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米田庄太郎の受けた部落差別

奈良県立同和問題関係史料センター刊『米田庄太郎 -人と思想-』に,米田氏の生涯の師であるアイザック・ドーマンの回想録『A MISSIONNARY'S LIFE THE LAND OF THE GODS』(神々の国における一宣教師の生活)からドーマンが米田氏との出会いについて書いた一文が記載されている。

…他の生徒が彼とつきあおうとしないことに私は気がついた。実際彼は120人の生徒のなかで一人排斥されていた。…私は英語の教師のところにいき彼が孤立している理由をたずねた。彼はエタであるということだった。「エタとはどういう意味だ?」彼の返答は「エタとは新平民のことです」であった。「その新平民というのは何だ?」私がいささか乱暴に聞くと,「新平民とはエタのことです」と素直な答えが返ってきた。私はいらいらしてその教師に辞書を持ってくるようにいった。
「エタ」というのは「パーリア」「最下層民」のことだと書いてあった。これは私にとって驚きであった。仏教の存在理由はバラモンをはじめとするインドのカースト制を廃止するためのものであったはずなのに,現在,仏教の色合いの濃いこの国でカースト制が持ちこたえているどころか,助長されているのである。私の人生でこの可愛い最下層民の少年に接したときほど心の奥底がえぐられる思いをしたことがなかった。私は思った。
「もしもキリスト教の力でこの少年を物心両面においてこの環境から救い出し,育て上げ,立派なクリスチャンにすることができなければキリスト教は日本にとって何の役にも立たない」と。私は彼を家に招待して彼を子供たちに紹介した。彼は生徒のなかで最も博学だった。彼は古代宗教に関する私の講義を日本語に翻訳したが,彼の翻訳は日本の文学界も高い評価を得ている。(後略)

私の目的は米田庄太郎氏の優秀さや優れた業績,彼の生涯を述べることではない。ドーマンの視線から,明治20年代(1888~1895年)当時の被差別部落に対する社会意識・社会認知を考察することである。同書に,埼玉県川越を旅行した際に見聞した部落差別の様子を次のように記録している。

…ここで日本のエタ身分について触れておきたい。その数を正確に把握するのは難しいが200万人はくだらないと思われる。エタは全国に散在している。エタの起源についてはこれまでのところ十分な説明がなされていない。ある者は,紀元前に日本に連れてこられた朝鮮人捕虜の子孫だという。またある者はアイヌ(原住民)と初期の日本人,すなわち大陸からの渡来人との混血だという。この説の方が説得力はある。近年の改革以前は,彼らはいっさいの権利を持たず,全く保障されていなかった。エタを文字で表すと「穢れが多い」と書く。今から述べる話が,封建時代のエタの身分をよく説明していると思われる。1896年と1897年の2年間私は群馬と埼玉の2県の教会を担当した。埼玉県川越の近くに山城という村がある。この村にいつも川越の礼拝に出ている教徒が二人いた。ある時,村に礼拝に来てくれないかということになった。私は引き受けることにして,川越の職員にこの村まではどのくらい距離があるかと尋ねた。彼はたった二里(約5マイル)だと答えた。私は少々運動不足であったので歩いていけるかと尋ねた。承諾して我々は二里の道を歩きはじめた。かなり足早に2時間ほど歩いたところで私は尋ねた。「ところで,山城村はいったいどのあたりだ」「それは」と彼は答えた。「この村でちょうど川越と山城の真ん中になります」「何だ?」と私はびっくりして答えた。「もう2時間も歩いているのだから,二里ぐらい歩いたにちがいない」すると,彼は大笑いしていった。
「先生がこれまで体験されたことがないようなことをこれからお話しします。今我々が通って来た村はエタ村で,日本で唯一,街道の通っているエタ村です。他のエタ村はみな,道を通った人が穢れないように,国道から離れたところにあります。さて,村のなかを走っている道の,村の両側一里ずつは,穢れを避けるために本道の距離に入っていないのです。ですから,川越と山城の間は実際四里あるのですが,二里と数えるのですよ」
一人の人間が,同じ人間を軽蔑し憎もうとしたら,その行動がどれほどの不合理なものになるか,その人間には想像できないだろう。私はその後も世界中をまわったけれど,これほどの話は見たことも聞いたこともない。だから書いておく値打ちがあると思う。

ドーマンは,1857年にペルシャ国ウルミエ(現イラン)に生まれ,のちにアメリカに渡り進学校で学んで牧師となった。その後,日本伝道にたずさわることになり,明治21(1888)年に奈良に着任し,布教活動とともに英和学校の校舎新築などに尽力した。

ドーマンの体験談からわかることは,明治20年代の日本における被差別部落に対する周囲の認識と視線(差別観と賤視観)である。
まず米田少年に対して他の生徒が「つきあおうとしないこと」により,彼が「孤立」している。その理由は,彼が「エタ」であり「新平民」であるからだという。明治20年は,解放令から十数年しか過ぎておらず,ほとんどの人間は,幕末期とはいえ江戸時代に生まれ,江戸時代の社会通念・道徳規範・価値観・身分観を身につけて育ってきていると言えるだろう。
明治維新・文明開化という新しい風潮を受けながらも,なお江戸時代の社会通念・価値観は強く残されていたと思う。つまり,米田少年に対する他の生徒の対応は,江戸時代の差別観・差別的対応であったと言える。その理由を「エタ」であり「新平民」であると述べていることは,自分たちとは「ちがう存在」であることを意味している。
【エタを文字で表すと「穢れが多い」と書く】であるが,これも誰かから聞いたのであろう。明治20年代にはこのような解釈がなされていたということは,江戸時代よりの解釈と理解していいだろう。

ドーマンの川越での体験は「里数改訂の問題」である。同様の話は他県にも残されている。
明治2年,福知山藩では,議員の中野齋が「里数改訂の議案」を提案し圧倒的多数(賛成172/198人中)で可決されている。高知県にも同様の伝承がある。
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差別をどのように認識するかで諸説がわかれるが,私は,差別とは「分け隔てること」だと考えている。その究極が,まったく「同じ人間」であることは当然でありながらも,なお「同じ人間」と見なさないこと,自分たちの社会(世界)と別の社会の存在と認識していることだ。<社会外の社会>の存在と見なされ,「同じ人間」であるにもかかわらず<人外(人間外)>の存在と見なされることが究極の<差別>であると考えている。たとえば,「いじめ」における<シカト(無視)>がそうである。かつて,ある生徒が「同じ空間と時間にいるにもかかわらず,私はいない(存在しない)ようにされていた。誰も私を自分たちと同じ存在とは見てはいなかった」と自らの「いじめ体験」を語ったことがあるが,周囲のいじめる側にとって,彼女が「同じ人間」であり「同じ時空間に存在している」ことは自明のことでありながらも,そのように<意識・認識>しないようにしているのである。自分たちとは<ちがう>こと=自分たちの仲間ではないことを証明するために,あえてそうしているのである。

断っておくが,私はそのように(同じ人間ではない・人外の人として)ハンセン病患者・被差別部落民を認識してはいない。私は,時として,感覚は認識をも麻痺させ,感性はまちがった認識を正当化させてしまうことを問題にしているのである。私は,歴史的事実として,その当時の人々の偏見と差別認識を問い直しているのである。歴史において被差別民(賤民)やハンセン病患者を<人外>と見なした人々の意識やそのときの社会意識を考察して述べているのである。
たとえば,「賤民」という認識について,その当時(中世・近世)の人々が一部特定の人間(集団)を「賤民」と認識していたかどうかを考察することと,現在において私がそれらの人々からつながる系譜の人々(末裔)を「賤民」(人外の存在・釈迦以外の存在)と見なしている(差別している)かどうかは別の問題である。私が彼らの祖先を「賤民」と決めつけて「差別している」と言われても,あくまでも学問上の考察・認識の問題であって,現在において私が特定の人々(被差別部落・ハンセン病回復者・障害者など)に対して差別観・差別意識をもって接しているのではないことを明言しておきたい。
残念ながら,特定の言葉・表現のみを取り出して,まるで「木を見て森を見ない」かのように,まるで当時の民衆と同じ差別観や差別意識をもっていると断言する方もおられるが,的外れな認識と思う。見解や解釈は人それぞれだが,真意を曲解しての批判は偏ったものになり,独断に陥りやすい。

単に「難病」を煩っているという程度の認識ではなく,「ハンセン病」患者であるという自己存在への認識,それは同じ「人間」と見なされてはいないという深い絶望であった。だから,彼らは,単に「ハンセン病」が治癒されているという意味だけ(そうであれば「ハンセン病治癒者」の方が的確だろう)ではなく,「(奪われた)人間の回復」という意味を込めて「ハンセン病回復者」と名乗るのだと思う。長島大橋が「人間回復の橋」と呼ばれるのも同じ理由・想いからである。長島に絶対隔離され,隔絶された世界の住人であることを余儀なくされ続けてきた彼らにとって,長島大橋は<絶望から希望への架け橋>なのだ。

<人外の人>という意味は,「人間以外」という存在的・物象的な意味ではない。例えば,感情的な対立から相手を罵倒する場合「畜生」(鬼畜)とか「人間でない」などと言うように,他者を自分(あるいは自分たちの集団や社会に所属する人間)と「同じ」(人間)とは思えないという感覚的・心情的な表現である。自らとの「ちがい」を強調する場合の表現である。ただし,まだ科学的な認識が不十分であった時代(中世)では,呪術的・超越的な世界観から「我々(一般的な)人間とは異なる(異質な)存在」という意味があったのも歴史的事実である。
いつの時代においても,差別に対処する人間の生き様が問われている。「誰が差別したのか」という命題と「なぜ,どのように差別したのか」という命題の前提となるのは,「差別とは何か」である。

癩患者というものは,その生前には縁者がなく,その死後にも遺族がないとしておくのが,血の繋がる人々への恩愛なのだ。
(川端康成 『寒風』)

これは北条民雄が文学の師と仰いだ川端康成が,民雄の死後に全生病院を訪ねて個人の亡骸に会い,その後に遺骨を引き取りに来られた遺族の訪問などをもとに書いた短編小説の一節である。

中世から近世の時代,なぜハンセン病患者の世話を賤民にさせたのか。なぜ病者・行き斃れ人の世話,死体の片付けを賤民にさせたのか。近世において,なぜ行刑や処刑後の取り片付けを賤民にさせたのか。賤民だからである。
誰に命じられるでもなく,率先して自主的に彼らがそれらの仕事をしていたとは思えない。それら命じられた仕事を一生懸命に誠実に行うことと,命じられないにもかかわらず自主的・自発的に行うことは別である。役目や仕事の内容が社会的に不可欠・重要であること,その役目や仕事を誠心誠意行うことと,それを自らが望んで行うこととは別である。

部落解放・人権研究所のHPに,次のような松下龍仁氏の報告文が載っていた。掲載されたのは,2004年5月である。

大阪の市民運動「福祉運動・みどりの風」によって一冊の資料の存在が明らかにされた。資料の表題には「大正五年特殊部落調附癩村調」と書かれてあり,中には全国の被差別部落と癩村とされる集落の世帯,人口調査がまとめて綴られていた。この「特殊部落調附癩村調」には38府県におおよそ4285地区,104576戸,585270人という数字が当時の部落の実体として報告され,「癩村」については9県におおよそ240地区,17800戸,患者数524人という数字が報告されていた。この調査は,当時ハンセン病療養所第1区全生病院の光田健輔院長が各道府県に依頼したものである。
前後の状況について詳しく述べると,光田はまず1916(大正5)年5月11日付(全発第384号)の文書で各道府県あてに「私宅療養癩患者調」を依頼,翌5月12日付(全発第385号)文書で「特種部落竝ニ癩村調」を依頼している(いずれの名称も回答文書からの推測)。ここから,「私宅療養癩患者調」と「特種部落竝ニ癩村調」は一対の調査であることが推測される。ちなみに「私宅療養癩患者調」には45県におおよそ10347人の患者数が報告されていた。
調査を依頼した日から各府県の回答送付日までの期間から考えると,各府県にはすでに「特殊部落」や「癩患者」についてのデータを保有していたと考えられ,そのうちのいくつかの府県では1911(明治44)年に内務省が実施した「細民調査」のデータが基礎になっていると思われる。また,各府県の回答者名は「○○県」という府県もあれば「△△県警察部」名で回答しているところもあり,ここからは「部落」や「癩患者」が治安の対象に置かれていたことが窺える。さらに,回答書には「特種部落」という記述以外に「旧称穢多」「旧穢多」「穢多部落」や「特殊部落」「細民部落」と表記されたものもあり,府県によって若干異なっていた。
調査を依頼した全生病院の光田健輔とは,当時,財界の実力者渋沢栄一の知己を得,ハンセン病患者に対する強制隔離政策推進の先頭に立った人物であり,この時期(1915年),全生病院を含めて全国に5つあった療養所の所長に入所者への懲戒検束権を与えることを強く要請し実現され,各療養所内に監房が設置されている。所長に入所者の生殺与奪の権限が与えられたのである。
また,同じく1915年,光田は全生病院内で男性の患者に対して断種手術を開始,親から子への感染を防ぎ,「隔離」と「断種」を連動させての癩患者撲滅策を推進している。この断種の法的根拠はなく,内務省や司法省の黙認のもとで行われている。

これは,単に光田健輔氏個人の差別観に帰結するものではない。光田氏の認識の背景には,当時の部落に対する社会認識・社会意識,また国家権力の認識(意志)があったのである。

「差別」「賤視」の定義はむずかしいし,その内容と理由を細かく分析して考察すれば,立場や視点によって異なる見解もある。特に時代の違いは大きい。時代によって社会通念も社会意識も異なる。その時代においては「差別」「賤視」でなくとも,後年においては人権の拡大によって「差別」「賤視」とされることもある。
同様に「賤民」の定義もむずかしい。何を根拠に「賤民」か否かを判断するのかがむずかしい。例えば「身分が賤しい」「賤しい身分」という史料(文献)の記述に関する解釈も様々である。「身分」と「人間(集団)」をどのように解するか,「賤しい」のは「身分」であって「人間」ではないとの考えもある。さらに「賤しい」の時代的な意味の相違もあるだろう。しかし「賤しい」「身分の賤しい」の前後の文章に「法外」「慮外」や「心得違い」「不似合い」などの言葉が書かれていることが多い。あるいは,「渋染一揆」の原典史料には「下賤成ル穢多共候得共」と自らを呼んでいる。

「賤民」であるかどうかを明確にすることも重要だが,私は身分によって様々な制限・格差(差別)が支配権力によって法令的に命じられ(規制・規定され)ていた社会のあり方自体を問題にしたい。身分差別を当然とする社会そのものを問題にしたい。なにも「穢多・非人」だけが差別されていたのではない。武士も平人も同じく身分制度において「差別」されていたと考えている。ただし,差別の内容と目的・理由がそれぞれに異なってはいる。
特定の人々を「賤民」と見なした事実があるかどうかである。その場合も「定義」は重要であるが,「定義」による事実の解釈ではなく,「史実」による事実の確認から「定義」を考察するべきだと考える。ただし,その際も各時代によって「認識」のちがうはある。

江戸時代においては法制上「賤民」という言葉自体は存在しない。では,一体何を指標として「賤民」身分なるものを概念規定すればよいのだろうか。結局,武士身分からだけでなく,平人=百姓・町人からも差別されている諸身分を「賤民」と総称するしか言いようがないというのが現状のようである。そもそも「差別とは何か」という問題も含め,昨今の「身分的周縁」という概念から考察する必要を感じている。「身分的周縁」という方法論は,従来単純に割り切って理解されていたものの実態における複雑さを解明し,既成概念をいったん解体した上で,新たにそこにいかなる理論的な展望を構築することができるかを考察するためのアプローチの一つと思う。
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近世岡山藩においては,「穢多」と「おんぼう」と「両山乞食」の三身分が賤民の中心として存在していたものと考えられている。

治安維持については,「穢多」の動員に関して,貞享四年に「穢多」から「目明」役に就任した嵐山覚右衛門が画期となっている。岡山藩の「評定記録」によれば,覚右衛門の就任以後に「穢多」による「夜廻り」や盗人逮捕の事例が見られるようになる。したがって,覚右衛門の「目明」就任は,「穢多」を治安維持に動員する上で重要な意味を持っていたと考えることができる。
「おんぼう」次郎九郎は,「町方盗賊見廻り役」を務めている。「両山乞食」の支配を開始する延宝期以降は,「両山乞食」を伴って,取締り・追払(見廻役)を行うようになる。この見廻役は,城下の「葬式火葬」独占と不可分の関係にあり,「おんぼう」としての特徴である葬送権確保のための見廻役であったと考える。

「野乞食」追払を在方で担う「非人番」は,「穢多」と「非人」双方が行っている。ただし,「非人」による「非人番」の事例においても,「穢多」の「世話」によって「非人番」に就任しており,「非人番」は基本的に「穢多」によって組織化されていたものと考えられる。

この他にも賤民の活動として,死体処理や斃牛馬処理・勧進行為などがあげられる。これらのうちで,死体処理に関しては,正徳期の藩による確定以外,具体像をつかむことができていない。また,斃牛馬処理に関しても,「穢多」による讃岐への牛皮買集や死馬獲得の事例と「平人」による牛皮集荷や大坂「役人村」への牛皮輸送の事例が見られる程度であり,その具体像は解明できていない。

「渋染一揆」に際して,「非人」は関与していない。また「目明し」は『嘆願書』を届ける手伝いのみならず文書推敲の助力をしている。しかし,強訴に際しては村役人とともに説得・阻止を行っている。「佐山村」で伊木軍と対峙した時,代表八人が帰りかけると,「目明し」の手先十四・五人が手道具を持って捕らえようと襲ってきている。城下五か村は「役人村」として「目明し」の統制下にあったわけだが,この点についても岡山藩の支配・統制体制(指揮系統と職制)についてあらためて考察しておく必要がある。特に,城下と郡部ではちがいが見られる。

『足軽目付犯科帳』(高橋義夫 中公新書)『犯科帳のなかの女たち-岡山藩の記録から-』(妻鹿淳子 平凡社選書)を読むと,各藩・各地域によって支配体制や統制体制がちがうことがわかる。一応,各藩は幕府の職制に倣いながら独自の支配体制を構築している。特に末端機構においてはその違いが大きい。

明治以降においては「差別」「賤視」の事実は明らかである。その際の「差別」と「賤視」の定義が,江戸時代,さらには近世・中世においても適用されうるのかどうか,史実から実態をあらためて解明していく必要を感じている。
明治以前と以後を明確に分けるのは「身分制度」である。身分制度上の「身分差別」を「差別」と考えるかどうかで見解が分かれるように思う。「賤しい」の意味も,どのように「定義」するかによっても「差別」との関係が異なってくる。


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藤田孝志
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。