<光田イズム>の負の面は、光田イズムに逆らう人間には容赦なく冷酷な仕打ちをしてもかまわないという考えである。これは愛生園の医官や職員にも影響している。
××医官とは誰か。別に詮索するほどではないが、昭和11年の長島事件時から木元の死亡した昭和18年まで在園した医官を、『長島愛生園30年の歩み』(1960年)「歴代職員名簿」より抜き出せば、田尻敢(6~22年)、立川昇(8~19)、上尾登(9~19)であり、他にも医官はいるが、昭和18年以前に退官・転官している。上記の話がいつ頃かはっきりしないので断定はできない。
ただし、当時の医官の誰かが(複数だろうが)木元に医療放棄を宣告した人間がいるということは、医師として考えられないほどに冷血で傲慢である。栗生楽泉園の「特別病室」に関係した医官、矢嶋良一などもいることから他園でも似たような実情だったのだろう。私も入園者から医者の失敗や放置、杜撰な手術によって手足を失ったとか死亡したとかの話は多く聞かされた。
それにしても「恨み」「根に持つ」は誰しもが抱く感情ではある。それが「復讐」「報復」に至ることもある。だが、医療の場で病む者を救うために医師を志した者が平気で「見殺す」だけでなく、日頃から恫喝のような「宣言」を繰り返していたとは、これは医療過誤どころか医療犯罪である。しかも複数の医師が、となると光田の監督責任は重大である。
『長島は語る』には、「…完全和解には程遠い感情的しこりが残ったままであった。そのため園は思想的、暴力的主謀者として100名ばかりのブラックリストを作成し、警戒を怠らなかったため、その後の医療をはじめとする生活処遇面に、人道的にも好ましくない影響を与えていたようである」と書かれている。
戦前の時勢を考えれば、共産主義に対する治安維持法による弾圧、思想統制、監視体制は全国を網羅していた。特に皇室への敬慕の情が強かった光田にしてみれば、反抗的な患者は「不穏分子」であり、二度と長島事件のような「暴動」が起こらないよう「排除」するのは当然の処置であっったとは思うが、それにしても木元への対応は医師としても人間としても許せない。
「監禁室」についての記述を紹介しておきたい。
この一文は、全患協「癩予防法改正促進委員会」が作成した『癩予防法による被害事例-強制収容・懲戒検束等の実態』より大谷藤郎が摘録したものである。大谷は次のように書いている。
「制度の行き過ぎが人間を非業の死にいたらしめた」のだろうか。それは「制度」に縛られた人間による行為が「人間を非業の死にいたらしめた」のであり、その「制度」を作り上げたのも人間である。「制度」のせいにすべきではない。
光田は、隔離政策に従わない者を罰するために「懲戒検束権」を求め、長島事件を教訓により厳しく処罰するための「特別病室」を提言して造らせた。そして意に従わない者を「特別病室」に送致して、それこそ「非業の死にいたらしめた」のである。
「懲戒検束」という制度を振りかざして、(誤認であっても)有無を言わせず、監禁室という「制度」を使う職員がいたのである。
戦後の愛生園における「懲戒検束」はどうであったか。
単に園内の秩序を乱す者を「懲らしめて従順にさせる」目的で要望した「懲戒検束権」であろうが、あまりにもいい加減な運用であったから問題が生じたのである。江戸時代の刑罰制度であっても「吟味」や「自白」をもとにした「お白州」であった。法律の素人が安直な方法に頼った結果、職員による濫用が起こったのは当然だろう。
光田も含めて各療養所の園長は、本来は医者であって政治家でも教育者でもない。警察でも裁判官でもない。施設管理や運営は素人である。そんな人間が千数百人を統率できるはずもない。他の園長にしても、モデルは愛生園であり光田健輔しかいないのであるから、その影響は大きくなる。似たような運営管理であったはずだ。専門でない以上、運営は事務職員等に任すしかない。その最悪の結果が、栗生楽泉園の霜崎庶務課長や加島分館長である。
今まで検証してきて確信を持って言えることは、あくまで机上あるいは脳内で考えただけで考えた運営計画であり、細部においてまで専門家の意見を入れて検討したものではなかったのではないかということだ。光田の標榜する「家族主義」にしても、光田の理想を強引に押しつけた、現実(実態・実状)への対応を蔑ろにした精神論に終始している。その結果、破綻したのは当然の帰結である。
光田の差別的言動は、朝鮮人患者に向けて「鮮人」「半島人」と面と向かって言うだけでなく文章にも書き残している。当時、朝鮮は日本の占領下、植民地であった時代背景もあるだろうが、彼自身の人権感覚(人権意識)は、彼の傲慢さに反比例するほど低かった。まさに明治の家父長制と天皇制を基盤とする階層(階級)意識を体現した「頑迷な権力者」であった。そして、繰り返すが、彼に影響を受けた医官や職員もまた差別的な言動によって患者を苦しめていた。
次に、愛生園における「逃走」について見ておこう。光田は何よりも「逃走」を恐れ、怒り、厳罰を行った。それは、自らが推進している「絶対隔離政策」にとって、すべての患者を療養所に収容し、隔離することでハンセン病を「根絶」すること、つまりハンセン病者の絶滅が大前提であり、目的だからである。
長島から「逃走」するには、泳いで渡るか、漁船を利用するしかなかった。島内の四ヵ所に監視所が置かれていた。
『長島は語る』には、捕まって園当局や警察に逃走に関して尋問を受けた調書や捜索を各都道府県知事などに依頼した文書が資料として掲載されている。それらは刑務所を脱獄した者の取り調べとしか思えないものである。