「明六一揆」論(7):小林久米蔵(3)
久米蔵が捕らえた津川原村の村民の名前を行重村の山口徳蔵に書き留めさせた理由を,上杉聰氏は下津川村の副戸長豊田貢の目撃証言から,次のように推察する。
当時八歳の豊田貢は,そのときの様子を,のちに次のように書いた。
「暴徒は津川原に到達すると,夕刻火を一時に放ち,元穢多百余戸を全焼させた。煙と炎は天を埋め尽くし,数里四方をあかあかと照らしだした。元穢多はうしろの山へ非難したが,これを探知した暴徒たちは,山を二重,三重に包囲した。夜が明けるのを待ち銃殺(銃殺は前日のことである)し,捕縛するのが見えた。縛った者は,これを河原に引きだした。縛られた者のうち,日頃おとなしく,言語や動作がすべて穢多のならわしを守っている者へは,頭髪に紙片を結びつけ,それを目印にして解放した。その他は,すべてその場で惨殺した」(履歴書草稿)
ここで注目されるのは,“良い部落民”には頭に白い紙を結びつけ,解放したことである。これをしなければ,ふたたび農民が捕らえて河原に連れてくるかもしれない。繁雑さを避けるため,一目でわかる印をつけたのである。
山口徳蔵が名前をいちいち記録したのも,おそらく,誰を釈放したか,確認するためであったのだろう。
(上杉聡『部落を襲った一揆』)
「首実検」「人物改め」である。一揆勢は「詫書」(詫び状)を書けば許してもきた。同様に,津川原村の人々を河原に引き立て,「増長」「傲慢」な者とそうでない者を選別し始めたのである。
原文には「平素温順にして,言語動作の凡て穢多の旧慣を守りし者」とある。つまり,選別の基準は,一般村民に対する「不遜」「増長」「傲慢」な言動を(「近村を軽蔑)しているかどうか,「元身分(の態度)を守って」いるかどうかであった。
その数が30人名ばかりになった頃,宰務喜一郎が捕まり,引き立てられてきた。
宰務喜一郎ならびに同人男龍太郎を縛し連れ越し,ただちに殺すべき勢ひにつき,右両人は,兼ねて近村を軽蔑致し候者にて,幸ひと存じ,凶徒共に向かひ,この者どもは平常,所業宜しからざる者につき,殺害に及ぶべき旨相呼ばはり,指揮に及び候ところ,もとより殺すべき勢ひの党民ども,一時に人気相たち,すぐさま両人とも川原の方へ連行候間,自分同所に居合はせては知る人も多分これ有り,後難を差し量り,その場を立ち退き,暫時致し同所へまかり越し候処,もはや両人はもちろん,その他六,七人河原において追々殺され居り候につき,残る婦女子は助命致し遣はし候様,党民どもに申し聞かせ置き帰宅致し,
(宰務喜一郎とその長男龍太郎が縛られて連れて来られ,すぐにも殺しそうな勢いであったので,この二人はかねて近村の者を軽蔑してきた者なので,これ幸いと思い,この者たちは平生の言動が良くない者なので殺すべきだと叫び,(殺せ)と命令しました。もとより殺す勢いの一揆勢ですので,一時に気勢が上がり,すぐさま二人を河原に連れて行きました。
自分が(殺害)現場に居合わせたら,(自分のことを)知っている人も多分にあるはずなので,後で厄介なことにならないようにと考えて,その場を立ち退き,しばらくしてから現場へ戻ってみますと,すでに二人はもちろん,その他6,7人が河原で次々に殺されていましたので,残りの婦女子は助けてやれと,一揆勢に言い聞かせておいて帰宅しました。)
当時,宰務喜一郎は40歳,隆太郎は22歳であった。河原には,すでに杉原長蔵(63歳)や朝日八郎(31歳)などが縛られて土下座させられていた。
津川原村の長である宰務一族は,久米蔵にとっては最も「心憎い」相手であった。それは,平生から「近村を軽蔑致し候者」だからであり,宰務一族に対して日頃より許し難い怒りを感じていたのである。積もり積もった「鬱憤」を晴らすときと思った久米蔵は,躊躇なく「殺害」を命じた。
なぜ,久米蔵は「軽蔑された」と感じていたのだろうか。
上杉氏は前掲書で,次のように考察している。
部落の人々が「傲慢になったこと」,否,あたりまえの人間の振る舞いをしたことを,彼は「被害者感覚」でのべているのだった。
たしかに,農民たちにとってみれば,これまで被差別部落の側が農民をはばかり,へりくだることで,「御百姓」としての「誇り」を与えられてきた。ということは,部落の側がそうすることがなくなれば,「誇り」も奪われることになる。それはとりもなおさず,いたく「軽蔑される」感覚を生じさせた。
加えて,相手がそれまで人間とさえ見なされなかった者であれば,傷つけられる度合いは,より深刻となる。
一揆勢においても,津川原村のすべての者は知らなくても,村の長である「宰務喜一郎とその長男龍太郎」の顔は知れ渡っていたと考えてもよいだろう。それだけ「宰務一族」は美作でも大富豪であった。宰務家は屋号を「根床」と称し,村の長をつとめてきた家柄であった。
解放令以後,津川原村の人々は「旧慣」を守らなくなる。道で会っても履物を脱ぎ土下座して挨拶することはしない。下駄や傘も平気で使うようになる。
そうなると逆に目に付いてくるのが,津川原村と妙原村の財力の差である。妙原村の主産業は農業であり,それほどに広い田畑を耕作しているわけでもなく,経済的には苦しい農民が多い寒村ある。
それに比べて,津川原村は加茂川を使って薪炭その他の物資を運送する船便の要衝であり,舟運は賤業の一種でもあり,被差別民である津川原村の専業になっていた。舟運による収益に支えられて津川原村の財力は蓄積され,その財力で田畑を手に入れていったと考えられる。さらに幕末から明治になり,商品流通が活発化するにつれてすます運送業の需要は高まり,その収益は増大していく。そして,その利益は津川原村の長である宰務一族が独占し,その財力から美作全域に知られる富裕な資産家となったのである。
また,その財力を活用して高利貸しや地主を行っていた。伝え聞いたことであり確証はないが,近在の一般村民に対しても金や小作地を貸していたともいう。
その富裕な財力で,この時に一緒に殺害された武士出身の「朝日八郎」を手習師匠として雇っている。上杉氏の前掲書には,隣村(津山とも)まで他人の土地を踏まないで行けたとか,小作の届ける米俵が山となったとか,人力車とお抱えの車夫を持つ正視はいつもしれで外出して車上より農民を見下ろして意趣返しをしたとか,財力の豊富さを語る逸話が紹介されている。
宰務家の土塀の上に据えられた「黒塗りの砲身二門」を見た一揆勢が本物の「大砲」と思い,躊躇した理由も,津川原村の財力を知っていたからであろう。(実際は,肥担桶に紙を貼って黒く塗ったものである)
他方,久米蔵たち一揆勢の生業は農業であり,所持する田畑の石高も決して多くない。むしろ美作の地形からも山間の田畑であり,貧しい寒村の百姓がほとんどである。処罰としての「罰金」(二円二十五銭)さえ払えず,借用しなければならなかった貧しい農民が多かったという。
江戸時代,解放令が出されるまでは,収益が多くとも賤業を行う「穢多」であり,身分や社会的位置(社会外の存在)がちがっているため,財力を妬ましいと思うことはあっても「穢多になりたい」とも「賤業をしたい」とも思うことはなかった。彼らを見下し蔑むことは当然の権利であった。彼ら部落民が自分たち百姓に対して礼儀を尽くすことは彼らが守るべき「慣習」(幕府や藩からのお触れ)であった。
しかし,解放令により「身分・職業とも平民同様」となったことで,「外の社会」の存在であった者が「(同じ)内の社会」に入ってくる。同じ振る舞いをする。「慣習」は守らなくなる。
財力の差が「屈辱」として実感させられることになる。
劣等感(コンプレックス)は「被害者意識」に結びつく。従前とは異なる言動は「増長」「傲慢」と感じられ,自分の惨めさを思い知らされ,さらに「被害者意識」は倍加して,抑えがたい「憤怒」となって鬱積していった。
津川原村の豊かさに比べて妙原村の貧しさ,「財力の差」はそれだけで自分が「軽蔑されている」気持ちになっていったことは容易に想像できる。
久米蔵は「指揮」はしたが,処刑の場にはいなかったと再三繰り返している。殺害に関与すれば「後難を差し量り」と思ったからだというが,なんとも勝手な人間である。
残る「婦女子」は助けてやったという。久米蔵の高慢さ,津川原村の部落民に対する意識が伺える供述である。
殺害の状況について他の者の供述書も詳しくはない。久米蔵の「指揮」を合図に誰彼なく一斉に殺害に及んだと考えるべきであろう。
『美作騒擾記』によれば「最初に半之亟(喜一郎)を牽出し,これを水留(溜)の中に突落し,悲鳴を挙ぐるを容赦なく,鑓にて芋刺に串貫き,且つ,石を投げ付けてこれを殺したり」「夫より順次に同一方法を用ひて五人を殺し」たとある。
『岡山県史料』にある「北条県臨時裁判所調書」によれば,喜一郎は「疵六ヶ所」,隆太郎は「疵九ヶ所」,喜一郎の次男喜平(16歳)は「疵四ヶ所」,朝日八郎は「疵総身に数ヶ所,創痕詳に記難し」とあり,別には「五体実に蜂の巣の如くなりし」とも伝えられている。
翌三十日に至り,前書指揮に及び候末,その場の人気とは申しながら,ついに惨殺相成り候儀を,何となく底気味悪しく候より,後難をのがるべしと存じ,津川原村,昨日打ち洩らされし者ども,なおも討ち取るべしとの風聞これあるを幸ひに,助命の儀取り扱ひ遺すべき旨,前書光五郎へ申し聞かせ,従前の身分を相守り候趣の村々宛証書へ,右村総代として,光五郎に調印致させ取りおき,副戸長鈴木春太郎手許へ預けおき候。右始末は,すべて自分一己に取り計り候儀にて,いささかも関係の者と相謀り候儀にはない候事。(翌30日,(先に書いた)指揮によって,その場の雰囲気とはいえ,ついには人を惨殺してしまったことを,何となく底気味悪く思われ,後難を逃れようと考えました。津川原村の昨日殺されなかった者をなおも殺せという噂が聞こえるのを幸いに,(彼らの)命を救う段取りをするため,先に出てきた光五郎に,従前(通り)の身分を守るという村々宛の証書を書かせ調印させ,それを副戸長の鈴木春太郎の手許に預けて置きました。右(今回の)始末は,すべて自分一人が計画して行ったことで,少しも関係者と共謀したものではありません。)
翌日,自分の指揮により惨殺させたという「何となく底気味悪しく候」という気持ちがあったのだろうが,再び河原に行き,昨日殺さなかった者をなお殺してしまおうという雰囲気が一揆勢にあると知り,残りの者の「助命」をしてやろうと考えたと久米蔵は述べている。
そして,津川原村の光五郎に村々宛の「詫書」を書かせ調印させている。
多くの者の殺害を命じていながら,その惨殺死体がそこにあり,津川原村の人々が仲間の死を悲しみながらも我が身も殺されるかもしれぬ恐怖を感じて平伏している姿を見下ろして,なお久米蔵は「詫書」を書かせている。
助けてやったという思い,顔役としてのプライド,ついに詫びさせたという思い,はたして彼の心はどうであったのか。自分の「指揮」で殺害してしまったことを「何となく底気味悪しく候」とは思っても,自分の行動に対する反省はなかったのではないだろうか。津川原村の人々の思いなど,彼には最後まで届くことはなかったのではないだろうか。
従前通りの「旧慣」を守らせる「詫書」を書かせたこと,これが彼の「目的」であったのである。旧来の秩序を回復することが彼の,そして一揆勢の「大義名分」だったのである。
小林久米蔵は,筆保卯太郎らとともに,明治7年2月2日津山伏見町にあった監獄内において処刑された。享年52歳である。
なお,上杉氏の前掲書には処刑地を「兼田橋近くの八出河原」とあるが,好並先生の調査では「懲役百日以下の者を一日を一笞杖に換算して尻を鞭ったのが宮川大橋西詰であり,その地点が八出に近い所からこうした伝承が生まれた」とあるように誤認である。また,処刑の月日も上杉氏は「翌7年7月2日」と書いている。なお,好並先生の調査した「西法寺の過去帳」によれば7月2日没であり,53歳である。
処刑者の屍は戸板に載せられて街道を運ばれたと伝えられている。
津川原村の前を,村人に担がれた戸板に載った斬首された死体が加茂谷に帰って行く。その様子を津川原の人々はどんな思いで見つめていたことだろうか。
宰務正視も幼い目に,その情景を母親とともに見つめていたことだろう。
私は正視の建立した碑文を読むたび,この情景を眺めたであろう彼の心情を思う。私が明六一揆をライフワークにした理由もそこにある。差別は人間の心を残酷にする。決して癒されることのない傷を残す。