光田健輔論(5) 偏執と固執(2)
光田健輔は、『愛生園日記』『回春病室』と題する2冊の自伝的回想録を書いている。『愛生園日記』の「ライ医学者になるまで」「養育院時代」より、若き日の光田の動きをまとめておく。
21歳の東京大学専科の医学生として病理学教室に在籍していた光田健輔とハンセン病との最初の出会いであった。この死体から病変組織の一片をもらい、1年以上保存して詳細に調べている。そして、国内外の医学雑誌に掲載されているハンセン病に関する論文を読み漁り、教授にも意見を聞いてみるが、確かなことはわからない。そこで、「どうしても自分で研究してみるよりほか方法がない-と一念発起したのが、そもそも私がライと取り組むことになった動機である」と述べている。そして、「私は偉大な学者にはなれなくても、ライを日本で根絶させることを生涯の仕事にしようと決めた」と書いている。
研究と勉学に励みながら、ハンセン病に取り組んでいた光田は東京大学専科を卒業後、東京大学雇医員、養育院勤務となる。当時の養育院について光田は次のように書いている。
これが「回春病室」の始まりである。「不潔で臭くて気持ちが悪い」ので、ライ患者の世話を嫌がった同僚たちに反して、光田は回春病室の仕事を「全くうってつけの天の導きだとさえ考え」たという。他のさまざまな病気の患者を診ることも「修業」だと思い、ライの研究にも大いに役立ったと回想している。
一週間の勤務が終わると私は日曜を待ちかねて、わらじがけでライ者の密集している場所へたずねて行った。東京付近では草津温泉、伊豆、身延、秩父、奥利根のあたりに多かった。ライはある時期は無熱で労働にも耐えられるから、ライ者が健康人の中にまじって働き、同じように生活しているのは珍しくない。このため、家族内伝染はむろんのこと、部落にまで伝染して、一患者の周囲には必ず二、三人の初期の同病者を発見するのが常であった。それもそのはずで、水の乏しい所などでは、一軒の湯屋に何百人という老若男女が、ライとともに平気で混浴している。抵抗の弱い小児などは、ライになるように自然に仕向けられているようなものだ。
養育院での死体の解剖が許されていないにもかかわらず深夜に無断で解剖を続けたり、自費で包帯や薬を用意して、休暇を使って遠く四国三十三ヶ所や愛知の知多半島、熊本のリデル女史の「回春病院」まで視察旅行(ライ部落行脚)をしたりしたという。私は、このような光田の研究熱心さと行動力は、十分に敬服に値すると思う。このときの実体験が光田のハンセン病に対する認識と絶対隔離の必要性を確信させたのであろう。
私は、光田健輔のハンセン病患者に対する「慈愛の念」を認めるが、その一方でハンセン病に対する恐怖心と使命感の強さ、異常なほどの過信と自負心を感じる。
光田がハンセン病対策の表舞台に出る契機となったのは、1905年の渋沢栄一が開いた銀行倶楽部の会合であった。その経緯を『証人調書④成田稔証言』の成田氏の「意見書」より転載する。
内務省衛生局長の窪田静太郎、衆議院議員の山根正次・島田三郎、田川大吉ら各新聞社の代表が一同に参集したのも、財界の重鎮である渋沢栄一の声かけがあったからだろう。
光田は『愛生園日記』に「そこで私は明治三十五年に『ライ病隔離必要論』をまとめて出版し、一般社会の認識を高めようとした。しかしいまとちがって世論を喚起する方法も少なく、私ごとき貧書生が百万言を費やしても、顧みる人はほとんどいない。私はこの書をもって、渋沢氏に執拗にくいさがった。私がじたばたするよりも多くの影響力を持っている渋沢氏を動かすことのほうが効果があがると思ったからだ」と書いている。
光田の思惑のとおり、新聞各社もハンナ・リデルの訴えに好意的な報道を行うと同時に、光田の講演をもとに、ハンセン病がきわめて恐ろしい感染症であり、そのために隔離が必要であり、政府側からもそのための法案提出の意向が示されたことなどが報じられた。
以後、光田はハンセン病の専門医として台頭し、ハンセン病対策として隔離の必要性を訴えていく。その主張に呼応するかのように、同郷の山根正次らが議会に働きかけて法案の成立を急いでいる。以後の政界の動きをまとめておく。
1902年の第16回帝国議会の衆議院に群馬県医師会長でもあった斉藤寿雄らが「癩病患者取締ニ関スル建議案」を提出している。斉藤も根本と同様に、ハンセン病対策の必要性を訴えているが、さらにハンセン病患者の取り締まりや病気の予防を目的とする法律の制定も求めている。
翌年の第18回帝国議会には元警視庁警察医長の山根正次が「慢性及急性伝染病予防ニ関スル質問書」を、さらに第21回帝国議会(1905年)に「伝染病予防法」にハンセン病も含むべきだという改正案を、第22回帝国議会(1906年)には「癩予防法案」を続けて提出したが、いずれも成立しなかった。
この動きに光田健輔はどのように関わっていたのか。光田の回想録『愛生園日記』に、次のような記述がある。
「養育院での私の身分はまだ雇であった。雇のくせにずいぶんと生意気な行動をとっているようだが、ライのことにかけては、当時としては私が精しいほうであったろう」と自らも書いているように、相当の自負心であるが、確かにそれだけの努力と実行力は認める他はない。
光田健輔と山根正次ら代議士、政府(内務省)は、たとえ「思惑」はそれぞれにちがっていても、<癩の根絶>という最終の目的は同じであることによって結びついた。
代議士や政府は、対外的な理由、すなわち欧米列強に「文明国」「一等国」と認められ、その一角に食い込むことであった。そのためには、国内のハンセン病患者を一掃することが急務であった。政府にとって軍備拡張を推進するためには、国民の「一等国」意識を高揚させる必要があり、優生思想を利用した「民族浄化」という犠牲が必要であった。
代議士や政府の後押しで「権威」を得るに至った光田は、自説の正当性を確固たるものにするためには、政府の意向に都合のよい理論を主張することで、主導的立場を堅持しようと考えた。
この当時、光田の発表した「癩病患者に対する処置に就いて」(「東京養育院月報」59号、1906年)に自論を展開している。藤野豊氏の『「いのち」の近代史』から引用しておく。
光田のハンセン病に対する認識および対策の考えは、この時期には確立している。以後、光田は自らの考えを「国策」として実現するために、渋沢や内務省を後ろ盾にして第一人者の地位を確かなものとすることで発言力を強めていく。それは、やがて光田の他を寄せ付けない権力者として君臨していく。