光田健輔論(75) 「らい予防法」その後(2)
1953(昭和28)年8月1日、参議院厚生委員会で「癩予防法」改正案が可決された際、全会一致で付帯決議も可決された。
内容としては、一部ではあるが全患協の要望が反映しているかに思えるが、表面的形式的な約束事の域を出ていない。つまり全患協が廃止を強く求めた「強制入所」や「外出の制限」「秩序の維持に関する規定」(懲戒検束権)などについては「適正慎重を期す」「留意」「考慮」「検討」と、反故や先延ばしにできる曖昧な約束事でしかない。
事実、「近き将来」と言いながら、本法改正が期されたのは43年後の1996年である。「病名変更」もまた同じである。
全患協は、以後、この付帯決議を実行するよう厚生省に強く働きかけながら、「らい予防法」下での療養生活の待遇改善を運動の柱として展開していくことになる。では、「らい予防法」を成立させた厚生省はハンセン病政策をどのように推進していくのか、検証してみたい。
前にも聖城の欺瞞について検証したが、わずか十数年で真逆のことを平気で書いている。しかも「特効薬プロミン、DDS等が開発された。…これら新薬の発見、使用により大きな効果が上がり、それまで不治の病とされたものが治る病気になったのである」と言っている。さらに「内地においては新しく発生する患者は年々減少の一途を辿った。又不幸にして発病した人も発見が早く、早期に前述の新薬を用いることにより、あとかたもなく治癒してゆく様になった」とまで述べて、「社会復帰」を奨励さえしている。
プロミン治療が効果を上げて、国際的に「隔離政策」が否定されているにもかかわらず、聖城は上記のような「挨拶」を行っている。十数年で実状が大きく変わったなどの言い訳は通用しない。その十数年間でどれだけの患者が苦しみ、療養所に収容されたために患者家族がどれほど苦しんだことか。聖城の不勉強と無責任は恥じるべきである。
藤野は、聖城の「強制収容は不可」という厚生省の方針が真実ではないことを、奈良県衛生部予防課の職員による強制の事実や大阪府における住民の密告、長崎県衛生部長の強制収容に関する書類の不備を厚生省が指摘した文書などを例証として示している。そして、藤野は「厚生省としては、強制は不可としつつも、法律に強制隔離の条文がある限り、それは患者への恫喝の手段として機能していた」と述べる。
厚生省は「あくまで勧奨での入所をお願いしているので、強制は不可と伝えている」または「各都道府県の職員が従来通りの収容を行ってしまった」と言い逃れをするだろう。姑息な責任転嫁である。
「最後の追い込み」と隔離政策の強化を求めながら、一方で「強制は不可」など、現場の職員を困惑させるだけの無理な命令である。上意下達の官僚制の悪しき常態である。
旧法にもなかった外出規制が新法では法文に明記されたのである。しかも「条件」は限定され、「所長」の判断が絶対であった。これにより、全患協の運動は大きく制限されることになる。厚生省の意図的な明文化と考えざるを得ない。
全患協が法制局長官佐藤達夫に問い合わせた結果、従来黙認されていた「友園親善団交流」も該当しないとの回答であった。
また、所長の権限も新法に明記されたことによってより強くなった。
法律が変わっても、啓発しなければならない側の療養所医師(園長)の人権感覚が昔のままであれば、偏見や差別がなくなるはずもない。実は、世間ではなく政府や官僚、医師こそが自らの偏見を改めるべきなのだが…。
所長たちは、この法文(15条)を楯にとって入所者の外出を制限するようになった。たとえば、全生園は、栗生楽泉園への親善団派遣と駿河療養所からの親善野球チームの来園を拒否している。さらに長島愛生園に開校した「岡山県立邑久高等学校新良田教室」の入学式に、他園から入所者が祝福に向かった。しかし、園側は「本省より高校開校式に入学生以外の患者は来園を許可してはならないとの通告を受けている」として入園を強行に拒否している。
厚生省が第15条を定めた目的は、全患協および入所者の活動抑止であると考えられる。「癩予防法」改正運動に見られた患者の運動、全患協の結成と活動への危機感である。
藤野は「各療養所間で入所者の交流の活発化により全患協運動が高揚することへの警戒である」と推測している。なお、第18条には、無許可の外出には拘留または科料が科せられていた。
眼を国外に転じて、ハンセン病に関する国際的動向について検証してみたい。日本が「らい予防法」を成立させ、隔離政策を継続し、「無らい県運動」による実質的強制収容を全国展開している頃、国際社会はハンセン病対策をどのように進めていたのだろうか。
1956(昭和31)年、マルタ騎士修道会によるローマ国際会議(「癩患者の保護及び社会復帰に関する国際会議」)が開催された。日本からは藤楓協会濵野規矩雄常務理事、林芳信全生園長、野島泰治大島青松園長の三人が招かれて出席している。世界の51か国250名の出席があった。会議の冒頭、世界各国の代表を前に、教皇ピオ十二世は、次のような要旨の演説を行った。
このローマ会議には、日本から藤楓協会常任理事濵野規矩雄、多摩全生園長林芳信、大島青松園長野島泰治が参加した。
全患協はこの決議案を独自に入手後、訳文を機関誌『全患協ニュース』に掲載し、会議出席者に対して決議の紹介を求めている。
しかし、林は日本のハンセン病対策の成果に「諸外国が注目するところで」あり、「わが国のらいの新発生数は漸次減少し、患者福祉の面にもかなりの考慮がなされており、治療の面も諸外国に比して少しの遜色もない。」「現状のわが国のらい施策は概ねローマ会議の線に沿っている」と、多摩全生園機関誌『多磨』に資料とともに報告文を掲載している。
成田は林の報告に対して「無知か狡知かどちらとも考えようがない」、野島は「会議の決議そのものを曲解している」と手厳しく批判している。大谷も「開放のかの字もないわが国の癩対策のどこがローマ会議の人権尊重の線と同じであるのか」と「その真意の理解に苦しむ」と述べている。
では、厚生省はローマ会議の決議にどのように認識していたか。翌年(1957年)の衆議院社会労働委員会でこの決議が取り上げられ、答弁に立った厚生省公衆衛生局長山口正義は、「社会復帰を充分に考えるようにとの決議があったが、ハンセン病の対策はその国の患者数と施設によっておのおの違ってくる。患者の割合に比して施設の整備されているところではできるだけ収容した方がいい」(内田:同上)と説明している。また、星塚敬愛園自治会を訪れた国立療養所課長尾崎嘉篤は、社会復帰のためのコロニー設置を考えているかの自治会の問いに「本省の方針としては無視している。ローマ会議の決議は医学を知らない社会事業家の問題だ」(成田:同上)と答えたという。
林と野島の「厚顔無恥」には呆れ果てるが、厚生省の高慢さも戦前の国際動向を無視して絶対隔離を推進した頃とほとんど変わっていない。事実、厚生省はローマ会議へ国費をもって参加することを認めず、3人の旅費は藤楓協会が肩代わりしている。その理由は、民間の宗教団体による主催だからである。
唯一、ローマ会議の討議や決議に衝撃を受けたのは濵野であった。成田は次のように書いている。
光田健輔は1957(昭和32)年、長島愛生園を退官し、宮崎松記は1958(昭和33)年、菊池恵楓園を退官し、林芳信は1963(昭和38)年に多摩全生園を退官している。彼ら第一世代から高島重孝、石原や濵野らの第二、第三世代となり、ハンセン病対策も大きく転換していく時代を迎えた。ただ頑強に「らい予防法」体制に固執し続けたのが厚生省であった。