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身分統制令の意味:雨落ちの線

石瀧豊美氏のブログ『部落史のファイル』の【『菜の花』の読み方(12)「穢れ」意識と『菜の花』】(現在は整理中につき蔵入り)に引用されている史料と,それに関する石瀧氏の論考の抜粋を紹介しておく。

昨十一日,石堂の酒屋へH(地域名)の穢多弐人来たり,角打ち酒飲ますべく申し候えども,何とか難渋申し飲ませず候より争論に及び居り候ところへ,流れの山笠を舁き来たり,右喧嘩の事を聞き,山は居(据)え置き,大勢の者共酒屋へ這入り,右穢多を打擲に及び候事Hへ聞付け,穢多およそ三百人ばかり石堂橋まで押し来候ゆえ,博多も追々多人数に成り,橋にて戦い候由。しかれども穢多共は各竹鎗を持ち,あるいは刀を抜き持ち候奴も(「これあり」脱ヵ)候ゆえ,いったんは博多の者その場を引き候由。しかるに粋方(「目明し」のこと)共来たり,かつ盗賊方も来たり,穢多一人召捕り,余は逃帰りしか,または追返したるか,先ずいったんその場は鎮まり候由。官内・石堂(いずれも町名)の騒動大方ならざりし由,右は丹隠居現に見及びに成り候通りを堤隠居咄しなり。

最後に敷居をまたぐことの禁止(実際は家居立ち入りの禁止)について私見を述べておこう。角打ちを権力が禁止した事実はないが,家居立ち入りは現実に諸藩の法令で禁止された場合があるからだ。「穢れ」意識が「家居立ち入り禁止」として機能するのはなぜか,という点を見逃すことはできないが,これも社会の中にそれを受け入れる素地が歴史的に成立していたのではないかと考えるからである。

安永七年法に付随して小倉藩が出した触の中に,「家居の戸内へも立ち入り候段相聞こえ候。向後さし免ぜざるに立ち入り申すまじく候こと」とあるのは,戸の内側への立ち入り禁止だから,「敷居をまたぐこと」の禁止と同視できるかもしれない。しかし,「敷居」自体に意味があったとは思えないから,文字通りに家居立ち入りの禁止条項と表現すべきだろう。ただし,その場合も「許しを得ずに勝手に立ち入るな」と言っているのであって,絶対的な禁止ではないことに注意。
さらに注目すべきは,次のように「雨落ちの線」が境界とされる場合のあったことである。

一 御百姓家より御用之節も雨落より内え入申間敷候事

また,赤穂藩の場合も同様の例である。

旦那場村々に用事ある時も家内には立ち入らず,よんどころなく立ち入る時は雨だれの外に履物ぬぎつくばって用向きを言うこと
(臼井による読み下し)

このケースでは,やはり絶対的な禁止ではなく,「雨だれ」の外にはきものを脱ぐことで,その家の主人に対し,遠慮しへりくだった様子を示させようとする意味がある。
これを敷衍した同藩大庄屋による規制では,宿場や在村の「小店小酒屋に至るまで立ち入る際は履物を門外でぬぎ這込むこと」と定めていた。
この場合は,はだしでいざりながら(膝行しながら)入ることを強制されているが,酒屋に立ち入ること自体は禁止されていたわけではない。もちろん,被差別民がそのような屈辱的な態度を拒否しようとすれば,実質的には「立ち入り禁止」が実現されることとなるから同じことだともみなせるだろうが,問題の焦点は平人と被差別民との間に日常的な身分の差を示す指標の強制にある。したがって,これを「敷居をまたぐこと」の禁止と言ってしまうと,絶対に店の中に入れなかったと皮相な形で理解されることとなり,「日常の中での身分格差の確認」という,これらの法令の示す本質的な意味が見失われるように思われる。

「安永七年法」とは,安永七(1778)年十月に幕府が賤民身分に対して出した最初の差別法令である。この法令は大目付より全国の藩主に向けて出されており,岡山藩にも移達されている。

安永七年戊戌十月廿三日

穢多・非人等法外御停止御書付
近来穢多非人等之類,風俗悪敷,百姓町人へ対し法外之働致,或百姓体に紛し,旅籠屋煮売小酒屋等へ立入,見咎候得ば,六ヶ敷申掛候得共,百姓町人等は,外聞に拘用捨いたし置候故,法外致増長,就中中国筋穢多非人茶筅之類,盗賊悪党者之宿,又は盗物之致世話候趣も粗相聞候,既に穢多申合,村村へ盗に入候もの,追々引廻死罪等御仕置申付候得共,風俗不相直由之取沙汰有之候,盗悪事いたし候者は勿論,百姓町人へ対し致慮外候歟,百姓町人体に紛し候者ハ,厳敷御仕置申付候段,兼て穢多非人茶筅之類へ厳鋪申渡置,相背者之候はゞ,御料は御代官より手代足軽差出召捕,御勘定奉行へ可申達,於私領も右に准じ可申候,若用捨候場所有之候はゞ,其所之地頭可為不念者也
右之通御書付出候間写遣之候,可被得其意候   以上
(徳川禁令考)

赤穂藩の法令とそれを拒否した「嘆願」が『同和問題の歴史と認識』(吉田證)に引用されていたので転載しておく。

御上様より此度,御仕方の趣にて六ヶ条を以て厳しく仰せ付けなされ候,右ヶ条の内「御百姓家,町家え用事これ有り立ち入り申さず,叶わぬ節は,草履,草鞋など雨だれの外にぬぎ捨て置き,門口敷居内につくばい,用向き申し通ること,但し立ちはだかり言語致すまずき事」と申し候のこの一ヶ条。この一ヶ条の趣相守り候ひては類村の他所より,付合い等致し呉れ候者共一人もこれなく,甚だ以て難渋致極に奉存候,猶又,我等村方より他村方へ縁付致し候者共数多くこれ有り,右の者共相戻し,また他村より我等村方へ縁付き者共も,残らず引取り候よう相成り候段,返す返すも嘆かわしく奉存候に付,恐れをかえりみず,御嘆き申上げ奉り候。右一ヶ条の義は御断り申し上げ奉り候

穢多に対して,百姓家・町家に所用があって訪問するときは,門口敷居で草履や草鞋をぬぎ,雨だれの所で平伏して用件を言上すること,絶対に立ったままで用件を言ってはならないという布令が出されたが,この一ヶ条を守ることは,他村との交際ができず,他村に嫁いだ女を戻し,嫁いできた女を帰さねばならないようになってしまうので,これを拒否するとの嘆願である
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「雨落ちよりの立入禁止」は,同書に引用されている他の史料にも見られる。参考までにいくつか転載して紹介しておく。

【信州小県郡内 津旗本領内の村定 「申渡之記」】
一,其方共儀,先年申渡置候通,対御百姓之慮外ケ間敷儀,決而不仕,丁寧に相勤可申渡候事
一,所者不申ニ及,他所又者祭慶ニ出候而も,女男子供ニ至ル迄,身分ニ応し衣服支度等,目立候儀決而不仕候様申付候事
一,方村出候節者,傘,下駄,雪駄,裏打,足袋,相用申間舗候,草履相用可申事
一,先例之通旦那場所者不申及ニ,在々出而も老若男女子供ニ至迄,雨落より内に入るべからず
【「武州小針村神仙寺出入書」】 
嘉永七年(1854)元日に,武州埼玉郡若小玉村長吏小頭弥左衛門の組下,同郡小針村長吏の五郎七と五兵衛の二人が,同村曹洞宗神仙寺へ年始挨拶に赴き,従来のしきたり通り,同寺台所土間に入って挨拶したところ,住職より無礼であるとして,「長吏は今後は台所の敷居の外から挨拶せよ」と申し渡された。二人は従来通りの台所土間での挨拶を乞い願ったが聞き入れられなかった。

この神仙寺住職の応接の急変に驚いた二人は,組頭をはじめ真観寺住職にとりなしを願ったが返事がなく,神仙寺の上寺である上羽生村の建福寺に取りなしを願い出た。ところが,同年七月,神仙寺から名主を通じて「敷居の外よりの挨拶を守らぬばかりか,このことを上寺建福寺に願い出たことは許し難い」という申し渡しがなされた。宗旨人別帳からの除外を恐れた二人は,浅草の弾左衛門に嘆願書を提出し仲介を願い出た。事情を聴取した弾左衛門は代人を小針村に派遣したが住職は病気を理由に面会を拒み,取り次ぎを通じて「これまで寺の取り締まりが行き届かず,長吏が台所土間に立ち入ることを許可してきたが,一般社会の風習通りに土間立ち入りを禁止したのである」と回答してきた。

翌安政二年(1855)正月,関新田村長松寺,北根村清法寺,笹田村宝持寺及び上羽生百姓の精兵衛,善五郎が仲介に入り,長吏が不調法を詫びる一札を神仙寺に提出することによって事件の落着をはかった。二人は一札の提出を拒んだが,従来通りの関係が続けられ,すべての礼式ができるならばと詫状を提出した。
差上申御詫一札之事
一,私共儀去寅正月元旦御年頭為御礼仕候節,酒狂之上御台所へ立入不斗雑言申触重き御菩薩所を軽蔑に差斗候段蒙御咎当奉恐入候に付,御詫人中様方え取縋り不調法之廉々再応御歎願申立候処,右者私共平常心得方不宜候儀より事起り,今般之次第に至候に付,御年頭節句其外法事等至り,御台所え為立入候儀者一切不相成候共,寺檀之御自愛と被思召死滅之節御勝手之間,御台所へ立入候迄儀,格別之以御勘弁御宥免被下候に付ては,前書死滅之外仮令如何様之儀有之候共,雨落之外においてすべて可申上儀者勿論,巳来右躰不行届之儀無之様急度可相慎旨被仰渡之趣一同承知奉畏候,為後日御詫一札差上申処依如件
安政二卯年正月十四日 忍領小針村 穢多五郎七 五兵衛

明治三年十二月二十七日,和歌山藩から出された禁令がある。

皮田之奴共不作法之儀無之様,前々ヨリ相触有之処,兎角相緩シ不埒之次第ニ付,夫々相糾厳敷咎可申付筈候得共,此度ハ令用捨候間,向後左ケ条書之通,屹度為相守可申,万一心得違之者有之候ハバ,見掛次第厳重可及び置候間,右奴共へ此段早々篤ト可申聞事,皮田ハ穢多ノ方言ナリ。
一,市中ハ勿論在中タリトモ,通行之節片寄候テ,往来之人へ聊モ無礼ケ間敷儀不可致事。
一,物貰,履物直シ等ニ罷出候節ハ,町家之軒下タ雨落ヨリ入候儀不相成事。
一,朝日之出ヨリ夕日之入迄之外,市中ハ勿論町端タリトモ徘徊不相成,且在中ニテモ夜分妄ニ  往来不相成事。
一,町内ニテ飲食致候儀,不相成事。
一,雨天之外笠カフリモノ,不相成事。
一,履モノハ草鞋之外,総テ不相成事。

これらの規制・禁令の意味をどのように解釈するかである。その背景的意味や目的についての解釈はいろいろと分かれるだろうが,私は「排除」「排斥」の<差別>と理解する。つまり,賤民と一般民衆との身分上の<差異>が不明瞭になってきたから,双方に明確に自覚させるために法令を出したのである。

赤穂藩の史料は,穢多の側からの「歎願」であり,「武州小針村神仙寺出入書」も穢多からの「歎願」である。つまり,一方的な規制・禁令に対しては拒否・抵抗の意志を表明し「歎願」しているわけだが,このことは穢多の側にとって「不当」との認識があったことを示している。

「渋染一揆」の発端も同じで,解明すべきは「規制・禁令・倹約令」の意味・目的(藩の意図)と,穢多の側の心情(どのように受けとめているか)である。
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身分制社会においては「身分による差異・差別」は当然のことであり,人間は平等ではないという社会認識・社会通念であった。だから,穢多からの嘆願書の類では,決して「武士」との比較・対比では書かれていない。
彼らは「平人」,特に「百姓」との対比で自分たちの身分・社会的立場を主張している。しかし,彼らは百姓と同じである(百姓である)との身分意識はもっていない。

「渋染一揆」の嘆願書にも,「身分広き御百姓様とは間違い,狭き穢多の類村ゆえ」と自称しているように,自分たちは百姓であるとは言っていない。彼らは百姓と「同格」であるとの身分意識をもっているのである。「御百姓同様御蔵本之年貢」を納めているのだから,「御指別」(差別)されることは納得できないと主張している。

では,百姓との違いは何か。それは「皮多役」「穢多役」である。「渋染一揆」の「嘆願書」では,「兼ねて役人村と御唱なされ候」や「一命相拘わるべくも厭わず候て,御用出情致し,御忠勤を尽くし奉る」と,「穢多役」を担っていることを自負している。

穢多と「かわた」はちがうという主張も同様であって,自分たちの身分・社会的立場の認識を他身分との関係(ちがい)で理解している。

私は「身分による差異」の強制・強要も「差別」であると考えている。

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藤田孝志
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。