第3回国際癩会議(1923年)において、癩は不治の病ではないとの認識により、治療に重点を置く人道的隔離が決議されたにもかかわらず、光田は大風子療法に勝る治療法はなく、それもほぼ10年で再発するから隔離して治療するのが予防上最も安全であると絶対隔離を主張した。
成田稔氏は「光田らの主導する公立癩療養所の拡張と隔離最優先を掲げて絶対隔離を目指す中で、この対策の前途を危惧した」人物として、当時長崎医専教授から長崎皮膚科病院を開院していた青木大勇の改善意見を紹介している。抜粋して引用する。
至極もっともな意見である。今日では誰も反論する余地すらないであろう。だが、当日はこの意見に真っ向から反論するものがいた。光田の弟子である林文雄である。彼は全生病院や長島愛生園で光田に直接指導を受けた。
まるで光田が反論しているかのように聞こえる。光田の論理そのままであるが、両者の意見を対比させてみれば、それぞれが自覚している「立場」が明らかになる。
青木は医師として患者を治療する立場に立ち、林は療養所の管理者、そしてハンセン病を予防する立場に立っている。青木は患者を人間として見ているが、林は患者を感染源あるいは保菌者として見ている。青木は治癒を、林は死亡を望んでいる。
脳内で夢想するのは結構だが、実際の「患者作業」がどれほど患者にとって苦痛であったか、想像すらできていない。「軽症者が重症者のために犠牲的に働」くことが「癩病者同士が醸し出す愛情深い世話」になっているなどと、林は本気でそう思っているのだろうか、もしそうであれば、よほどに実情を知らないヒューマニストであろう。どれだけ美辞麗句を連ねようと、患者に過酷な作業を強制しているのは園長自身であり、それを実行しているのは園長を後ろ盾にして有無を言わさない職員であることを、林は自覚しているのだろうか。
これは、1931(昭和6)年に入所した吉川四郎が書き残した「“楽園”か“牢獄”か」と題したレポートで、園当局に押収されていたものの一部である。彼は立命館大学法科専門部中退の労働運動家であった。園は彼の前歴を調べ、“不穏分子”のレッテルを貼り、各療養所長に文書で連絡している。この文書を開封されて一カ月後に愛生園を追放(退園処分)され、その後の消息は不明である。
上記の林の記事(反論)が『医海時報』に掲載されたのが1931年であり、吉川が追放されたのが1932(昭和7)年である。林は1930年から長島愛生園医務課長として光田の下で働いている。とすれば、吉川が書き記した愛生園の実状を林が知らないはずはない。そうでないなら、よほどに鈍感なのか…。
この林の反論に対して、青木が教授を務めた長崎医専を卒業した原口一億が次のように反論している。
この原口の反論を受けて、林は再度の反論を書く。
何をか言わんやである。林は熱心なクリスチャンであるからだろうが、「愛」とはなんと陳腐な発想だろうか。宗教的な精神論、同情論で片付けられるものではないだろう。「同病相憐む」などと美辞麗句を並べても、あるいは「人はパンのみにて生くるものにあらず」と説いても、現に絶望の中で日々を過酷に過ごす患者が癒やされるはずもない。
<絶対隔離>をめぐって、隔離推進派の林と、隔離慎重派の青木・原口らの論争が繰り広げられた。そこに、国際連盟保健委員会が癩の国際的調査と疫学的研究のために発足させた癩小委員会の幹事ビュルネーが第八回日本医学会に招かれて講演を行った。(草間弘司抄訳「癩予防に就いて」『第八回日本医学会誌』1930年)
ビュルネーの報告もあって、絶対隔離を見直す気運が高まって、隔離推進派と隔離慎重派の論戦が強まった。では、光田はどうであったか。成田氏は次のように推測している。
着実に自説の<絶対隔離>を国策として実現すべく動いていた光田の足跡を見ておこう。桜井方策編『救癩の父 光田健輔の思い出』巻末にある井上謙が作成した「年代表」より選別しておく。
「十坪住宅」について、田中等の説明を引用しておく。
青木大勇・原口一億・上川豊ら長崎医専出身者による光田らの<絶対隔離>に対する反論も、東北大皮膚科教授太田正雄の批判も、結局は「光田派」を表明する内務省衛生局に届くことはなかった。
太田正雄は、1930年に開催された国際連盟第一回国際癩会議に出席し、癩の予防に隔離が必要ではあるが、唯一の方法ではなく、伝染性のあるものに限り、他は外来診療をもって対応するとよいという会議の結論を支持している。それに対して、高野六郎内務省衛生局長は次のように反論している。
光田はハンセン病の専門医としての社会的地位を築きながら、内務省衛生局など政府の中に賛同者・協力者を増やし、一方で彼を慕ってくる若き医師や看護師に甘言を弄しながら自らの考えを浸透させていった。こうした人脈が彼に「権威」を与え、彼を「権力者」へと押し上げていったのだ。
日本のハンセン病対策の最大のまちがいであり汚点である<絶対隔離>は、光田によって始まった以上、光田で終わるはずだった。しかし、1964年に光田が死んだ後も<絶対隔離>は続いた。それは、死んでなお光田の意志が受け継がれていたからだろうか。私は、必ずしもそうではないと思っている。
光田と一緒に<絶対隔離>を推進した者たち、光田の影響を強く受けた者たち、彼ら自身がハンセン病を根絶する<手段>として<絶対隔離>を疑うことなく「選択」したのだ。そこに共通する思想は、ハンセン病患者を「癩菌保有者」「感染源」「根絶の対象」とみなす<患者軽視>を正当化するものであった。それがハンセン病患者を他の病者と意識的に別物扱いする思想であり、<ハンセン病患者=社会にとって害を為す者>として排他する思想である。
光田の発想した<絶対隔離>を政策として採用し、より確実に実施するために法整備をおこなった国家、その結果としてほぼ完成した強固な療養所中心主義体制、その「歯車」として日々の医務と実務を繰り返すだけであった医者と職員、さらに一方的な「恐ろしい伝染病」という啓発を鵜呑みにした一般大衆と社会、やがて「隔離」は「隔絶」となり、人びとから遮断され、隠蔽されて記憶からも遠ざけられていった。
第7回国際らい会議(1958年)において、メキシコは「患者は一人の人間であり、らいを病む患者でしかない」と述べている。日本におけるハンセン病対策の根源的なあやまちは、ハンセン病患者を<一人の人間>としてみなさなかったことである。それは権力によって<人権>を剥奪したのである。