挙管理委員会へ調査方依頼してなお患者の選挙権行使の是非は判然としないのである。したがって当園患者が、町選管により投票所と定められた所内中央公会堂において、明らかに投票行為を行なったのは、同月30日執行の県会議員並びに草津町議会議員選挙の時からだった。

栗生楽泉園患者自治会編『風雪の紋』

なぜハンセン病患者は療養所に入所と同時に「選挙権」を剥奪されたのか。
それは、入所者は「救護法」により国又は地方公共団体の救護を受けているということで、選挙権および被選挙権を与えられていなかったからである。

1929(昭和4)年4月に公布された「救護法」(32年1月施行)は、「隣保相扶」の原則に立ち公的扶助の対象をきびしく限定した。それまでの「恤救規則」(1874年)に対して、65歳以上の老衰者、13歳以下の幼者、妊産婦、精神または身体に障害があり労務を行えない者が貧困によって生活できないときに、主として居住地の市町村長が救護するとされた。その費用については、道府県は市町村の負担の4分の1、国は2分の1以内を補助するとされ、はじめて公的扶助義務を認めるものであった。しかし、扶助の対象には年齢制限があり、被救護者の選挙権の欠格条項も適用されていた。

1925(大正14)年にいわゆる「普通選挙法」が制定されることによって、男子25歳になると納税の有無に関係なく選挙権が与えられる“普通選挙制度”が実施されたにもかかわらず、選挙権が剥奪されたのである。それはなぜか。選挙権は「一人前」とされる者に与えられるものであり、救済を受けるのは「一人前ではない」という考えからであった。

戦後になっても公私の扶助を受ける者には選挙権が与えられていなかったが、法の下の平等を明記した日本国憲法の施行を目前にした1947(昭和22)年4月、参議院が開設された際に、この規定はなくなり、5月になって衆議院でも撤廃された。ようやく、隔離されたハンセン病患者も参政権を手にしたのである。そして、この選挙権獲得が、入所者を政治に目覚めさせることになり、後の「特別病室」問題から発展した「人権闘争」につながったのである。

全国のハンセン病療養所を舞台とした患者運動は、戦後、入所者に公民権が認められ、入所者が選挙権、被選挙権を得たことで大きな転機を迎えた。公民権を得る前は、政治家にとって“票田”としての魅力がなかったせいか、療養所は政治から治安政策を除くとまったく見向きもされない存在だった。世間からも政治からも見放されたまま、劣悪な環境に甘んじざるを得なかった入所者たちの境遇を想い、改めて悲憤の念を禁じ得ない。

戦後最初の大きな患者運動となった栗生楽泉園の人権闘争も、きっかけとなったのは新憲法に基づく入所者の選挙権獲得だった。療養所に初めて政党の選挙運動員らが入り込むことで、閉ざされた園に風穴があいた。楽泉園には、1947年8月15日投票の参議院補欠選挙を目前にした8月11日、共産党の運動員5人が入ってきた。入所者の青年たちが排水溝の普請に従事していた。「君たちは患者だろう。なんでこんな仕事をしているのかね」と問いかけたのが端緒となり、強制労働や「特別病室」の驚くべき実態が運動員たちに明かされた。同夜、共産党と患者たちとの懇談会が急遽催され、園の職員の不正行為への怒りの声も噴出し、党側は闘うことを勧めた。8月15日夜、投票直後の中央公会堂で第1回患者集会が開かれ、人権闘争が本格的に始まった。

『ハンセン病問題に関する検証会議 最終報告書』

社会から隔絶されていた療養所に「外からの新風」が吹き込んできたのである。その風によって、諦めて日々を過ごすしかなかった入所者が覚醒したのである。

『全患協運動史』や各園の自治会史、『全癩患協ニュース』、史料などを読む中で、「らい予防法」改正反対闘争の組織力や政治力はもちろんだが、彼らが作成した意見書や要望書等々に見られる憲法や法律に精通した文章や記述、あるいは厚生省との交渉記録の発言には驚きを禁じ得なかった。彼らの中に有名大学の卒業生や在校生、有名企業や銀行などのエリートおよび技術者がいたことは知っていたが、それだけではなく、彼らは貪るように学習し、寸暇を惜しんで努力し、専門的な知識を蓄えていったのだ。それは、まさに彼らにとって「生きるための学習」であった。

当時の入所者、とりわけ患者運動のリーダーたちが憲法を教科書にして懸命に学習し、人権に目覚めていった経緯は多くの証言から明らかである。革新陣営を中心とした政党関係者や労働組合幹部らが講師となり、療養所内での学習会が頻繁に開かれていた事実にも注視しなければならない。

菊池恵楓園で自治会長を1959年以降、通算9期務めた荒木正氏には鮮烈な記憶があるという。1948年ごろ、現職の検察官が新患として入所してきた。この検察官はハンセン病療養所の待遇と暮らしぶりに憤慨し、当時の宮崎松記園長に「憲法違反の運営は許しがたい」などと直談判した結果、治癒したとされて2週間ほどで退園していったのだが、その間、青年団長を務めていた荒木氏に施行後間もない新憲法が保障する基本的人権について繰り返し教授し、らい予防法と入所者の自由を認めない療養所の実態がいかに憲法に違反しているかを強調したという。そして、退園する際には5、6冊の憲法の解説書を荒木氏に渡し、参考にするようにアドバイスしていった。荒木氏は譲り受けた本を貪り読み、図書館に収めて青年団のメンバーらで回し読みもした。荒木氏は「青年団として決起し、園当局と対決していく契機とも、理論的根拠ともなった」と語り、予防法闘争当時は多くの入所者が基本的人権を意識した上で参加していたという。

こと憲法に関しては、恵楓園では荒木氏は特別な存在ではない。歴代自治会役員の証言によれば、予防法闘争前から自治会の役職に就いた者は『小六法』を購入して憲法をはじめとする法令について懸命に勉強することが暗黙の了解事項とされていた。20人近くが『小六法』を手にして議論することも少なくなかったという。自治会では社会党系の執行部が長く続いたことからか、総評系の労働組合幹部を講師に招いた憲法の勉強会が何度も開かれたりもした。それとは別に昭和20年代から30年代にかけて、「社会科学研究会」が結成され、資本論や共産党宣言とともに憲法解釈を学習したという。

自治会が憲法の学習に熱心だったという点では、星塚敬愛園も似たような状況だったようだ。憲法施行後間もなく、敬愛園の自治会では六法全書や憲法の解説書を3、4冊ずつ購入し、自治会役員が回し読みした。難解で理解できないという入所者のために、大学の教員だった入所者が優しく噛み砕いた表現にした解説文を作成し、ガリ版印刷して配ったこともあったという。
また、新良田分校が開設される前は、園内に中学を卒業した者のための教育機関として「公民科」と呼ぶ独自の学習塾が開かれ、国語、数学、英語、社会などを教職出身の入所者らが指導に当たっていたが、その社会の授業の中では、予防法闘争の意義を解説するために憲法や予防法がしばしば取り上げられたといわれている。

『ハンセン病問題に関する検証会議 最終報告書』

彼らを学習へと駆り立てたものは何だったのか。野谷は、次のように述べている。

…この憲法の出現によって原理的には光田氏理念は壊滅したはずである。しかし他の多くの場合と同様にそうではなかった。「相変わらず戦争下のシステムがしかれ、権力がにらみをきかしていた」(盾木弘氏)。そして新憲法の精神の具体化は下から、つまり療養者自身の力に待つところが多かった。
…新憲法の精神に基く最初のそして重要な意味をもつものは二十二年夏の生活よう護運動であった。たまたま起った楽生園の重監房問題は、この運動に火をそそぐ結果となり、九月九日には患者大会が開催された。これには外部団体も参加し決議討論が行われ異常な興奮をもり上げた(それは当時の全国的な風潮をあらわすものであろう)。そこで決議されたことは要するに「俺たちを人間扱いしてくれ」ということだろう。「これらの諸要求は過去数十年にわたる暗黒生活の間、抑えに抑えられた人間性のほとばしりであって、ハンセン氏病療養所の歴史的な転換点であり、いわば一種の革命であった。このときから、われわれの療養所は質的転換の第一歩をふみだしたのである」(湯川恒美氏)。

野谷寛三「ライ療養所の論理と倫理」『ハンセン病文学全集』5評論

いかに理不尽であろうとも、ハンセン病者であるというだけで強制収容され、一生隔離されることを甘受するしかなかった入所者にとって、半ば諦めての療養生活であった。「人間扱い」など望むことすらできなかった。外からの情報すら管理されていた彼らにとって、「光田イズム」に従って生きることしかなかった。そんな彼らが新憲法を知り、新しい時代の到来を肌身で感じたことで、まさに自分を取り戻すことの可能性を見出したのである。そのために何が必要か。彼らは理不尽さと闘う「武器」を憲法と法律に求めたのである。

フランスの詩人ルイ・アラゴンの名言に「教えるとは希望を語ること、学ぶとは誠実を胸にきざむこと」がある。

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藤田孝志
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。