光田健輔の著書『回春病室』に「ライ刑務所」と題した一文がある。光田の考えがよくわかるので、抜粋して引用するとともに、私見を述べてみたい。
当時の療養所に実情として、全国各地より「浮浪患者」が送り込まれてくる。さらに「癩予防法」(1931年)により在宅患者を含むすべてのハンセン病患者の絶対隔離が始まり、あらゆる患者が収容されてきた。当然、犯罪者も麻薬(モルヒネ)中毒者もいたであろう。ハンセン病を恨み自暴自棄になっている患者も少なくなかったであろう。さまざまな患者に翻弄される施設管理側の困憊は想像にむずかしくはない。光田の苦悩や苛立ちも理解できる。
この文章だけなら至極もっともな意見であり、実態を知らなければ誰もが賛同するだろう。しかし、実態はちがう。光田の愛生園も他の療養所も実態は「療養所」ではなく、まるで「人足寄場」「タコ部屋」であった。
患者は狭い部屋に何人もが押し込まれて住まわされた。断種処置により夫婦生活を許されても、同じ部屋を仕切りで分けただけで複数の夫婦が雑居させられた。何より「療養所」でありながら医療や介護する職員が圧倒的に不足していた。本来あり得ない患者作業も、光田は患者の「慰め」であり、患者にも「恩恵」があると考えていた。
光田の「大家族主義」の考え、儒学的家父長制の倫理が反映されている。それ以上に、医師としての責務や自覚はなかったのだろうか。同じ疑問を、宮坂道夫氏は『ハンセン病 重監房の記録』で、次のように書いている。
患者たちの手記を読むほどに、光田ら医師のハンセン病患者に対する冷酷さ、むしろ人間としての感覚に疑問を感じる。はたしてハンセン病者は「患者」ではなかったのだろうか。彼らは「収容者」としか見ていなかったのではないだろうか。
解剖が趣味としか思えない光田にいたっては、ハンセン病患者は「研究用のモルモット」程度にしか見ていなかったのではないか。だからこそ、「虎の威を借りた」権力によって高圧的に支配し、自分に逆らったり反抗したり、意に沿わなかったりする患者に対して<暴力>によって抑え込もうとしたのではないだろうか。そのための「懲戒検束権」であり、「監禁所」であり、「重監房」であったのだ。
何を言っているのか、「明朗になった」のは自分と職員、同調する一部の患者だけだったであろう。<暴力>による抑圧のために「重監房」を設置し、逆らう患者や意に沿わぬ患者に対して「脅し」の手段(「草津送り」)として「抑圧」しただけである。物言えぬ患者を作り上げた結果が自分たちにとって居心地のよい「明朗な」療養所になっただけである。
上記に続けて、光田は自己正当化の論理を次のように述べている。光田の偏狭な独善性が明らかに伺える。
時代がちがい、人権に対する認識や意識が稚拙であったにしても、論理の破綻は明らかである。自分たちに都合のよい解釈、自己弁明に過ぎない。
監禁所に入れているから、入れられるような不良患者だから「治療や給與」が行き届かなくても仕方がないのか。明らかな「懲罰」であり「見せしめ」であることの言い訳、自己正当化である。「過去数十年間」の「困難な事情」や「永い間ライのために危険を冒して働いていた」ことと、監禁し「治療をしない」「食事を与えない」こととは、全くの別のことである。理由にはならない。
ここでも光田は「目的のために手段を正当化」している。
善良な患者の平安のため(目的)には、不良患者は「重監房」に追放(手段)しても構わないのか、「治療をしない」「食事を與えない」ことは構わないのか、「重監房」で死に絶えても構わないのか。独善性であり、自己正当化である。この考えは光田だけでなく、「光田イズム」に毒された他の療養所長も同じであり、園長という虎の威を借りた施設長から末端の職員まで、さらに横暴な対応は激しくなったように思う。
この一文(「ライ刑務所」)の最後に、光田は次のように書いている。
光田の著書や彼の弟子(内田守)が書いた伝記など研究対象でなければ、高い古書代を支払ってまで買いたいとは決して思わない。自己正当化と偏狭な独善性、自慢話に終始する文章など、読みたくもない。しかし、世の中には同じような考え(あるいは性格か)の人間は少なからず存在する。
最後に、絶対隔離という目的のために正当化された「手段」(暴力装置)を年表としてまとめておく。