『特殊部落調附癩村調』
1916年,ハンセン病療養所全生病院は,北海道庁および各府県に対して,市郡単位で「私宅療養癩患者調」ならびに「特殊部落調附癩村調」の調査を依頼・実施している。
藤野豊氏の論文『ハンセン病問題と部落問題の接点―「特殊部落調附癩村調」の意味するもの―』をもとに,まとめておきたい。
この調査が意味するもの,実施された時期,その歴史的背景をみていくとき,国家による「民族浄化」が国策として実施されていく過程がわかる。
「癩予防ニ関スル件」(1907年)が制定された背景として,1899年に外国人の「内地雑居」を認めたことが大きい。藤野氏も「註」として紹介しているが,小熊英二氏が『<日本人>の境界』で述べているように,「北海道旧土人保護法」(1899年制定)も同じ背景(理由)であり,監獄法や精神病者監護法の整備も同じである。つまり,「欧米人の視線から<野蛮>ないし<汚濁>とみなされかねない存在を隔離し被いかくす対策」であった。この延長線上に本調査もあったと考えられる。
本調査が実施された当時の全生病院長は光田健輔である以上,光田の意向により調査がおこなわれたのは自明のことである。
当初の光田は,島への絶対隔離を即座に実施することは無理と考え,全国にある癩村・癩部落を「癩病療養区域」に設定して周囲と厳重に隔離しようと考えていた。
光田は,これらの調査の項目に「癩部落,癩集合地」だけでなく「現在癩患者ナキモ口碑伝説等ニ存スル癩部落,集合地等」も報告するように求めている。しかし,患者の絶対隔離の場所は「島」が選ばれる。光田は保健衛生調査会委員として島の調査をおこない,沖縄県西表島を最適と報告している。
なぜ「島」(離島)が選ばれたのか。それは患者の逃走を防ぐのに有効であったからである。
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当時,被差別部落には近親結婚・血族結婚により「天刑病」(ハンセン病)が多いという俗説が流布していた。本論文で,藤野氏が引用している資料を転載しておく。
被差別部落には血族結婚によってハンセン病患者が多いということは,ハンセン病を「遺伝病」とみなしていることになり,恐ろしい感染症であるから絶対隔離が必要であるとする光田の考えと矛盾するように思える。藤野氏はこの疑問について,「体質遺伝」の考えが光田にあったとする。つまり,光田はハンセン病に罹りやすい体質が遺伝すると考え,それを理由の一つとして「断種」手術の必要性を述べている。このような俗説が世間にある中で,被差別部落を「癩病発生の病竈地」とする全生病院教誨師であった真宗大谷派僧侶本多慧孝の報告は,絶対隔離を目指す光田に大きな影響をあたえた。だから,彼は本調査をおこなったのである。
この結果,ハンセン病と被差別部落を結びつける偏見はより強く人々に広まり,被差別部落との婚姻忌避は助長され,ハンセン病患者の絶対隔離が正当化されていったのである。
『部落解放研究』に掲載された宮前千雅子氏の論文「前近代における癩者の存在形態について」は,前近代におけるハンセン病者の実態を概観しながら,近代のハンセン病隔離政策を支えた「差別意識」の歴史的背景を明らかにしている。特に,古代から近世までのハンセン病者がどのような存在として社会の中で位置づけられていたか,近世の身分制においては「穢多」「非人」身分との関わりはどのようなものであり,身分としてどのように社会的に位置づけられていたかを考察している。
光田健輔が「特殊部落調附癩村調」を実施した背景について,宮前氏は次のように述べている。
支配者・支配構造・政治形態などは時代の変遷によって変わっていくだろうが,人々の認識や意識はなかなか変わるものではない。それが偏見や先入観であれば尚更だろう。差別意識が払拭されにくい理由の一つもそこにある。
光田がハンセン病患者を救済したい,ハンセン病を撲滅したいと決意・実行したことは称賛すべきことである。だが,その方法論に大きなまちがいがあった。その方法論の背景には彼のハンセン病に対する認識の中に差別意識がなかったとは言えないだろう。