ハンセン病と被差別部落
『ハンセン病問題に関する検証会議 最終報告書』(日弁連法務研究財団)の「社会に流布したハンセン病観」に,ハンセン病と被差別部落を結びつけた俗説に関する記述がある。
1.民衆のハンセン病観
…被差別部落にハンセン病患者が多いというのは,事実ではない。しかし,そうした俗説が存在したことは事実である。ハンセン病を遺伝病とみなしたうえで,差別による婚姻忌避で被差別部落には「近親結婚」が多いため,ハンセン病も多発するという論理である。
実は,この論理は近代初期から存在する。福沢諭吉の門下生で,福沢が発行する『時事新報』の記者であった高橋義雄は,1884(明治17)年,『日本人種改良論』を著わすが,そのなかで「往日封建ノ世ニハ士農工商穢多非人各階級ヲタテテ容易ニ相婚スルヲ許サズ穢多非人ニ至リテハ之ト火ヲ一ニセズ況ンヤ結婚ノ沙汰ニ於テヲヤ……(中略)……今日ニテハ旧時ノ穢多非人モ既ニ平民ニ列シテ人間並ノ交際ヲ為スニ至リタレバ此輩ノ血統モ亦社会ニ広マル可キナリ」「下流ノ人民中ニハ癩病遺伝ノ家少ナカラズ」と述べている(『明治文化資料叢書』6巻,風間書房,1961年)。高橋義雄は,1871(明治4)年の「賤民廃止令」により,旧賤民と平民との通婚が可能になり,「癩病遺伝」などの「血統」が社会に広まることを憂いている。
さらに,1905(明治38)年,九州帝国大学講師で古代史学者の森貞三郎(三渓)は,『東京経済雑誌』1272号~1274号に「穢多と戦敗者」を連載し,そのなかで「明治四年穢多非人の称を廃し,平民に列せられて,常人と雑居するに至れりと雖も,祖先以来不潔なる生活に甘ぜし彼等の習慣は,潔癖なる日本人種の擯斥する所となる,且や彼等が一村内近親婚姻をなせし結果として,又乞丐社会の不潔なる食物を食ふ結果として,穢多乞丐間には往々癩病の血統あり」と述べている。被差別部落には,劣悪な衛生環境と外部との通婚禁止による「近親結婚」とにより「往々癩病の血統」があるという趣旨である。
この他,社会学者の高木正義は,滋賀県下の被差別部落を調査した際,ハンセン病患者がいなかったことについて「奇なるかな」という感想を漏らした事実(「滋賀県南野貧民窟」2,『社会』1巻8号,1899年10月),徳島県が県下の勝浦郡のある被差別部落を調査した際,やはりハンセン病患者がいなかったことについて「専門家の研究を要する好資料ならんか」と評価している事実(徳島県内務部編『特殊部落改善資料』,1910年)など,被差別部落にはハンセン病患者が多いということを前提にしたうえでのものである。さらに,東京朝日新聞の記者大庭柯公も,「近親結婚」により被差別部落にハンセン病が多いと記している(「所謂特殊部落」,『大観』1巻6号,1918年10月)。
社会的には,ハンセン病を遺伝病とみなす認識が広く流布していたことは疑いえない。1937(昭和12)年に刊行された小松茂治『癩の社会的影響』(診療社出版部)にも,被差別部落にはハンセン病が多いが,その一因は「血族結婚」によると説明されている。このようなハンセン病を遺伝病とみなす認識は,被差別部落への婚姻忌避を正当化するものであったことは明らかである。
2.本多慧孝の認識
こうした,被差別部落にハンセン病患者が多いという偏見に満ちた俗説のなかで,無視し得ないのが,全生病院教誨師であった真宗大谷派僧侶本多慧孝の認識である。本多は,1912(大正1)年9月より全生病院の教誨師となり,1913(大正2)年3月から5月まで大谷派の命により,「全国の癩病療養所と私立癩病院と癩村とを視察して,西は鹿児島県より北は北海道に至る迄,大小隈なく巡歴せり。此際特に地方に就て癩病発生の病竃地を調査し」,その結論として「一に落武者の土著せし者及び遠来の帰化人の土著せし特殊部落にして自ら他と婚姻を避けて血族結婚をのみ為せるを以て同族間に伝染したれども,幸に穢多と称せられて社会より度外視せられしを以て,社会に伝染する事少なかりき」と述べている(本多慧孝「国家的解決を待つ癩病問題」,『国家医学会雑誌』330号,1914年7月)。本多の視察には全生病院長池内才次郎,同病院機関士中野辰蔵も同行している(本多慧孝「癩探」,『救済』3編5号,1913年5月)。本多の視察は単に真宗大谷派の命じるところだけではなく,全生病院の活動の一環でもあったと考えられる。そうであるならば,「癩病発生の病竃地」として被差別部落を特定する本多の認識は,光田健輔らハンセン病患者の絶対隔離を目指すひとびとにとり,無視し得ないものとなる。全国の被差別部落の所在地を把握しておこうと考えるのは自然であった。
1916(大正5)年5月12日,全生病院は,北海道庁と各府県に「特殊部落調附癩村調」を照会した。「特殊部落」とは,19世紀末に成立した被差別部落に対する差別的呼称である。なぜ,全生病院がこのような調査を照会したかと言えば,被差別部落にはハンセン病患者が多いという俗説があったからである。絶対隔離に向けて,俗説であろうとも,被差別部落の所在地を確認しておこうというのが,この調査照会の目的であったと考えられる。また,ここにある「癩部落」とは,実際にハンセン病患者がいるかどうかではなく,「癩血統者」の村として婚姻忌避などの差別を歴史的に受けてきた集落である。
被差別部落が周辺からの差別によって婚姻を忌避され「近親結婚」を繰り返してきたためにハンセン病を多発したという俗説である。まったく根拠のない俗説であるが,一部の偏見と差別意識をもった学者や新聞記者がその俗説を作り上げて流布したとは考えられない。むしろ当時の民衆の中に,そのような俗説や論理の背景となるような被差別部落やハンセン病患者に対する意識があったと考えられる。
もちろん,学者や新聞記者がそのような俗説を「事実」として文章化して公言したことによって社会に広まり,人々がそれを信じたことで「事実」化したのである。当時の民衆の中にあった偏見や差別が学者・新聞記者によって助長され固定概念化されたのである。相乗作用が働いたのである。
このような歴史的背景,民衆の中に浸透していた偏見や差別がハンセン病患者に対する排除を,そして光田らによる絶対隔離政策を容易にさせたのである。長きにわたる絶対隔離政策に対して民衆が無関心・放置してきた理由もここにある。
明治初年にこのような俗説が流布された事実をどのように考えるべきか。
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部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。