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封建制の残滓-『被差別部落の真実』

小早川明良氏の『被差別部落の真実』(モナド新書)を読んでいた。
以前より私が主張していることに重なる部分(例えば,近世の身分差別と明治以後の部落差別はちがう)もあったが,なお不明な部分もいくつかある。

近世の賤民身分の子孫が,現代の被差別部落とそのままつながっているわけじゃない。
…明治以降,近代被差別部落民」として成立したわけだからね。近世の賤民制と近現代の部落差別はまったくちがう。今日の部落差別は「封建制の残滓」のようにみえるだけで,じつは国民国家がうみだした近代の差別。
たとえ,近世から血縁的につづいているとしても,近世の被差別身分と近代の被差別部落民は,社会的な意味で断絶している。部落差別(被差別部落)は,旧時代の賤民身分が自然に残ったのではなく,近代国家がそれを必要としたからこそ,近代社会の周縁の人びとを再編し,再構築されたんだ。

小早川氏は近世の身分制度による差別と明治以後の部落差別の連続性を否定する。つまり,近現代の部落差別を生み出しているのは,従来言われてきた「古い意識や旧態依然とした社会関係」ではないという。「賤民廃止令」(太政官布告)により,それまでの身分制度・賤民制度が解体され,新たに国家によるすべての国民を統一する支配体制ができたという。
先の「太政官布告」の意図についても,次のように述べる。

…この太政官布告は,たんに穢多非人等の呼称を廃止しただけで,いわば近代的身分をつくり直したわけだよ。
明治政府がこれを布告した目的はなにかといえば,江戸幕府のような封建的分権支配ではなく,被差別部落と被差別部落民を,直接,国家が掌握することにあった。差別からの解放ではなく,「解放」の幻想をあたえて,「国民」として訓育し,差別のなかで,労働力として部落民を生きさせる近代的支配が始まったに過ぎない。
いちばんのポイントは,身分制を解体して,それまで賤民が担っていた<役>-警固・行刑役や死牛馬処理役など身分と表裏一体だった-を解くことにあった。

小早川氏は「前近代と近代はまったく隔絶している」という。「政治経済システムが資本主義・主権国家に様変わりした近代は…過去の社会制度をまったくうけついでいないから…価値観も,人間関係・社会関係もかわ」ったととらえている。
本書に一貫して流れている彼の視点は,マルクスの経済理論に基づいた「社会構造」の変化から部落史・部落問題を分析し,社会経済あるいは政治体制から部落史・部落問題を考察することであった。
あえて極論を言えば,江戸時代の被差別民は,幕府や藩にとって必要な「役」のために,明治政府にとって国民国家を建設するために必要な労働力・徴兵として,つくられた(利用された)という考えに思える。従来の近世政治起源説のように,幕府によって「被差別身分」として創られたとは言っていない(むしろ批判している)が,政治権力が「編成」(再編成)した,あるいは「利用」したという点では政治起源説の立場と思える。

革田や穢多は,それぞれの藩に直接帰属し,かつ,江戸時代の弾左衛門の支配を受けながら,準軍事的役を担う存在だった。各地で警護や行刑役の現場にたずさわり,犯罪者の探索・追捕をおこなっていた。
地域(藩)によってちがいはあるけど,かれら(武士身分である与力・同心 ー 引用者)のもとで行刑や犯罪人の探索・捕縛などの警察業務を<役>として担っていたのは,穢多・非人・革田・鉢屋・藤内などとよばれた被差別民。江戸では弾左衛門の手下たちがおこなっていた。

小早川氏は,江戸時代,「実質的な治安・軍事を担ったのが,被差別民」であり,「日常的に武装を許された職業的な軍人」「革田は軍事的存在であり,<役>の実行は,軍事力の行使だった」と,本書で繰り返し述べている。
また,刑吏役は「二重の保護組織」として権力者を保護(「直接処刑を行わない」「刑を執行させることで自分たちの権力を維持する」)する目的で被差別民に担わせた「重要な役割」であったとも述べている。
このことは,『血塗られた慈悲,笞打つ帝国』(ダニエル・V・ボツマン)に詳しく考察されている。(拙note (1)(2) を参照)

被差別民が<役>として,治安・警察の仕事を担っていたのは事実であると私も思う。
しかし,<差別>という点ではどうであろうか。

幕府や藩は,職務においてもそうでないときも,かれらを厳しく統制した。それは,かれらが幕藩体制にしっかり包摂されていたこと,つまり「社会外」の存在ではないこと,それだけに,封建体制を維持する重要な役割を担っていたことを意味している。

小早川氏は,被差別民は「封建体制を維持する重要な役割を担っていた」ので,農村(枝村)に居住し「農業社会の一員として包摂されていた」ので「社会外の存在ではない」と言う。
では,彼らは差別を受けていなかったとなるのだろうか。(そう主張している人間もいるが…)

本書には人間の姿が見えない。その時代を生きている人間の姿が見えてこない。
私は「差別」は人間の行為・言動だと考えている。人間が人間を「差別」するのである。国家や社会,政治体制,イデオロギーが人間を差別させているという人もいるが,そうであっても実際に差別を行うのは人間である。
同じ農村社会(本村-枝村)に居住しながらも,百姓が被差別民を「社会外の存在」「人外の存在」と認識して「差別」していたと私は考えている。被差別民に対する「差別」とは,現実には同じの農村社会に居住していても,「同じ」と見なさないこと,「排除」だと考えている。
小早川氏のように政治的社会的体制の変革も必要であろう。だが,それでも私はまず目の前の「差別の現実」に対して立ち向かっていくことができる人間を育てたい。おかしいことをおかしいと声を出す人間,差別を受けている人に寄り添い,共に闘っていく人間であることを教えていきたい。

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藤田孝志
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。