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光田健輔論(59) 「三園長証言」の考察(8)

林芳信は、大正3(1914)年5月、全生病院医員となる。同年2月、光田健輔は全生病院長に任じられている。以後、昭和5(1930)年に光田が長島愛生園長として赴任するまで、林は光田の指導と教化を受けた。また、翌6年5月に、林は全生病院長に就任している。まさに光田の薫陶を受けた第1世代の門下生といってもよいだろう。

林が光田健輔について、その思い出を語っている短文は『光田健輔の思い出』の中に、桜井方策に次いで多く5編が収録されている。これらを読むと、林が光田にどれほど心酔しているかがよくわかる。(もちろん、林だけではないが…)

ある日、といっても大正中期のころである。全生病院長光田先生は、会議室に全職員を集めて諄諄と説いていた。
わが国は多数の癩の患者がいるが、それらは路傍に屯して乞食をしたり、自宅の押入や、土蔵の中、また納屋の隅に閉じこめられ、まことに悲惨なままに放置されている。この人たちを一日も早く、一人でも多く療養所へ迎え入れたい。しかし、今も状態ではとてもそんな余裕はない。政府も府県もなかなか拡張する予算を出してくれない。一人でも多くの患者を救い、伝染防止の効果をあげるためには、少々無理をして、定員を超過してでも患者を収容せねばならない。…社会的見地からも、人類愛からいっても、悲惨な人が一人減ることは大きな意味があり、国家に貢献することも大である。職員諸君もこの国家的事業のために、一層協力していただきたい。
誠意の限りを披露されたお話しであった。それ以来、全生病院は昭和二十一年に至るまで、既に一、二割定員増加をつづけていた。職員も患者も、いわゆる救ライ戦線の勇士だという自覚と自負心に燃えていた。

林芳信「光田イズム」

一読すれば、「救らい思想」のすばらしい逸話である。確かに光田は「政府や府県」にあらゆる手段を講じながら掛け合って予算増額を要求し続けただろう。しかし、それは軍国主義国家建設へと向かう時勢において困難なことであった。それでも、国立療養所の設置と増床、無らい県運動の全国展開、さらに「十坪住宅」などへの寄付活動などを考えれば、強制収容と絶対隔離は着実に成果を挙げていったと考える。私は、これらを振り返るとき、光田らの執念とも思える情熱と尽力に驚嘆する。

このような林が光田に反する意見を述べることは考えられない。林の証言を検証してみたい。

<林芳信>
…まだ約六千名の患者が療養所以外に未収容のまま散在しておるように思われます。…これらの患者は周囲に伝染の危険を及ぼしておるのでございますので、速かにこういう未収容の患者を療養所に収容するように、療養施設を拡張して行かねばならんと、かように考えるのであります。大体二十六年度末におきましては一万一千の収容能力ができると思います。その上将來なお四千名ぐらいの収容施設が必要なのではないかと思います。この療養所の拡張につきましては、現在あります療養所を適当に増設いたしまして拡張するのがよいかと存じます。…

…ついでに将來癩患者の収容に対する問題でございますが、これは從來の経験によりますると、在宅患者を療養所に誘致するということには相当な困難が伴いますので、これにつきましては在宅患者に十分癩そのものの知識又療養所の現在の状態、それらのことを十分認識せしめ、即ち啓蒙運動が非常に必要でございます。一方又患者が療養所に入所いたしましても、家族のものが生活に差支えのないようにというふうに国家が家族の生活を保障するということが非常に大切なことでございます。而も病気の性質上、その家族から患者が出たということが世間に知れますというと家族が非常な窮地に陥りますので、世間に余り知れないような方法において家族を救済するということも、生活を保障するということも必要だと思います。

光田健輔に比べて、林の意見は「啓蒙運動」の必要性や患者家族の生活保障に言及するなど、患者のことを考えていて評価できるが、絶対隔離の維持という点では変わらない。

次に癩予防及び治療の問題でございますが、…癩予防は現在のところ伝染源であるところの患者を療養所に収容するということが先ず先決問題でございますが、癩予防の知識普及ということも必要でございますし、又一方現在癩予防法はもうすでに制定になりましてから四十四年を経過しておりまする古いものでございますし、時勢に適合するように適当に改正されることが至当であろうと考えます。

次に治療の問題でありますが、これは現在相当有効な薬ができまして、各療養所とも盛んにこれを使用しておるのであります。厚生省におかれましても相当な予算が計上されまして、只今のところこの金額に対しての薬の配給は大体必要量は供給されておつて、患者も非常に喜んでおります。先ずその治療の結果も相当に上りまして、各療養所におきましても患者の状態が一変したと申してよろしいのでございます。…只今も極く初期の患者でありますれば殆んど全治にまで導くことができておるような状態でございます。なお続いて一段と治療の方面の研究が大切だと思います。

患者を「伝染源」と考えている一方で、プロミンなどの新薬で「全治にまで導くことができておる」と言う。この矛盾を林は理解しているのだろうか。「伝染源」である患者をすべて<療養所>に収容し、「有効な薬」で治療すれば「全治」できるという療養所主義、すなわち絶対隔離こそが「唯一の予防法」とする光田由来の方法に固執しているだけである。「全治」するのであれば、療養所以外でも治療は可能なはずであり、「全治」すれば退所も可能なはずである。

やはり、ここでも彼らを呪縛しているのは<光田イズム>であり、光田の「癩は不治」という持論である。「癩は不治」=「患者は伝染源」(病毒源)、それゆえ「再発」するという旧来の認識は変わっていない。

成田稔は『日本の癩対策から何を学ぶか』で、『全癩患協ニュース』第23号(1952年11月)に掲載された、「三園長証言」後におこなわれた患者と療養所所長(園長)たち<松丘保養園(阿部秀直)、東北新生園(上川豊)、栗生楽泉園(矢島良一)、多摩全生園(林芳信)、駿河療養所(高島重孝)、菊池恵楓園(宮崎松記)>6人との「懇談」の中で「懲戒検束規程」に関連した討議をまとめている。林の発言を抜粋して引用する。

林は、ことあれば戒告程度として検束は行わないと言いながら、善良な患者を守るためには何らかの条項は必要であり、そのような権限が所長に付与されてもよいとした。…全患協事務局が具体的な説明を求めると、賭博、窃盗、器物破壊などをあげ、賭博や窃盗は犯罪だが、警察は所内にまでなかなか手を回さないから、やはり何かが必要になると答えた。

林はなお持論に固執し、らいは伝染病であって、国民をそれから守るための療養所だから、患者は病毒を伝播しないように一定の場所にいてもらうのが、社会の要求であり、所長には脱走に対して罰するような権限が必要だと譲らなかった。

成田稔『日本の癩対策から何を学ぶか』

林は入所者の激しい抗議を受けて自らの「証言」を撤回しているが、本心は何ら変わってはいないことが明らかである。成田が「このときの懇談でも、隔離優先、らい療養所中心、懲戒検束などの旧い時代の認識が、化学療法の新しい時代を迎えてもなお、所長ら(全部とはいえないかもしれないが)の中には根強く残っていた」と書いているように、彼らの認識は「プロミン以前」で時間は止まっている。むしろ時代に逆行するように、より強硬な強制収容と絶対隔離を求めていた。

また、この「懇談」において、林は現行の癩予防法には「非人間的なものはない」とまで言い切っている。上川にしても、新憲法になってからは「非人間的な」強制収容はやってないと思ったと、本当に実態を知らないのか、それとも「非人間的」という意味をわかっていないのか。

それは、繰り返しになるが、<患者=「病毒を伝播」する感染源>であり、ハンセン病から国民を守る(感染させない)ため(社会防衛論)であり、そのためには<すべての患者を絶対隔離>する必要があるという考えに固執しているからである。<予防即隔離>という認識から抜け出せないから国際的な情勢にも無関心なのだ。厚生省や所長たちが患者をどのように見ているかを端的に表しているエピソードがある。

湯川(恒美:全癩患協事務局)の思い出話だが、尾村偉久(国立療養所課長)は患者とのある懇談の席で、腹を立てずに聞いてほしいと前置きして、あなた方は療養所に住む毒のないおとなしい蛇のようなもの、ただその姿の醜さを皆は嫌っているといったという。…尾村の比喩的でしかも端的な厚生省の本音の中に、患者にとって療養所ほど住みよい場所はなく、それを捨てるような愚かなものは懲らしめられて当然という思いがよくうかがわれる。もっともこの本音は、厚生省ばかりではなしに、国会議員らの思いの中にもあったらしい。湯川は、われわれを支援した国会議員の多くも、全患協の要求に理解を示していながらも、実際は古い癩のイメージを捨てきれずに、戸惑ってもいたようだったと覚めた見方をしている。

成田稔『日本の癩対策から何を学ぶか』

患者に対する「視線」は、隔離に甘んじている限り「同情」される存在であるが、隔離に少しでも不満を表すと、「蛇蝎」のごとき嫌悪を示す。それが彼らの本性である。そんな本性を心に隠している人間が患者に対して「人間的な」扱いをするはずもないだろう。

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藤田孝志
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。