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光田健輔論(73) 牢獄か楽園か(6)

<光田イズム>の負の面は、光田イズムに逆らう人間には容赦なく冷酷な仕打ちをしてもかまわないという考えである。これは愛生園の医官や職員にも影響している。

長島事件当時の患者総代で、初代自助会委員長であった木元巌の死は怨恨に満ちたものであった。彼が四囲の冷酷な視線の中でどんな思いをして死んでいったかを思うと胸が塞がれる。
彼は事件当時の責任者であったということで、医局(全員ではないが)から治療拒否という報復的な態度をとられた。××医官は、治療を訴える木元のベッドに来て「あの時の元気はどうした。君はあれほどの闘争をしたんだから、その位の痛みに堪えられんことはなかろう」と、患者がもとめる治療はせず、嫌味をいうだけにやってきた。彼は日頃からその医官に「君が病気しても、君の家内が病気しても絶対タッチしないからな」といわれていた。
木元の死は昭和十八年四月二十五日である。あの事件からすでに七年をすぎ、あの中で生まれた自助会も「返上」していたことを考えても、園の彼(及び事件の指導者たち)にたいする反感の根のいかに深いものであったかがわかる。長島事件は彼らの理念にたいしそれほど深刻なダメージだったのである。

長島愛生園入園者自治会編『隔絶の里程』

××医官とは誰か。別に詮索するほどではないが、昭和11年の長島事件時から木元の死亡した昭和18年まで在園した医官を、『長島愛生園30年の歩み』(1960年)「歴代職員名簿」より抜き出せば、田尻敢(6~22年)、立川昇(8~19)、上尾登(9~19)であり、他にも医官はいるが、昭和18年以前に退官・転官している。上記の話がいつ頃かはっきりしないので断定はできない。

ただし、当時の医官の誰かが(複数だろうが)木元に医療放棄を宣告した人間がいるということは、医師として考えられないほどに冷血で傲慢である。栗生楽泉園の「特別病室」に関係した医官、矢嶋良一などもいることから他園でも似たような実情だったのだろう。私も入園者から医者の失敗や放置、杜撰な手術によって手足を失ったとか死亡したとかの話は多く聞かされた。

それにしても「恨み」「根に持つ」は誰しもが抱く感情ではある。それが「復讐」「報復」に至ることもある。だが、医療の場で病む者を救うために医師を志した者が平気で「見殺す」だけでなく、日頃から恫喝のような「宣言」を繰り返していたとは、これは医療過誤どころか医療犯罪である。しかも複数の医師が、となると光田の監督責任は重大である。

園は事件のあと木元らを特に“思想的元兇”としてマークしたが、彼は何等「思想的」経歴や背景を持った人物ではない。長島事件は県特高課長の介入で和解の形をとったが、園は自助会の存在を心から認めていなかった。二ヵ月後にはマークした患者たちの身元調査を各県知事宛に依頼し、前科や思想上特に注意を要することの有無など六項目をたずねたが、いずれも平凡な回答しか得られなかった。

木元は開拓患者の一人である。選ばれて愛生園に来た彼が長島事件の指導者になろうとは光田園長も思い及ばなかったであろう。熱心なクリスチャンであった木元がときの患者運動のリーダーにならざるを得なかったのは、彼が恩知らずでも、兇悪陰険な性格の持主であったからでもない。彼を暴徒視するのは自らの不明の責を他に転ずるものである。

長島愛生園入園者自治会編『隔絶の里程』

『長島は語る』には、「…完全和解には程遠い感情的しこりが残ったままであった。そのため園は思想的、暴力的主謀者として100名ばかりのブラックリストを作成し、警戒を怠らなかったため、その後の医療をはじめとする生活処遇面に、人道的にも好ましくない影響を与えていたようである」と書かれている。

戦前の時勢を考えれば、共産主義に対する治安維持法による弾圧、思想統制、監視体制は全国を網羅していた。特に皇室への敬慕の情が強かった光田にしてみれば、反抗的な患者は「不穏分子」であり、二度と長島事件のような「暴動」が起こらないよう「排除」するのは当然の処置であっったとは思うが、それにしても木元への対応は医師としても人間としても許せない。


「監禁室」についての記述を紹介しておきたい。

終戦直後のことでした。療養所の近くに軍の物資を保管してある横穴壕があったので、附近の部落民が我先にその物資を奪りに行っていた。私は友人と二人で境界線ずたいの小路を散歩していると、巡視員がやって来て、「貴様らも横穴に物資を奪りに行くのだろう」と云って持っていたコン棒で殴るので全く面くらって、「そんな乱暴なことはやめてくれ自分たちは物資なんか奪りに行くところではない、ただ散歩しているのだ」といくら弁明してもきき入れず、「貴様らは国賊だ来い!」と強引に監禁室に入れてしまいました。…まる一週間、苦しい苦しい監禁室生活をさせられました。あの時のことを思うと今でも怒りで胸が一ぱいになります。
監禁室の壁にはエンピツで色々な落書きがしてありました。その中で特に私の心に強く印象ずけられたのは、次の一文であります。
「救ライの美名にかくれて哀れなライ患者を弾圧するライ園の職員達よ、多年にわたる汝らの偽善行為が白日の下に暴露される日もそう遠くあるまい。その日こそ一万のライ患者が封建の鉄鎖から解放される日なのだ。そして新しい時代の正義が奴らの罪をさばくであろう。病友よその日まで耐え忍んで生きよう!」
と同じ宿命に泣かされた病友達が、何の罪もなく不法に監禁された幾多の事例があったことを思うと、私はいまでも怒りの涙がこみあげて来るのです。

大谷藤郎『らい予防法廃止の歴史』

この一文は、全患協「癩予防法改正促進委員会」が作成した『癩予防法による被害事例-強制収容・懲戒検束等の実態』より大谷藤郎が摘録したものである。大谷は次のように書いている。

それを読めば戦前戦中だけでなく、戦後になっても国の隔離政策の遂行が、無抵抗の病人とその家族に対していかに有無をいわせぬ屈辱と生活破壊を与えていたかということ、しかもそれが闇に閉じこめられて誰も救いに手を貸さなかったこと、数十年後の今それが明らかになったとしてその償いを誰がどうとるのか、その時代を生きてきた誰しもが深い反省とやり切れなさにとらわれる。…制度の行き過ぎが人間を非業の死にいたらしめた事実を知らなければならない。

大谷藤郎『らい予防法廃止の歴史』

「制度の行き過ぎが人間を非業の死にいたらしめた」のだろうか。それは「制度」に縛られた人間による行為が「人間を非業の死にいたらしめた」のであり、その「制度」を作り上げたのも人間である。「制度」のせいにすべきではない。

光田は、隔離政策に従わない者を罰するために「懲戒検束権」を求め、長島事件を教訓により厳しく処罰するための「特別病室」を提言して造らせた。そして意に従わない者を「特別病室」に送致して、それこそ「非業の死にいたらしめた」のである。
「懲戒検束」という制度を振りかざして、(誤認であっても)有無を言わせず、監禁室という「制度」を使う職員がいたのである。


戦後の愛生園における「懲戒検束」はどうであったか。

愛生園における「在園患者懲戒検束調」によると、昭和二十一(1946)年から二十五(1950)年三月までの間の処分件数75件、処分を受けた者延158人、監禁日数の合計1159日である。処分の内容は監禁の他にも謹慎や追放があった。
処分の理由は逃走がもっとも多く、他に逃走未遂、及び幇助、賭博、賭博犯庇護隠匿、官品園外不法持出、物品不正所持、失火、飲酒暴行などがあり、敗戦直後の苦しい生活を反映した食糧、薪炭窃盗、種いも窃盗、野荒し、園外者所有魚窃盗、官林盗伐、物品不正売買などがある。

…それぞれの処分に関しても現場職員の恣意的とみられるようなものが多く、逃走「初犯」の監禁日数などもマチマチで、その理由も示されないまま入園者に一方的に課されていた。

…ここに一つの例を通じ監禁中の患者の生活がどのようなものであったかを記しておく。
…逃走から帰ると、分館の職員が桟橋に待っていて「行き先はわかっているだろうな」といわれ、収容所で着替えさせられただけで直ちに房へ入れられた。入房のさい入口が低いから腰をかがめなければ入られないが、そのさい職員は足で中へ蹴とばした。
食事は押抜きできっちり計ったものに梅干と塩だけで、特に飲水が少ないのには困った。食事のとき湯呑にいつも半分だけで、雨の降る日には差しれ用の小窓から外に手をのばして雨水を吸った。

28日間一回も室外に出して運動させてもらったことはない。治療もしてもらえず、天草の炭鉱で働いたほどの頑丈な体もフラフラになり、座っておれなくなった。また鼻やのどをやられ、出されたあとも鼻をおさえなければ声が出ないようになった。
監禁室(独房は四畳半板張)には一室に二人入れられ、28日の間に相棒は三人入れ替わった。一人の男はヤケクソになり、布団に火をつけたので窒息するところだった。
…散歩していると監禁室の庭に死んだ人が引っぱり出してあるのを見た。死んだ人を見たことは二回あった。

長島愛生園入園者自治会編『隔絶の里程』

単に園内の秩序を乱す者を「懲らしめて従順にさせる」目的で要望した「懲戒検束権」であろうが、あまりにもいい加減な運用であったから問題が生じたのである。江戸時代の刑罰制度であっても「吟味」や「自白」をもとにした「お白州」であった。法律の素人が安直な方法に頼った結果、職員による濫用が起こったのは当然だろう。
光田も含めて各療養所の園長は、本来は医者であって政治家でも教育者でもない。警察でも裁判官でもない。施設管理や運営は素人である。そんな人間が千数百人を統率できるはずもない。他の園長にしても、モデルは愛生園であり光田健輔しかいないのであるから、その影響は大きくなる。似たような運営管理であったはずだ。専門でない以上、運営は事務職員等に任すしかない。その最悪の結果が、栗生楽泉園の霜崎庶務課長や加島分館長である。

今まで検証してきて確信を持って言えることは、あくまで机上あるいは脳内で考えただけで考えた運営計画であり、細部においてまで専門家の意見を入れて検討したものではなかったのではないかということだ。光田の標榜する「家族主義」にしても、光田の理想を強引に押しつけた、現実(実態・実状)への対応を蔑ろにした精神論に終始している。その結果、破綻したのは当然の帰結である。


光田の差別的言動は、朝鮮人患者に向けて「鮮人」「半島人」と面と向かって言うだけでなく文章にも書き残している。当時、朝鮮は日本の占領下、植民地であった時代背景もあるだろうが、彼自身の人権感覚(人権意識)は、彼の傲慢さに反比例するほど低かった。まさに明治の家父長制と天皇制を基盤とする階層(階級)意識を体現した「頑迷な権力者」であった。そして、繰り返すが、彼に影響を受けた医官や職員もまた差別的な言動によって患者を苦しめていた。

一時帰省については、在園の古い患者たちは苦しく悲しい思い出を持たない人は少ないであろう。係の窓口は不許可を言い渡すだけでなく、「鏡を見て来い」とか、「味噌汁で顔を洗って来い」とか侮辱的な言葉を当然のように投げつけたものである。

長島愛生園入園者自治会編『隔絶の里程』

次に、愛生園における「逃走」について見ておこう。光田は何よりも「逃走」を恐れ、怒り、厳罰を行った。それは、自らが推進している「絶対隔離政策」にとって、すべての患者を療養所に収容し、隔離することでハンセン病を「根絶」すること、つまりハンセン病者の絶滅が大前提であり、目的だからである。

長島から「逃走」するには、泳いで渡るか、漁船を利用するしかなかった。島内の四ヵ所に監視所が置かれていた。

逃走はしかし患者の生活にとって大きな失費であり、危険な賭であった。そのどれ一つをとっても悲喜劇をともなわないものはなかったといっていい。首尾よく帰郷できても園に戻れば監房入りである。対岸にたどりつけず溺死する者、途中で発見され送り返される者、密告や監視により未遂のまま監禁処分を受ける者、漁師にだまされて金だけを取られる者等々枚挙に限りはない。

長島愛生園入園者自治会編『隔絶の里程』

『長島は語る』には、捕まって園当局や警察に逃走に関して尋問を受けた調書や捜索を各都道府県知事などに依頼した文書が資料として掲載されている。それらは刑務所を脱獄した者の取り調べとしか思えないものである。

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藤田孝志
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。