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光田健輔論(77) 「らい予防法」その後(4)

『癩に捧げた八十年 光田健輔の生涯』(青柳緑)に、ローマ会議の報告を聞いた時の光田の憤りが描かれている。

ただ、光田と親しかった青柳だから、光田に取材したり、関係者の話も聞いたり、資料もそれなりに集めて書いているだろうが、光田信奉者であり「伝記(評伝)小説」の形態であることからどれほどの脚色がなされているか、感情表現や場面描写がどれほど想像によって描かれているかが気にはなる。だが、光田の人間像の一面を垣間見ることができるので、そのまま引用する。

…恒例の瀬戸内集団会が開かれた。光田健輔の肝入りで、長島愛生園、邑久光明園、大島青松園の三園が、会場持回りで戦争末期からはじめたのが、いまに続いているものだ。治療と看護に関する研究を報告し合うものだが、年ごとに規模も大きくなり…
最初の演者は大島青松園の野島泰治だ。「ローマ国際会議から帰って」という演題である。
…野島泰治は会議の模様と、日本から出席した三人の講演のテーマを紹介したあと、ローマ会議の決議を披露した。
「…この会議の決議の要旨を簡単に申しますと一つ、ライを結核などの伝染病と同じ取扱いをして、差別法を撤廃すること。二つ、入院は特別の外科治療を要するものだけに制限して、治療が終わったらなるべく早く退院させること。三つ、ライ者の社会復帰に対してできるだけの援助を与えること――というのであります。これは現代の情勢からみて必ずしも暴論だとは言いきれないでしょうが、いろいろと考えなければならない問題を含んでおります。いずれこのことは何らかの形で全国の療養所へ発表されることと思いますので、私の批判はさしひかえますが、十分ご考慮頂きたいと考えます――」
と結んだ。…
光田健輔の頬から温和な表情が消えた。
(特別の外科治療を要するものだけに制限して、治療が終わったらなるべく早く退院させろ――だと、とんでもない話だ。病気の癒ったものは、言われなくてもちゃんと退院させている。一知半解のやからが何を言うか…)
うっかりするとここが瀬戸内集団会場であることを忘れて、たぎり立つ胸のうちを言葉に出してしまいそうなほどの憤りが湧き起っていた。
園長室で休んでいる光田のところへ野島泰治が入ってきた。…
「ローマ会議はご苦労だったね。濵野君は日本の隔離治療と男女の問題について話したらしいが…」
「さんざんやっつけられました。カトリック主催の会議では当然のことでしょうが…」
「しかし日本の療養所がワゼクトミーをやって、男女が結婚していることは世界周知のことじゃないか。わたしに言わしむれば、正しい性分離の手本を示してから批判してほしいとうことだな」
野島泰治も相槌を打った。
「だが、あの決議はいったい何だ」
光田健輔は塩沼英之助の講演でいくらか鎮まっていた会場での憤懣がまた蘇ってきた。
「あの決議に対して賛成してきたのかね」
「賛否をとられたわけではなく、最後にあの決議が出たのです」
「五十一カ国二百五十人の人間が集まって決議したことで、一人の野島君を責める不当はわかっているよ。しかしだ。わたしが遺憾に堪えないのは、それに対して何らの反対意見を出さないで帰ってきたことだ」

青柳緑『癩に捧げた八十年 光田健輔の生涯』

長く引用したが、小説だけあって情景が目に浮かんでくる。会話なので、光田の心情もよく描かれている。(実際はどのような会話であったかは定かではないが…)

野島泰治は1896年生まれ、光田よりは二十歳年下であり、この年(1956年)還暦を迎えている。光田はこのとき80歳であるが、自らが推進してきた絶対隔離政策に対する絶対的な自負心は少しも衰えてはいない。むしろ、ますます自説への固執と頑迷さが強くなっていることがわかる。

当然、このローマ会議の決議に関して、光田は他の療養所長や厚生省にも連絡していると思われる。厚労省が国際会議などの国際動向を無視してきた背景には、この光田の自説への固執があったと私は考えている。

二日後にその月の開園記念日がまわってきた。会場が愛生会館に移っただけで、入園者と職員が集って光田健輔の話をきく習慣は変わっていない。
その日光田健輔は中国のライについて話した。先々月はインド、先月は東南アジアのライの話をした。戦中戦後はとぎれていたその方面の資料なども入手できるようになり、事情が明らかになったからでもあるが、国内の療養所の問題が落ちついたからだともいえよう。
「この前にも言ったように、インドのライは1923年に十万といわれたものが、近年百二十万という数字が出ている。これは調査が綿密になって、三十年前には発見できなかったものが発見されたということとともに、外来診療のために病毒が伝播して患者が増加したのは見のがせないことだ」
彼の頭の中には、野島泰治が話した、あのローマ会議の決議というのが、くすぶり続けていた。
「日本ではみんな知ってのとおり、ライは減少している。それはなんといっても病者を隔離して家族内伝染を防いだからにほかならないのだ。最近はプロミンを頼って、療養所の諸君が社会復帰をし、外来治療を願っている。それに迎合するような医者や宗教家がいることは残念だ。だが薬の効果を全面的に信頼するのはまだ早すぎる。スピロヘータはサルバルサンで破壊されるが、ライ菌はプロミンでは絶滅しないんだ。隔離の効果であと三十年の辛抱で日本にライがなくなるというところまで漕ぎつけたのに、いまになってその態勢をくずすことが、わたしには堪らないのだ…」
場内はしばし騒然となった。社会復帰を念願しているものにとって、光田健輔の言葉は致命的である。日本の他の療養所はほとんど長島方式を踏襲しており、ライ行政について光田健輔の発言は磐石のような重みをもっているから、彼がいる限りライ者の社会復帰の希望は実現しそうにない。

青柳緑『癩に捧げた八十年 光田健輔の生涯』

一貫した光田の論理である。光田の論理は2つの基本原理から成るが、その大前提は、ハンセン病は感染症であり、不治の病であり、世人や社会から偏見や差別を受けていることである。そこに「救らい思想」が利用されていく。

そこから導かれる1つ目の論理は、ハンセン病は感染症であるから「病毒の伝播」を防ぎ、世人や社会を守るため、すべての患者を「隔離」するしかない。しかも「絶対隔離」「終生隔離」である。これが「社会防衛論」である。
療養所に「隔離」することは、世人や社会の偏見や差別から患者を守ることであり、物乞いなどで生計を立てるしかなかった患者に衣食住を与え、生活を保障することである。さらにハンセン病とそれに起因する二次障害や後遺症の治療を行うことで患者を救うことでもある。

2つ目の論理は、ハンセン病は濃厚接触によって感染するから「家族内感染」を防ぐ必要があり、またハンセン病に罹り安い体質があるから、断種・堕胎によって未然に感染を防ぐしかない。また「性分離」をすることは健全な男女の営みに反するから、結婚して互いに支え合いながら療養生活を送るべきである。ただし、その条件は「断種・堕胎」であり、子孫を残さないことで、家族内感染を防ぐことである。

すなわち、療養所という名の「隔離施設」を作り、結婚を許す条件として「断種・堕胎」を実施し、「病毒の伝播」を防ぐために「強制収容」を行い、逃走の防止や治安秩序の維持のために「懲戒検束」を定め、それらの法的根拠として「らい予防法」などの法律を成立させた。そして療養所の方針は「大家族主義」であり「同病相憐」による運営であり、それに従って療養所で暮らすことが求められた。

光田の考えには根本的な欠落がある。それは医学的根拠が不確かなまま、絶対隔離政策を実行し、修正することなく継続し続けたことである。そして療養所の運営においては、所内の秩序を守ることを口実に、所長は恣意的に入所者を管理し、反すれば処罰するという患者の人権を認めない「隔絶の世界」を作り上げた。


あらためて、なぜ光田は「ローマ会議」の決議に烈しい憤りを感じたのか、その憤懣を患者にぶちまけるほどに許しがたいと思ったのか。それは、自らが構築した「絶対隔離」体制が否定されたからである。ハンセン病を世界から絶滅することを目的に考え出した最善の方法である「絶対隔離」「終生隔離」を世界の国々が実践すべきだと自負している光田にとって、それは「逆行」としか思えなかったのだ。

光田は日本のハンセン病者の減少を隔離政策の成果だと本気で信じていた。だから、戦前は占領地であった朝鮮や台湾、東南アジアに療養所を造り、絶対隔離を強制した。しかし、戦後それらの療養所が日本の手を離れてしまったことに危惧し、さらにそれらの国から日本にハンセン病者が流入してくることを極度に恐れている。それが「三園長証言」などの発言である。だから「いまになってその態勢をくずすこと」が「堪らない」と憤ったのである。

諸外国からハンセン病患者、すなわち「病毒」が日本に「伝播」される危険性を危惧したのである。また、日本も「ローマ会議」の決議を受け入れることになれば、療養所からハンセン病患者が「退所」あるいは「外出」することで再び昔のようにハンセン病が蔓延することになると思い込んでいる。
光田がそう思う根拠は、プロミンなどの新薬への懐疑である。治療薬の効果を認めないから「隔離」による「らい菌」の死滅を待つしかない。それは患者の「絶滅」を意味する。実際に光田が言ったかどうかはわからないが、「隔離の効果であと三十年の辛抱で日本にライがなくなるというところまで…」は、その意味であろうと思う。
また、新薬の効果を認めないのは、認めれば隔離政策が終わることになるからかもしれない。

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藤田孝志
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。