「渋染一揆」の最大の謎は,「別段御触書」の【穢多衣類,無紋渋染藍染に限り候…】である。なぜ岡山藩は被差別民に「衣服統制」を命じたのだろうか。
次の史料は,「別段御触書」の13年前に出された法令である。この法令では【渋染藍染】ではなく,【衣類淺黄空色無地無紋】である。ただし,共通の文言がある。それは【平人ニ紛不申様別て下り可申】である。
なぜ天保期(元年:1830~十四年:1843)には,各藩の賤民に対する禁令が多く出されたのだろうか。「渋染一揆」だけが服制禁令ではないことも,以下の史料で確認できる。これら禁令に共通するのは「百姓町人に紛れざる様」「百姓に紛れ候」「百姓商人にも紛れ不埒のことに候」「平人躰ニ」「平人と相混」「在家江紛敷」である。つまり平人との<差異>を明らかにする目的であった。
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「身分と身形」を研究テーマとして開催された第24回九州地区部落解放史研究集会(2005年)で報告された九州各県の発表の記録と「史料」が長崎人権研究所紀要『もやい』(50号)に掲載されている。
その「史料」より「衣服規制」に関わる重要なものを転載する。
これらの「史料」に共通するのは
従来,「衣服統制」に関して「色に付随する差別」ばかりが論議されてきたが,私は命じる側の意図を問題にしたい。なぜなら,その意図が被差別民にとっては「差別」と受けとめる内容だから反発したのである。
「渋染一揆」の歎願書には,百姓に出された24か条については承諾するが,自分たち(穢多)のみに出された5か条については承伏できないとしている。つまり,平人と同じ扱いを求めているのである。
如何なる目的・理由であろうとも,また,その当時の社会が差別を容認(当然と)していた(身分制社会であった)としても,差別-被差別の関係はあったと考える。要は,そのような社会を認めるか否定するかである。
過去に学び,差別を否定する思想と生き方を自分のものとして現在をどう生きていくかだと思う。
私は,いかに職務であろうが何であろうが,身分によって服装を規制するような社会を肯定しない。学校や職場における制服と,日常生活全般における服制禁令とはまったく意味が異なる。何でもかんでも混ぜ合わせて論じると本質を見失うことになる。
服制禁令は被差別民だけでなく百姓・町人にも出されているし,武士にも出されている。細かい規定では,むしろ武士身分の方が厳密であり,厳守されていた。服制禁令は被差別民に対する差別法令という面からではなく,身分制社会のありかたという面から考える必要がある。
つまり,身分制社会においては「身分の格」こそが重要であり,それを明確に表示する必要があった。身分の格を「身分の差異」として明らかにさせるための服制禁令である。