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光田健輔論(9) 権力と人権(2)

第3回国際癩会議(1923年)において、癩は不治の病ではないとの認識により、治療に重点を置く人道的隔離が決議されたにもかかわらず、光田は大風子療法に勝る治療法はなく、それもほぼ10年で再発するから隔離して治療するのが予防上最も安全であると絶対隔離を主張した。

成田稔氏は「光田らの主導する公立癩療養所の拡張と隔離最優先を掲げて絶対隔離を目指す中で、この対策の前途を危惧した」人物として、当時長崎医専教授から長崎皮膚科病院を開院していた青木大勇の改善意見を紹介している。抜粋して引用する。

わが国の官立療養所の現況は、隔離監禁本位であって、生涯この恐怖の小天地に閉じ込められ、一人寂しく病苦に呻吟するのはあまりにも悲惨である。…これは強制的隔離を全ての癩患者に行った場合のことであり、何万という多数の病者を抱えるわが国においては、第一に経費、第二に全患者数に見合う施設が必要という問題を抱える上に、患者数が多くなるほど病者の発見洩れも多くなるという予期できない欠陥があろう。さらに国際社会の趨勢に目を転じれば、国際連盟は癩の隔離を厳酷に過ぎないようにと提唱している。これは患者に人類愛の立場から対応し、国民の幸福のためにも犠牲を強いられた人びとの苦しみを思いやらなくてはならないという意味だろう。それにもかかわらず、伝染の難易や排菌の多少を配慮することなく、科学的根拠も持たないまま癩と診断されたものの全てを強制的に隔離し、監禁本位に取り締まるというのでは時代遅れも甚だしい。…わが国の場合、伝染の危険性の多少を考慮せず、単に浮浪者だから病菌を撒き散らす恐れが多いとして入所を強いるのは素人考えの謗りを免れないだろうし、実際に伝染の危険性は極めて低い。…なお癩は、伝染しやすい素因でもない限り、伝染しにくいらしいから、解放の努力は当然必要であり、その際には就職までの経済的援助、継続治療費の負担、定期検診などについて十分な配慮がほしい。

至極もっともな意見である。今日では誰も反論する余地すらないであろう。だが、当日はこの意見に真っ向から反論するものがいた。光田の弟子である林文雄である。彼は全生病院や長島愛生園で光田に直接指導を受けた。

今日の療養所は、監禁主義でもなければ恐れ戦くような小天地でもない。ここは癩者の楽園であり、社会には見られない美しい療養生活がある。…癩院が天国のようになった理由は、伝染の危険のない程度のもの(軽症者)を解放せず、軽症者が重症者のために犠牲的に働いたからである。さもないと、作業のために健康者を雇わねばならず、現状の僅かな予算ではとてもまかないきれない。それに癩病者同士が醸し出す愛情深い世話を、血と膿にまみれ伝染の危険に曝されながらも厭わないで行えるような健康者は得難く、菌陰性者を全て退院させれば療養所は陰惨な地獄になってしまうだろう。解放!美しい言葉である。しかし手足に変形を持つ人びとが社会出て果たして働けるだろうか。それに、何よりも大きな妨げは遺伝思想の存在である。

林文雄「官立癩療養所の為に弁ず」『医海時報』

まるで光田が反論しているかのように聞こえる。光田の論理そのままであるが、両者の意見を対比させてみれば、それぞれが自覚している「立場」が明らかになる。
青木は医師として患者を治療する立場に立ち、林は療養所の管理者、そしてハンセン病を予防する立場に立っている。青木は患者を人間として見ているが、林は患者を感染源あるいは保菌者として見ている。青木は治癒を、林は死亡を望んでいる。

脳内で夢想するのは結構だが、実際の「患者作業」がどれほど患者にとって苦痛であったか、想像すらできていない。「軽症者が重症者のために犠牲的に働」くことが「癩病者同士が醸し出す愛情深い世話」になっているなどと、林は本気でそう思っているのだろうか、もしそうであれば、よほどに実情を知らないヒューマニストであろう。どれだけ美辞麗句を連ねようと、患者に過酷な作業を強制しているのは園長自身であり、それを実行しているのは園長を後ろ盾にして有無を言わさない職員であることを、林は自覚しているのだろうか。

とにかくここの職員は愛生園の内情が外部にもれる事を大変に恐れる。それで手紙等は一々御丁寧に開封して見るし、面会人が来ても立会人付きで満開させる程の取締りぶりだ。
飯は米が三分に麦が七分というとてもひどいものだし、副食物は毎日々々イモに菜っ葉に、顔のうつるような味噌汁に玉葱かカボチャに決まっている。魚類なんか食べたくても食べられない。もっとも月に二、三回は腐ったような鰯を二尾位づつくれる。だから当地の患者は社会から島に捨てにくる犬や猫を発見するとナグリ殺して食って仕舞ふ有様だ。
労働は強制的にやらせられる。朝九時から午後四時まで七時間労働だ。その労働もなまやさしい事ではない。弱い患者の身で山を崩す土工や、左官、大工、精米、百姓等々健康者でさえもエライ仕事を無理矢理にやらせられる。…
奴等は俺達をこき使って置き乍ら、病気が重くなったり、負傷して働けなくなると、やれ国家の寄生虫だの、国賊だのと吐かして全くひどい待遇をする。ある者が負傷して外科材料をもらいに行くと、贅沢な事を言うな、橋の下(その人は浮浪生活をしていた)に外科材料はないだろう。乞食していた時に負傷した場合はどうして居た。お前なんかホータイを使うのは勿体ない。ボロギレで沢山だと、実に言語道断な事を吐かす。重態の病人のところへも医者はなかなか来てくれないのに、豚が病気を起しでもすると泣きそうな顔をして聴診器を持って飛んで行く。人間の替りはいくらでも外から来るが、豚は金を出さなければ買へないなんて人を馬鹿にした言葉じやないか。
…かくの如き其の待遇は囚人と何ら異る所はない。だからこそそこの生活に耐えかねて逃走を企てる者、自殺をする者が次から次へと出てくる。果たしてこれが楽園といへるだろうか。

長島愛生園入園者自治会編『隔絶の里程』

これは、1931(昭和6)年に入所した吉川四郎が書き残した「“楽園”か“牢獄”か」と題したレポートで、園当局に押収されていたものの一部である。彼は立命館大学法科専門部中退の労働運動家であった。園は彼の前歴を調べ、“不穏分子”のレッテルを貼り、各療養所長に文書で連絡している。この文書を開封されて一カ月後に愛生園を追放(退園処分)され、その後の消息は不明である。

上記の林の記事(反論)が『医海時報』に掲載されたのが1931年であり、吉川が追放されたのが1932(昭和7)年である。林は1930年から長島愛生園医務課長として光田の下で働いている。とすれば、吉川が書き記した愛生園の実状を林が知らないはずはない。そうでないなら、よほどに鈍感なのか…。

この林の反論に対して、青木が教授を務めた長崎医専を卒業した原口一億が次のように反論している。

…全生病院を愛の楽園のようにいうが、それは老獪な当局者による予防政策に乗せられた宣伝であり、九州療養所の上川豊の論説は全く逆であって、北部保養院と九州療養所とは逃走患者も増加傾向にある。…解放については、適切に行われれば対社会的・対患者的な信頼と好感に繋がり、ひいては逃亡患者の減少ともなり、早期診断と早期療法によって治療上、予防上に一大利点がもたされよう。また、一概に癩に全治者はないと断言しているが、青木は全治とみなしてよい者としているのであって、全治しない限り絶対に解放されないという絶望を患者に与えてはならない。

この原口の反論を受けて、林は再度の反論を書く。

…癩療養所にも多くの美点があり、それを暖かく育てるとよいが、単なる制度の改善ではなく、そこで最も大切なものは愛だろう。…先輩が非常な努力をもって育ててきた癩療養所を、恐れ戦く小天地と謗られては反駁しないわけにはゆかない。

何をか言わんやである。林は熱心なクリスチャンであるからだろうが、「愛」とはなんと陳腐な発想だろうか。宗教的な精神論、同情論で片付けられるものではないだろう。「同病相憐む」などと美辞麗句を並べても、あるいは「人はパンのみにて生くるものにあらず」と説いても、現に絶望の中で日々を過酷に過ごす患者が癒やされるはずもない。

<絶対隔離>をめぐって、隔離推進派の林と、隔離慎重派の青木・原口らの論争が繰り広げられた。そこに、国際連盟保健委員会が癩の国際的調査と疫学的研究のために発足させた癩小委員会の幹事ビュルネーが第八回日本医学会に招かれて講演を行った。(草間弘司抄訳「癩予防に就いて」『第八回日本医学会誌』1930年)

隔離(アイソレーション)は有効であり必要にはしても、絶対的隔離(セグリゲーション)は癩を恐れるだけの無知が行わせた方法である。隔離は、相対的且つ穏和で人道的でなくてはならず、癩療養所も、心地よく衛生的で衛生避難所の意味を併せ持ち、同時に癩予防の啓蒙を含む社会的活動も欠かせない。…現在では、強制的隔離は自由的確理に移行しつつあり、忍耐をもって治療を継続すれば、病状は軽快して伝染性も減少するから、患者も希望を持ち自ら隔離を望むようにすらなるだろう。

成田稔『日本の癩対策から何を学ぶか』

ビュルネーの報告もあって、絶対隔離を見直す気運が高まって、隔離推進派と隔離慎重派の論戦が強まった。では、光田はどうであったか。成田氏は次のように推測している。

ビュルネーの報告を不快と思ったはずの光田はこの論戦に加わっていないが、自身は当時すでに内務省衛生局と密に連係し、ともに絶対隔離の達成を目論んでいたに違いないから、ビュルネーほかの諸外国の実状を是とする青木らの見解は歯牙にもかけず、反論するのも大人気ないという程度にとらえていただろう。

成田稔『日本の癩対策から何を学ぶか』

着実に自説の<絶対隔離>を国策として実現すべく動いていた光田の足跡を見ておこう。桜井方策編『救癩の父 光田健輔の思い出』巻末にある井上謙が作成した「年代表」より選別しておく。

1908(明治41)年 東京養育院副院長となる。
1909(明治42)年 第一区連合府県立全生病院医長として迎えられる。
1914(大正 3)年 全生病院院長に任ぜられる。
1915(大正 4)年 癩予防に関する意見書を内務省に提出する。
1917(大正 6)年 保健衛生調査会委員として、国立療養所の候補地(敷地)を、沖縄、台湾、瀬戸内海を極秘裏に調査の上、翌年に「復命書」を提出する。数万人規模では西表島を、1000人規模では岡山県の長島を第一候補地としてあげた。
1919(大正 8)年 内務省当局に癩予防に関する意見書を提出し、その実施を訴える。
1923(大正12)年 フランス、ストラスブルグで開かれた第三回国際癩会議に出席した。
1927(昭和 2)年 国立癩療養所が岡山県長島に建設が決まり、国立癩療養所医官に兼任国立療養所長に補せられた。
1930(昭和 5)年 全生病院長兼任を解かれ、長島愛生園園長に専任となる。
1931(昭和 6)年 岡山慈善婦人会に招かれて講演した席上、患者住宅の不足を訴え、「十坪住宅」の寄附を懇請する。
1934(昭和 9)年 第7回日本癩学会が岡山大学にて、光田健輔会長の下で開催される。
1936(昭和11)年 「長島事件」がおこる。

「十坪住宅」について、田中等の説明を引用しておく。

1931(昭和6)年12月、岡山県慈善婦人会主催の講演会において、フィリピンのクリオン療養所をヒントにした「十坪住宅」の寄付を提唱した。すると、たちまち一戸分の寄付金が集まり、これを機に全国にもこの呼びかけを広げて、1935(昭和10)年ころをピークに戦時中(1943年)mでに149棟の「十坪住宅」が建設された。資金は基本的に民間からの寄付金によるものであり、また建設は患者作業によるもので安上がりのうえに、建築後は国に寄付するかたちで経常費の支出を受けたという。
このような増床の対策をとっても、400人の定員でスタートした国立療養所であったが、愛生園では「伝染病に定員はない」とばかりに入所者を受け入れることで、たちまちのうちに定員超過となり、国の予算措置では間に合わず窮地から思いつかれたのが「十坪住宅」だったのであった。

田中等『ハンセン病の社会史』

青木大勇・原口一億・上川豊ら長崎医専出身者による光田らの<絶対隔離>に対する反論も、東北大皮膚科教授太田正雄の批判も、結局は「光田派」を表明する内務省衛生局に届くことはなかった。

太田正雄は、1930年に開催された国際連盟第一回国際癩会議に出席し、癩の予防に隔離が必要ではあるが、唯一の方法ではなく、伝染性のあるものに限り、他は外来診療をもって対応するとよいという会議の結論を支持している。それに対して、高野六郎内務省衛生局長は次のように反論している。

隔離だけでは不可ぬという先程からの太田氏からの御意見、或いは将来の癩予防政策を変更せねばならない時が来るかも知れない。唯衛生局としては大体光田派で、セグレゲーションの方向に進んで来ていて隔離所の病床を増やして行けば型が附いて行くと思っている。

光田はハンセン病の専門医としての社会的地位を築きながら、内務省衛生局など政府の中に賛同者・協力者を増やし、一方で彼を慕ってくる若き医師や看護師に甘言を弄しながら自らの考えを浸透させていった。こうした人脈が彼に「権威」を与え、彼を「権力者」へと押し上げていったのだ。

日本のハンセン病対策の最大のまちがいであり汚点である<絶対隔離>は、光田によって始まった以上、光田で終わるはずだった。しかし、1964年に光田が死んだ後も<絶対隔離>は続いた。それは、死んでなお光田の意志が受け継がれていたからだろうか。私は、必ずしもそうではないと思っている。
光田と一緒に<絶対隔離>を推進した者たち、光田の影響を強く受けた者たち、彼ら自身がハンセン病を根絶する<手段>として<絶対隔離>を疑うことなく「選択」したのだ。そこに共通する思想は、ハンセン病患者を「癩菌保有者」「感染源」「根絶の対象」とみなす<患者軽視>を正当化するものであった。それがハンセン病患者を他の病者と意識的に別物扱いする思想であり、<ハンセン病患者=社会にとって害を為す者>として排他する思想である。

光田は、「無癩国日本」の目標を掲げて、伝染源の根絶を意図し絶対隔離を強行したのは、「日本国民を癩から守る」という社会防衛に基づき、そこに「患者中心の医療」の理念などあろうはずはなくとも、「癩は不治」といわれた時代の正論ではあった。しかし、「人は人」という人の命の尊厳に時代の隔たりはない。そこが「癩の根絶」を願うあまり、日本国民の排他的(本来の国民的性向だが-)強力を得たいばかりに、「恐ろしい伝染病」観の浸透に躍起になったにちがいない。…こうした排他性の強まりが、患者軽視へと結びつくのは当然とも思われる。それは「どうあろうと人は人」「私も同じ人」という倫理と共存の理念とを揺るがしかねないが、日本の癩対策は実際にそこを揺るがしてきたのである。

成田稔『日本の癩対策の誤りと「名誉回復』

光田の発想した<絶対隔離>を政策として採用し、より確実に実施するために法整備をおこなった国家、その結果としてほぼ完成した強固な療養所中心主義体制、その「歯車」として日々の医務と実務を繰り返すだけであった医者と職員、さらに一方的な「恐ろしい伝染病」という啓発を鵜呑みにした一般大衆と社会、やがて「隔離」は「隔絶」となり、人びとから遮断され、隠蔽されて記憶からも遠ざけられていった。

第7回国際らい会議(1958年)において、メキシコは「患者は一人の人間であり、らいを病む患者でしかない」と述べている。日本におけるハンセン病対策の根源的なあやまちは、ハンセン病患者を<一人の人間>としてみなさなかったことである。それは権力によって<人権>を剥奪したのである。

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藤田孝志
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。