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岡山の部落関係史:津山藩

津山藩の部落関係史料については『岡山部落解放研究所紀要』に「美作津山藩被差別部落関係資料」(1)~(5)として膨大な史料が収録されている。中野美智子・頭士倫典両氏を中心に美作部落史研究班が11年の歳月をかけて、津山藩の国元日記・江戸日記・町奉行日記・郡代日記および関連する史料全部に目を通し、被差別部落関係資料を抽出した後に、取捨を厳選し、編年整理するという作業を経て完成させたものである。
さらに同紀要には「近世美作・備中・備前改宗問題関係資料」(第12号)「中津井騒動関係資料集」(第11号)「宇田家文書史料集」(第14号)がそれぞれ特集として収録されている。これら貴重な史料こそが岡山における近世の被差別部落の実像を明らかにするものであると確信している。

特に、「中津井騒動関係資料集」は「美作騒擾(明六一揆:解放令反対一揆)」以前、「賤称廃止令」が布告された直後より民衆の動揺、被差別部落民(新平民)と民衆(平民)との確執と対立、暴動(襲撃)などが中津井出張所に在勤していた杉田有年氏の「公用記」に詳しく記述されている。また「宇田家文書」は被差別部落側の記録文書である。江戸末期から明治初めまでの史料で、特に解放令が出されたことによる影響が記述されていて貴重である。なぜなら、現在まで被差別部落側からの史料がないからである。(「明六一揆」などにより被差別部落の多くが焼き討ちにあったため、文書類も消失している可能性が高い)

今までも折に触れて関係箇所を読んできたが、これらをすべて読解する時間的余裕がなかった。今後、じっくりと読み解いてみたいと考えている。

手元に『部落問題 調査と研究』(岡山部落問題研究所)に掲載された「岡山県の部落問題歴史年表(前近代)」(大森久雄)、「岡山・津山藩びおける部落問題関係略年表」がある。簡略ではあるが、要点をよくまとめているので、これをベースに、前述の「紀要」を含め、私が所有する津山藩に関係する史料も参考にしながら作成してみたい。


◯1575(天正 3)
 小早川隆景が貝阿弥友国を「美作国屠者惣頭」にした(貝阿弥系図)

◯1601(慶長 6)
 津山城普請、貝阿弥有清が喧嘩打合鎮圧・城入井戸掘・石材木御番人足の宰領を務める(貝阿弥系図)

貝阿弥家が代々「穢多頭」を務めていることがわかる。この頃は「穢多」ではなく「屠者」と称されていた。

◯1604(慶長 9)
 森忠政、津山築城のとき、鶴山の八幡を久米南郡臨山に移す(森家先代実録)
 作州英田郡大川ノ内川崎村御検地帳、上の村に7カ所の田畑を耕作する「かわた」を記載(安藤家文書)

「かわた」の称が使われ始めている。

◯1616(元和 2)
 森忠政、貝阿弥有清を「革多惣頭」に任命(貝阿弥系図)

◯1687(貞享 4)
 貝阿弥友常、「国中支配、美作中、村辻合五十三村惣頭」となる(貝阿弥系図)

◯1697(元禄10)
 津山藩、中門番・籠番は国中穢多13人が勤務(津山町方儀説明書)
 同、長継時代(1634~97)の定め、城下へ薪売りに来る百姓は城下入口で薪4~5本を捨て置く、穢多が拾い籠舎の薪にするとある作州古談)

「かわた」ではなく「穢多」と称されるようになっている。また、穢多が籠舎(牢屋)の番(下役)を務めている。

籠屋場所壱ヶ所ニて御座候内ニ、惣籠壱ヶ所、女籠ニヶ所御座候、唯今入籠之者壱人も無御座候、切支丹籠ニ女壱人居候、是ハ宗旨奉行より書上可仕候、門番足軽四人ニて相勤申候、中門番并籠番ハ国中穢多拾三人宛ニて二日三日替りニ相勤申候、籠舎人食物相調、其外籠内掃除等不残仕候、籠舎人大勢有之節ハ増人久米郡北分錦織村穢多頭次兵衛・長兵衛ニ申付候、拷問者・斬罪者有之時ハ用人より郡奉行へ申遣、郡奉行より右穢多頭、役人之穢多共召連罷出候

津山町方儀説明書

「津山町方儀説明書」は、森家断絶後、森家町奉行が幕府代官の諮問に答申した説明書である。なお、「錦織村」は「大久保村」のまちがいである。

森家断絶の経緯に関しては、拙ブログ記事「生類憐みの令と作州津山藩」を参照。

津山藩は、綱吉の命じた巨大な犬小屋造り(手伝普請)により財政危機に陥り、さらに4代長成が死去し、末期養子として2代長継の十二男で叔父の家老・関衆之の養子に出されていた衆利を迎えたが、同年(1697年)、継承挨拶のため江戸に出府途中に伊勢で狂心したため、幕府は美作津山藩を召し上げた。以後は結城秀康を祖とする越前松平家分家の松平宣富が10万石で入部、以後廃藩置県まで松平氏が治めるところとなった。

◯1701(元禄14)
 津山藩、よその非人・乞食を城下町内へ入れ置かぬよう命令(町中御仕置条目)

◯1715(正徳 5)
 この頃に作成された「津山城下絵図」に、津山城下町西端の柳之土手に「非人小屋」がみえる(津山郷土館)

◯1727(享保12)
 津山藩、山中一揆の指導者を処刑。穢多を打首役につかう(美作一覧紀)

内々牧之徳右衛門居合たるを以て、同人と芳部村藤三郎・勝蔵、真加村惣兵衛、上徳山之六左衛門之五人ハ発頭株として十三日津山表へ護送し、残り廿五人ハ一応之取調も不致、十二日ニ拾五人ハ三坂へ連れ出し、穢多高次郎・太右衛門・五郎八之三名へ申附、打首ニし同所道端へ獄門ニ懸け、拾人ハ久世村へ連れ出し、穢多九郎左衛門・甚左衛門・七兵衛之三名へ中附、打首ニし同所道上ニ獄門ニ掛けたり

(『美作一覧記』)

『美作一覧記』は、元禄中期から享保初期までの津山藩を中心とする美作地方史を物語風に記録した史書である。
上記は、山中一揆の指導者の処罰を穢多に行わせた記述である。

◯1747(延享 4)
 津山城下柳之土手非人小屋で火事、過半を消失(津山藩:国元日記)

◯1752(宝暦 2)
 津山藩、勝南郡国分村で非人が見せ物をし、家中の者が見に行ったとし、以後の見物を禁止する(津山藩:国元日記)

非人が芸能を行っていた記録である。
岡山藩における非人の芸能については、拙ブログの記事「岡山藩の非人(3)照葉狂言」を参照

◯1761(宝暦11)
 津山藩、郷中村々非人番を城下柳之土手非人頭手下にやらせるよう命令(津山藩:町奉行日記)

◯1773(安永 2)
 津山藩領の穢多九郎右衛門が牛蠟・鹿皮の川下手形を提出(津山藩:郡代日記)

◯1775(安永 4)
 津山藩、胡乱者・野伏非人の村端河原等への一宿禁止を非人番がよく気をつけるよう命令(郷中御条目)

 安永四年未二月 触之内
一 胡乱なる者者不扱申、野伏・非人之類、村端・川原等ニも一宿為致不申候様、猶又厳敷可申付候、非人番共平日随分相守、村内変義無之様致候義、肝要之事ニ候、変義有之候後、召捕候義ハ、無難ニ相妨候義ニ者しからさる事ニ候得者、先達而中渡候通、弥堅可申付事

郷中御条目

「郷中御条目」は、津山松平藩の百姓統制の項目別編年法令集である。

元禄・享保期、津山藩は野非人(盗人・他国からの乞食)取り締まりの人別改めを行い、特定の者に腰札を与えた。他の者は柳之土手非人頭を使い領外へ追い払った。
津山藩における非人の役目は、①追い払い、②行き倒れ非人などの養育、③野伏などの死骸片付けである。

◯1787(天明 7)
 播州林田藩で一揆が起こる。(『揖竜の部落史』に岡山藩が弾圧に応援を繰り出し、“忍び”に探索をさせ“皮多”が参加している事実を報告させたとある)

◯1791(寛政 3)
 津山藩、京町阿波屋亀太郎らが商用とはいえ柳之土手非人小屋へ行き、平人同様の交際をしたと処罰(津山藩:国元日記)

◯1792(寛政 4)
 大坂町奉行より美作国内の穢多村へ、上坂皮荷が減少しているとして調査がある。播州喬木村などの皮問屋が高値で買い取る様子がみえる(津山藩:国元日記)

近年牛馬皮高直(値)ニ而、皮細工之品ゝ高直(値)ニ相成、大阪表ニ而皮問屋等御糺御座候処、国ゝより登せ皮減少致、直(値)段髙直(値)ニ相成、拾ヶ年以前与見合候而者、去ゝ戌年登せ皮三歩一ニ相成候旨申上候由、弥右申立之通ニ候哉、皮荷物之義者外品与違豊凶ニ不拘品ニ付、格別減し可申筋共不相聞、弥私共村ゝより為差登候牛馬皮三歩一ニも相減シ候哉、委細御吟味ニ御座候
(中略)
此段茂次郎御答申上候、私義村ゝより牛馬皮買出シ大阪皮問屋住吉屋九左衛門江差向、十ヶ年茂以前迄者壱ヶ年ニ川船三十艘程も積出候之処、近年播州より同類之者共罷越村ゝ相廻り、相対を以直(値)段高直(値)ニ買取候故、当国之牛馬皮多大阪表江相登不申義哉ニ奉存候、右ニ付追ゝ減少仕、既去ゝ戌年者一ヶ年分川船八艘程積出候迄ニ而、三歩一ニも引足り不申候、尤外品与違、豊凶ニ者相拘不申候得共、右之通多分播州筋江買取候故、大阪表ニ而者減少仕候義ニも可有御座候ニ奉存候

国元日記

「国元日記」は、津山松平藩庁御用所の日記であり、元禄十一年から明治四年までの藩政の重要事項を記録している。

茂次郎は西々条郡円宗寺村穢多である。播州の皮問屋が高値で買い取るので、今まで売っていた大阪皮問屋に送る牛馬皮が減少するようになったと述べている。
皮革の需要が増加したこと、皮問屋の間で商売競争が起こっていることなどがわかる。また、津山には荒皮の集積地があり、吉井川を下って、船にて大阪や神戸に出荷していたこともわかる。

◯1805(文化 2)
 津山藩、馬喰締役をおく。穢多への牛馬売り渡しは手形を改めるよう(郷中条目)

◯1827(文政10)
 津山藩、持牛買い求め・病死の時の届出様式を決める(郷中御条目)

◯1834(天保 5)
 津山藩、赤子間引は非人手下(郷中御条目)

◯1842(天保13)
 津山藩、穢多非人の風俗につき「素人穢多之差別相立候様厳重相改」と取締令(郷中御条目)

1833(天保4)年、岡山藩でも両山非人に対して「身分統制令」が出されていることからも、この頃には、穢多や非人の風俗が乱れている、つまり平人に紛らわしい言動や交流が日常化していることから、身分制の揺らぎを恐れての規制が命じられ始めたのである。

◯1866(慶応 2)
 美作改政一揆で穢多が参加し、百姓と一緒に飯を食う(強訴一件手続書)

◯1867(慶応 3)
 久米南郡西幸村穢多掃除主孫四郎、掃除役差し留め、庄屋が仲介し、元通りとなる(三保村史資料集)

◯1868(明治 1)
 津山藩、皮会所廃止の命令(野崎家文書)

◯1871(明治 4)
 政府、弊牛馬持主勝手処置を布告(太政官布告)
 津山藩庁、戸籍編成規則布告
 政府、府藩県一般戸籍法改正を布告(太政官布告)
 政府、穢多非人等の称廃止を布告(太政官布告)
 津山県、「賤称廃止令」(解放令)を布達(矢吹家文書)
 津山県下で「賤称廃止令」反対の嘆願。穢多不礼を取り締まる規則制定を要望(大岡家文書)
 津山県、「賤称廃止令」延期を布達。政府に尋ねるので、指示があるまで従来通りにせよ(津山市史)
 津山県、均田徳政・女や牛を異人へ渡すとの風説を否定する布告(有元家文書)
 生野県管下の美作54か村の庄屋・年寄たちが「賤称廃止令」反対を嘆願(有元家文書)

◯1872(明治 5)
 阿賀郡下中津井村で農民が「旧民」(もと穢多)を襲撃(小田県史)
 北条県、「賤称廃止令」を布達(岡山県史稿本)
 小田県、乞食取り締まりを命令(小田県史)

◯1873(明治 6)
 小田県、笠岡に牧畜会社を許可(小田県史)
 北条県血税一揆(岡山県史稿本)
 久米北条郡大久保村が血税一揆随行を約し、焼き討ちを容赦してほしいと詫書を出す(三保村史資料集)
 勝北郡津川原村が血税一揆参加者に襲撃され、焼き討ち殺人を受ける(北条県史)

「明六一揆・美作騒擾(解放令反対一揆)」に関しては、拙ブログ「明六一揆論」を参照

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藤田孝志
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。