光田健輔論(37) 牢獄か楽園か(1)
日本近代思想大系22『差別の諸相』付録[月報15]の中に、成田龍一「『小島の春』のまなざし」がある。今回、ある論文の引用文献に挙げられていて気づき、一読した。『小島の春』を通して小川正子の患者観が考察されていて、興味深かった。
成田氏は「固定化」の証左として、「小川が病者を自動車で運ぼうとするときのエピソード」を「印象的」として例示する。
ベストセラーとして多くの国民に読まれた『小島の春』が果たした役割、その効果について光田健輔は「数百数千回の講習会を催すよりも有効であろう」と述べているが、それは光田にとって絶対隔離政策を遂行する上で都合のよい「イメージ」を国民に与えることができたということであろう。事実、続けて光田は「国民は癩を遺伝の為であると言ふ迷信から醒めて、早く患者を療養所に送り、治療しつゝ生涯を終らして他への伝染を防ぎたい」と述べている。
<時代的正当性>というのであれば、現代とのちがいである情報伝達手段の脆弱であろう。情報を得る手段が新聞あるいは雑誌、書籍、講演会(演説会)しかない時代(ラジオ放送は1925年、テレビ放送は1953年)において、その情報の信憑性を確かめる手段は少ない。それゆえに「専門家」「国家」等々の「権威ある者」からの発言は信じられやすい。さらに地方(田舎)に行くほどに情報は「口伝え」「噂」によって拡散されていた。中には誇張・曲解・歪曲されたものも多かっただろう。
そのような時代において『小島の春』は、権威ある長島愛生園長光田健輔や厚生省予防局長高野六郎、貴族院議員下村宏らの「序文」によって権威付けられ、ハンセン病の専門医の書いた内容として「真実」であると読者に思い込ませたことにより、成田氏の指摘するように、ハンセン病のイメージは「固定化」されて国民に浸透していった。
私が何より恐ろしいと感じたことは、小川正子が繰り返し述べることで、長島愛生園の「楽土」としてのイメージを作り上げたことである。前回に書いたように、木村巧氏が指摘した『小島の春』の章構成を変更してまで「長島事件」を隠蔽するなど、ハンセン病療養所のイメージを患者にとって「楽土」であると国民に植えつけたことにより、国民は実態を知ることなく「無らい県運動」に協力していった。患者は「楽土」である療養所で暮らすことが、患者にとっても住民にとっても国家にとっても最善の道と信じ込んでしまった。
歴史の中で一体どれほどの「情報操作」によって悲劇が繰り返されてきたことだろうか。それは今も、AIなどの最先端技術で生み出される「フェイク」などのように、より進化した巧妙・狡猾な情報操作が行われている。
私が疑問に思うのは、百歩譲って、光田健輔がハンセン病患者を本気で救おうと思っていたとして、定員超過を覚悟して受け容れたとして、なぜ、それなりに深く関わり、相互の信頼もあり、同一歩調で絶対隔離政策を進めていた厚労省など政府に、療養所の運営予算の増額を求めなかったのか。「十坪住宅」を増設する寄付金を運営費に回さなかったのか。
「黒川温泉ホテル宿泊拒否事件」に対する自治会への誹謗中傷の多くが、何不自由なく国に生活と治療をみてもらっていることを理由にした非難が多かった。彼らは戦後に入園者たちが生活環境の整備を求めて闘った成果である「現在」の姿しか知らないからである。戦前・戦中の療養所の苛酷な実態を彼らは知りもしない。
事実、1942年から45年にかけての長島愛生園の年間平均在園患者数は1805名中、死亡者数は889名に上った。44年は227名(死亡率14%)、45年は332名(死亡率22%)であり、国立療養所の各園では火葬用の薪や棺桶が欠乏して困ったという。その死因の主なものは「栄養失調」である。多摩全生園でも同時期の死亡者数は5年連続で100人を超えている。
栄養不足に戦時下特有の苛烈な労働(防空壕掘り、炭焼き、荒地の開墾など)も加わり、患者の病勢はますます悪化させた。さらに医者や看護師、医薬品の不足が重度の不自由者を増加させ、看護付添の需要も増大した。こうした実状に耐えられず、軽症者は次々と逃亡していった。施設側は作業人員を確保するため、国の徴用令にならって園内でも徴用制度を採用した。その結果、いくつかの園で逃亡者と死亡者の続出により、患者定員を割り込むようになっていった。
ペンネームは「田中哲吉」となっているが、吉川(四郎)が書いたとみられる、昭和七年当時の愛生園をレポートした「牢獄か楽園か、国立癩療養所愛生園とはどんな所か」がある。…書かれたまま押収され日の目を見なかったと思われるものであるが、その内容は無産運動の中をくぐってきた人間の視線が息づいたものである。その中の主要な部分を抜粋しよう。
開園の翌年(1932年)とはいっても、当時の患者のおかれた実状が惨憺たるものであったことは事実であろう。年々、それなりの改善や生活環境も整えられていったことは園史に詳しいが、施設管理側の職員や医師が患者に対してどのように接していたか、患者のことをどのように思っていたか、必ずしも光田が標榜した「大家族主義」ではなかったと推察できる証言である。
事実、入所者から個人的に聞いた話の数々も壮絶なものだった。温和で朴訥な方が思い出すように、時に感情を高ぶらせて語る話ほど信憑性の高い証言はない。彼らの「涙」には積年の思いが込められている。