光田健輔論(77) 「らい予防法」その後(4)
『癩に捧げた八十年 光田健輔の生涯』(青柳緑)に、ローマ会議の報告を聞いた時の光田の憤りが描かれている。
ただ、光田と親しかった青柳だから、光田に取材したり、関係者の話も聞いたり、資料もそれなりに集めて書いているだろうが、光田信奉者であり「伝記(評伝)小説」の形態であることからどれほどの脚色がなされているか、感情表現や場面描写がどれほど想像によって描かれているかが気にはなる。だが、光田の人間像の一面を垣間見ることができるので、そのまま引用する。
長く引用したが、小説だけあって情景が目に浮かんでくる。会話なので、光田の心情もよく描かれている。(実際はどのような会話であったかは定かではないが…)
野島泰治は1896年生まれ、光田よりは二十歳年下であり、この年(1956年)還暦を迎えている。光田はこのとき80歳であるが、自らが推進してきた絶対隔離政策に対する絶対的な自負心は少しも衰えてはいない。むしろ、ますます自説への固執と頑迷さが強くなっていることがわかる。
当然、このローマ会議の決議に関して、光田は他の療養所長や厚生省にも連絡していると思われる。厚労省が国際会議などの国際動向を無視してきた背景には、この光田の自説への固執があったと私は考えている。
一貫した光田の論理である。光田の論理は2つの基本原理から成るが、その大前提は、ハンセン病は感染症であり、不治の病であり、世人や社会から偏見や差別を受けていることである。そこに「救らい思想」が利用されていく。
そこから導かれる1つ目の論理は、ハンセン病は感染症であるから「病毒の伝播」を防ぎ、世人や社会を守るため、すべての患者を「隔離」するしかない。しかも「絶対隔離」「終生隔離」である。これが「社会防衛論」である。
療養所に「隔離」することは、世人や社会の偏見や差別から患者を守ることであり、物乞いなどで生計を立てるしかなかった患者に衣食住を与え、生活を保障することである。さらにハンセン病とそれに起因する二次障害や後遺症の治療を行うことで患者を救うことでもある。
2つ目の論理は、ハンセン病は濃厚接触によって感染するから「家族内感染」を防ぐ必要があり、またハンセン病に罹り安い体質があるから、断種・堕胎によって未然に感染を防ぐしかない。また「性分離」をすることは健全な男女の営みに反するから、結婚して互いに支え合いながら療養生活を送るべきである。ただし、その条件は「断種・堕胎」であり、子孫を残さないことで、家族内感染を防ぐことである。
すなわち、療養所という名の「隔離施設」を作り、結婚を許す条件として「断種・堕胎」を実施し、「病毒の伝播」を防ぐために「強制収容」を行い、逃走の防止や治安秩序の維持のために「懲戒検束」を定め、それらの法的根拠として「らい予防法」などの法律を成立させた。そして療養所の方針は「大家族主義」であり「同病相憐」による運営であり、それに従って療養所で暮らすことが求められた。
光田の考えには根本的な欠落がある。それは医学的根拠が不確かなまま、絶対隔離政策を実行し、修正することなく継続し続けたことである。そして療養所の運営においては、所内の秩序を守ることを口実に、所長は恣意的に入所者を管理し、反すれば処罰するという患者の人権を認めない「隔絶の世界」を作り上げた。
あらためて、なぜ光田は「ローマ会議」の決議に烈しい憤りを感じたのか、その憤懣を患者にぶちまけるほどに許しがたいと思ったのか。それは、自らが構築した「絶対隔離」体制が否定されたからである。ハンセン病を世界から絶滅することを目的に考え出した最善の方法である「絶対隔離」「終生隔離」を世界の国々が実践すべきだと自負している光田にとって、それは「逆行」としか思えなかったのだ。
光田は日本のハンセン病者の減少を隔離政策の成果だと本気で信じていた。だから、戦前は占領地であった朝鮮や台湾、東南アジアに療養所を造り、絶対隔離を強制した。しかし、戦後それらの療養所が日本の手を離れてしまったことに危惧し、さらにそれらの国から日本にハンセン病者が流入してくることを極度に恐れている。それが「三園長証言」などの発言である。だから「いまになってその態勢をくずすこと」が「堪らない」と憤ったのである。
諸外国からハンセン病患者、すなわち「病毒」が日本に「伝播」される危険性を危惧したのである。また、日本も「ローマ会議」の決議を受け入れることになれば、療養所からハンセン病患者が「退所」あるいは「外出」することで再び昔のようにハンセン病が蔓延することになると思い込んでいる。
光田がそう思う根拠は、プロミンなどの新薬への懐疑である。治療薬の効果を認めないから「隔離」による「らい菌」の死滅を待つしかない。それは患者の「絶滅」を意味する。実際に光田が言ったかどうかはわからないが、「隔離の効果であと三十年の辛抱で日本にライがなくなるというところまで…」は、その意味であろうと思う。
また、新薬の効果を認めないのは、認めれば隔離政策が終わることになるからかもしれない。