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光田健輔論(64) 「らい予防法」の背景(1)
「らい予防法」成立の背景は、成田稔『日本の癩対策から何を学ぶか』に詳しいので、これを元にしながら関連書を参考に時系列的にまとめておきたい。
1953(昭和28)年3月、厚生省が第15回国会に提出した法案は、患者とその家族に対する差別を禁止しつつ、患者を診察した医師の届け出を義務付け、強制収容や30日以内の謹慎を含む懲戒の規定を明記し、患者の外出を療養所長の許可制にしたものの、退園規定はないという内容であった。…3月14日、衆議院厚生委員会は実質審議をしないで法案を可決したが、同日、衆議院がいわゆる「バカヤロー解散」となったため、法案は審議未了となった。
6月30日、法案は第五次吉田茂内閣のもとでの第16回国会に再提出された。7月2日、衆議院厚生委員会で法案の説明に立った厚生大臣山縣勝見は「緩慢な癩の伝染力」を認めながら「癩を予防しますためには、患者の隔離以外にその方法がない」と断言した。審議は急がれ、法案は7月4日、自由党(吉田派)・自由党(鳩山派)・改進党の賛成、左右社会党の反対で厚生委員会で可決、同日、衆議院本会議でも可決され、参議院に送られた。
参議院厚生委員会では、「らいに関する小委員会」を軸に法案の内容が検討されていくのであるが、厚生委員会では、7月6日から8月1日まで時間をかけて審議し、結局原案通り可決、8月6日、参議院本会議でも自由党・改進党・緑風会の賛成、左右社会党・共産党などの反対で可決、ついに法案は成立した。
藤野の一文は「らい予防法」の国会での成立過程を簡単に述べている。こうして、患者の要求は受け入れられず、「癩予防法」よりも隔離政策が強化された「らい予防法」は成立した。
「癩予防ニ関スル件」(明治四十年法律第11号、1907年)、同法改正「癩予防法」(昭和六年法律第58号、1931年)、同法全面改正「らい予防法」(昭和二八年法律第214号、1953年)といずれも政府の作成にかかるが、法案の制定過程は三者三様だった。「癩予防ニ関スル件」では衆議院議員らによる法案が先行し、遅れて政府は自らの法案を押し込むように制定させた。「癩予防法」は政府の独断専行的な立法であった。この「癩予防法」にいくつかの条件を提示(最終的には独自に「ハンゼン氏病法」を起草)して患者は改正を求め、一方の政府は「癩予防法」の基本原理を踏襲して「らい予防法」を成立させた。
戦後、新憲法の制定など民主化の波は療養所入所者に大きな影響を与えた。それは各療養所における自治会運動の活発化、そして全国組織の結成へと拡大していった。
1947年9月、星塚敬愛園自治会は、全施設自治会による全国組織の結成を勧誘し、松丘保養園、栗生楽泉園、駿河療養所、菊池恵楓園がこれに応じた。そこで、翌10月に星塚敬愛園自治会に本部を置き、ともかくも「五療養所患者連盟」を発足させた。…
1947年11月、星塚敬愛園自治会は単独で国会に文書陳情を行い、これが中央官庁に対する患者運動のはじまりだと自賛している。
1948年6月頃に、星塚敬愛園自治会は「癩患者保護法の制定並療養生活の安定と向上を図る為の共同陳情書」について全施設の賛否を求めている。同じ頃に多摩全生園自治会も、独自に「国立療養所多摩全生園患者要求書」を政府・国会に提出…
両要求書の内容はほとんど似たもので、癩患者保護法の制定、職員の増員と処遇改善、療養慰安金(及び作業慰労金)の増額、プロミン治療の普及(入手確保)、医療資材確保・医療施設充実、病棟増築及び老朽家屋改修などである。付記として、「癩予防法」の廃止を求めているが、主は生活状態・生活環境の改善である。
要求書からわかるのは、自治会幹部の情報収集と各療養所間の密な相互連絡、それを可能にする患者の高い知識と学力である。実際、『ハンセン病文学全集』や個人の著書、自治会史などを読むと、彼らが学者や研究者に劣らない博識であり、文章力を有していたことがわかる。鋭い洞察力と情勢判断力をもって療養所の医師や厚生省官僚、政治家の詭弁と欺瞞を見抜いていた。しかし、長い間、彼らは「権力」の前ではあまりにも無力であった。社会から存在するにもかかわらず、存在しないものとされていた。壁の中に、離島に隠されていた。だが、彼らはただ黙していたわけではなく、来たる日を信じて、ハンセン病のこと、隔離政策のことを徹底して学び、考察していたのだ。
成田は国会における「癩予防法」の改正は、<特別病室事件>の露見を契機に始まったと述べているが、私も同感である。もちろん、患者側も「癩予防法」の改正は悲願であり、そのためのさまざまな学習と議論は行われていたと思うが、戦前の強権的な管理と懲戒検束の前に耐えるしかなかった状況が彼らを押し黙らせていた。だが、彼らは療養所職員の傲慢さや不正をしっかりと見ていた。理不尽な運営、杜撰な医療現場(たとえば、看護婦による断種や堕胎手術、不十分な治療など)、職員による横暴を彼らは沈黙の中で憤怒を胸に滾らせていた。
1947年8月28日の第一回特別国会衆議院厚生委員会において武藤運十郎が、8月27日の『毎日新聞』の報道の真偽と、入所患者の切実な生活不安について厚生大臣一松定吉に質問した。一松は自分もその報道には驚いており、早速関係課長らを現地に派遣して調査中だと答え、越えて9月18日には、療養所課長ら五人を派遣したが、共産党有志数名が患者側と結託したために不調に終わり、再度、局長等を派遣していると伝えた。厚生委員会は、共産党の介入を云々するのは不当だと、改めて国会議員による調査団の派遣を決議した。この席で武藤は、隔離のための隔離ではなく、予防のための隔離であるとともに、治療に万全を尽くすという考えからすると、我が国のらい対策には根本的な欠陥があるといい、併せて所内の秩序保持のためにらい刑務所の設置が必要だと望んだ。9月26日の同厚生委員会において国会議員調査団の代表武藤は、特別病室の食事では生命の維持すらむつかしく、厳冬下の凍死もまた当然と断じ、さらに患者の処遇改善の要求を予算不足と退けるのは、官僚が自らの怠慢を弁解しているに過ぎないと強く非難した。11月6日の同厚生委員会において一松は特別病室の非を認め、医務局長東龍太郎も人権蹂躙に違いないとし、今後の対応として治療を目的とした全患者の収容と、らい刑務所の設置を目指すと付言した。
1948年11月27日の第三回臨時国会衆議院厚生委員会において、武藤は五ヵ所の国立らい療養所の「施設並びに生活改善に関する共同請願」を詳細にわたって紹介している。それに対して東は、緊要ならいの根本対策は「癩予防法」との関係もあり、予防局とも十分打ち合わせて法改正も考えなくてはならず、また隔離して終生療養所に収容するということではなく、治療して社会復帰できるものもあるから、入所者全員が死に絶えるのを待つのは錯誤であって、治療を目標にした対策を立てたい旨の見解を述べた。11月30日の同国会参議院本会議にも同様な趣旨の請願書(星塚敬愛園)が紹介されおり、その中で政府は「癩予防法」の改正に着手していると厚生委員会塚本重蔵が伝えている。
長く引用したが、<特別病室>の実態を政府、国会議員、厚生委員会も知らなかったことに驚くほかはない。それだけ隠されていたのであり、人知れず非人間的な残酷極まりない<特別病室>が運用されていたのである。<特別病室事件>に関しては、前に論じているので、ここでは繰り返さないが、成田が述べているように、これが契機となったことはまちがいない。
この段階では、政府も厚生省も患者の人権に配慮し、治療を目的とした療養所に改善すると公言し、そのために「癩予防法」を改正すると言っている。しかし、結局は患者の要望は通らなかった。「治療して社会復帰できるものもあるから」の言葉は、なぜ翻ってしまったのか。
そこに光田健輔が登場するのである。
1950年2月15日の第七回通常国会衆議院厚生委員会は、光田、林、矢島の三園長の出席を求めてらい療養所の現状を質している。光田はわが国のらいの歴史を<隔離こそ最善>という見地から延々と述べた上で、憲法発布以来、懲戒検束も取り消されて制裁はほとんどできない状態にあり、患者の中には相当な労働力(つまり体力)を持つものも多いから、無防備の職員にとっては危険だとまでいい、次いで朝鮮のらいの歴史に及び、1950年1月の栗生楽泉園の殺人事件から推して、療養所は危険千万な状態にあると強調した。矢島はこれを補足して、殺人事件の被害者三人の入所を認めなければよかったが、空床があったので断れなかった上に、懲戒検束もないので監禁もできなかった。らい刑務所は必要だと訴えた。
厚労省官僚は光田が「絶対隔離主義者」であることは当然わかっているし、他の2人も光田の弟子であり同じ考えであることを承知の上で、参考人としている。誰が、何の目的で彼らを招致したのだろうか。政府や厚生省は<特別病室事件>を契機に療養所の改善、軽快退所、「癩予防法」改正まで考えていたはずだが、光田らの証言で方針の変更を余儀なくされる。これは事前にわかっていたことではないのか。
以後、国会では「懲戒検束権」や「らい刑務所」に関する議論が進められていく。
翌16日の同国会衆議院予算委員会では国務大臣殖田俊吉が、らい療養所長は所内の秩序維持のために、適当な懲戒検束権は持っているが、犯罪については無効である。らいは特殊な思い伝染病であっても、犯罪を犯せば適当な刑の執行が望ましく、それには療養所の中に特別な施設を置くのがよいといい、東も、療養所の中に適当な行刑措置を講ずる場の設備が必要だと加えた。…刑務長官佐藤藤佐は、このほど更生当局と法務当局の話合いがまとまり、1950年度の予算をもって実施ということになったと報告した。
1950年12月4日第九回臨時国会衆議院厚生委員会において、大蔵省主計局河野一之は、…癩患者専用の刑務所を菊池恵楓園の一部に設けるよう1951年度予算に計上するつもりとも明らかにした。
「らい刑務所」設置については、これだけを取り出せば正論に聞こえる。実際、療養所内にはさまざまな入所者がいて、中には乱暴をはたらく人間も規律に反する人間もいるだろう。粗暴な性格の者も、犯罪を行う者もいるだろう。おとなしく、真面目に療養生活を送る者にとっては迷惑な存在である。
戦前、光田が、療養所に「監禁室(監房)」を設置すること、<特別病室>の設置、懲戒検束権を認めさせた表向きの理由も、脱走とともに規律に従わない迷惑な患者を「懲戒」することで従わせるためであった。
療養所は相変わらず、隔離の門を厳重にしていた。むりやり連れてきながら、医療を施すところでも、生活を保障するところでもなく、死ぬのを待たせておくだけとすれば、そこは、巨大な、生きものたちの墓場でしかなかった。長いあいだ「自給自足」の看板を背負わせ、やせこけた患者に労働をおしつけておきながら、作業賃が正式に予算化され、働けば働くほど医療費や被服費や食料費を賃金として食う「たこ足」方式の改められたのは1946年であるが、それもばかにしたような少額でお茶をにごされていた。
1947年5月、厚生省令で懲戒検束規定のうち、減食条項だけは削除されたが、すべての患者が懲罰としての減食と同じ状況におかれて飢え、おとろえ、そのうえ減らすものは何もなかった。
…飢えと屈辱と絶望のなかで、我慢の足りない者たちには、どこの施設においても、依然として罰則と制裁が目を光らせていた。
しかし、ここに本末転倒、欺瞞が隠れている。本来、療養所はその名の通り、患者が治療し療養する施設であるはずだ。患者を強制収容して終生隔離する<収容所>ではない。療養所にふさわしい治療施設であり、患者数に相応する病床と居住施設を備えていなくてはならない。また、何より治療による「退所規定」が確保されていなければならない。
だが、実状はどうであったか。治療よりも患者作業が優先され、毛涯や加島のような職員による横暴な支配がまかり通り、しかも終生において隔離される。将来への不安から自暴自棄になるのも仕方がない。高圧的な職員に反発もしたくなる。
国会論議は、光田らの証言を鵜呑みにして、自らの目で確かめもせず、ハンセン病政策の歴史も十分に知らず、一部の患者による事案のみを過度に取り上げて、「らい刑務所」を設置すればよいという「机上の空論」でしかない。「癩予防法」の改正、療養所の改善がすり替えられている。
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