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<特別病室事件>再考(8)

「特別病室」設置の要因となった1936年に起こった「長島事件」(長島愛生園)は、ハンセン病史およびハンセン病問題に関する著書や論文にはよく取り上げられるが、1947年に起こった「特別病室事件」は語られることが少ない。私は、「長島事件」と同等に重要な事件であり、患者が立ち上がり、要求を認めさせ、何より「特別病室」を廃止に追い込んだ「人権闘争」として後世に語り継ぐべきであると思っている。

今までも「人権闘争」に関しては書いてきたが、改めて『風雪の紋』や『とがなくてしす』(沢田五郎)、『栗生楽泉園入所者証言集』より入所者の視点から論じてみたい。

なぜ「特別病室事件」が患者側の勝利に終わったか、その直接の要因は共産党などの支援であったが、その背景には自治会組織の改編があったと考える。楽泉園の自治会の流れを『風雪の紋』よりまとめておく。

1934(昭和9)年、施設当局が公認した患者自治組織が「五日会」である。毎月、5の付く日に会合日を定めたことによる。以前より患者の代表機関をつくり、入所者の便宜をはかるべきと考えた数人が発起人会を結成して密かに動いていた。「当園施設側と患者側との間にさしたる対立もなく公認・発会に導いた要因は、やはり阿部礼治ら外島自治会の統率と規律を重んじたあり方にあったと云っておきたい」(『風雪の紋』)。(外島保養院が室戸台風で壊滅した後、患者は全国の療養所に分散入所させた。楽泉園の受託患者は98名)
12月の役員選挙では10名が選出された。以後、半年毎に改選されている。「会則」の「目的」を「全在園者ノ平安福祉」としながら「職員対在園者相互間ニ」位置する立場に置かれていることが、やがて「入所者に背を向けた施設の“御用期間”になり下がっていく」ことになる。
さらに「施設側は、五日会とは別に患者作業を利用するかたちで患者取締りの“手兵”をつくった。一作業職種の『世話係』がそれである」。施設側の意のままに動く患者を「世話係」に任命しているので、彼らに楯つけば<不良患者>のレッテルを貼られてしまう。つまり、五日会を形式だけの自治組織とし、施設の意向に従って患者の不平や不満を抑えるクッションのように使い、世話係という手兵を作り、患者の動きを監視させたり抑圧したりさせた。まさに“アメとムチ”による懐柔策であった。

戦後となり、GHQの占領政策によって日本は民主化の道を進むが、ハンセン病療養所においては「患者処遇のあり方は少しも改められることはなかった。相変わらず患者の人権を無視し、平然と患者たちを強制労働に駆り立てていたのである」。しかし、「しだいに従来のハンセン氏病行政と施設当局に対する批判が高まり、…施設に協力してきた五日会に向けられる結果になった」(『風雪の紋』)。

…現職役員の総退陣を要求する意思がはたらいていたことも事実である。したがって藤原(時雄)ら役員の多くは、21年度改選に臨んで常会推せんを辞退した。また再び推せんを受けた者も落選し、この時の選挙で10名の役員全員が完全に入れ替わったかたちとなった。

栗生楽泉園患者自治会編『風雪の紋』

大和武夫を会長、藤田武一を副会長とする新生五日会が発足した。彼らは毎日のように集まりをもち、患者の生活を守るために動き始めた。まず食糧の確保のため農地の開墾に着手し、施設側に交渉し、六合村の採草地の貸与を得た。(三町歩を一夜で農地にした)

…患者の食糧事情を改善するために、日々全力を傾けて活動した。殊に施設の食糧管理と給食に目を光らせ、給食棟における入荷、在庫、調理等の状況についてもいちいち点検をおこなうようにし、常に監視を怠らなかった。もちろん戦前・戦中には到底考えられもしなかったこうした活動は、時代背景もさることながら、やはり入所者大多数の強い要求と指示に根ざしたものであり、この点施設当局もよくみていて、さすがに大和たちへうかつな手出しはさしひかえていた。

栗生楽泉園患者自治会編『風雪の紋』

さらに大和らは五日会の会則も改正し、名称を「総和会」としたり、旧役員会を「常務委員会」と改め、常会長と世話係を一般化して新たに「組長」制度を設けたりした。

この改革により、本来は所内患者作業の一職種でありながら加島の手兵と化していた世話係を、入所者本位のものに転換させたことは、患者組織の強化を図るうえで大きな成果だった。こうして大和率いる総和会により施設側との交渉を粘り強く続けながら、患者のための自治会を作り上げていった。


昭和22年に入った頃より再び施設側は、患者に対して強圧的な姿勢を見せ始め、総和会への巻き返しを図ってきたという。

上地区の一部患者が所外諏訪神社裏の雑木を焚きものに伐り、その事で六合村から苦情が持ち込まれると、加島は患者自治組織総和会を無視するかたちで盗伐した患者たちを分館に呼びつけ、「貴様ら、監禁所に入れるぞ!」と脅したり、長靴の支給も再び特定作業者のみにしぼるなどし、これにたいする大和執行部の抗議をも受けつけようとしなくなっていた。

栗生楽泉園患者自治会編『風雪の紋』

こうした施設の巻き返しを受ける中で、霜崎や加島、山口馬吉(炊事主任)らの「人脈とその不正」の数々をつかんでいった。『風雪の紋』より、彼らの不正について引用しておく。

…患者労働にたいするピンハネがあった。…19年頃、県道改修工事に患者たちを就労させ、わずかばかりの賃金を患者に支払っただけで、あとは全部霜崎、加島らが懐に入れてしまったこと。また20年から21年にかけて、同じく草津町の光泉寺で所有地の山と草原を開墾することになり、これにも患者が就労したが、寺側は坪当り六円の金を園に支払ったらしいのに、患者たちは寺への“奉仕”で片付けられた。さらに諏訪神社近くにあった松葉鉱山へ働きに出ていた患者たちも、施設を通しての就労だったために、やはり霜崎、加島らによって長年ピンハネされていたことなどが、ようやく判りかけてきたのである。
そのうえ、治療材料が極度に欠乏しているさなか、施設よりの仕事として、患者の馬方作業員が中身のわからぬ俵を町の運送店まで運ばされたが、重さや手応えから、それはどうやら包帯やガーゼ用の反物ではなかったかとの疑いも生じてきた。しかも総和会常務委員会が施設当局側との種々折衝しているうちに、入所患者数にずいぶんと“幽霊人口”のあることがほぼ判明してきたのだ。つまり施設は、その分の予算を彼らの好き勝手に使っていたのである。

栗生楽泉園患者自治会編『風雪の紋』

これだけでも驚くほかはないが、霜崎や加島の悪行はこれだけにとどまらず、『風雪の紋』にはさらに驚愕の事実が書かれている。

…施設側だが、彼らは敗戦直後の混乱期に乗じて、実にしたたかな動きをみせていた。庶務課長霜崎清は、20年9月内地勤務の軍隊から復員してきた当園運輸部職員黒岩弘一を使って、まず財務整理中の立川航空隊よりドラム缶入りのガソリン50本(10kl)をはじめ、小型自動車三台の放出を受けた。うち一台は多摩全生園に譲っている。同じく黒岩の証言によれば、霜崎はその後も国立療養所の名を利用し、貰い受けたガソリンで黒岩に自動車を走らせ、県内の旧連隊補給部などから、患者用として軍靴、地下足袋、軍手、軍足などの放出を求め、それらの品々を園の倉庫に隠匿したのだった。このほか当時のどさくさにまぎれ、あらゆる方面に手を回して、国立療養所と入所患者救済の名目により、まさに貪欲に放出物資を手に入れた。しかし、霜崎はそうした物資の中から、わずかに軍靴等を患者作業員らに配給した程度で、あとは患者への衣料、煙草などの配給品に至るまで、すべて入所者の眼がとどかぬよう倉庫の奥に積み置き、折々これらの品々を運び出しては私腹を肥やしていたのである。

栗生楽泉園患者自治会編『風雪の紋』

旧軍隊から物資を強奪したとかの話は聞くが、まさか栗生楽泉園で、しかも患者を名目に譲り受ける方法で私腹を肥やすとは相当に悪知恵が働く人物である。霜崎の腹心である山口馬吉が草津町の闇商品競売所に地下足袋や軍手、煙草などを大量に度々持ち込んだことから、楽泉園には大量の隠匿物資があるという噂が立つようになり、患者の知るところとなったようである。
この「隠匿物資」が「人権闘争」において彼らの犯罪の証拠となり、「特別病室」問題につながっていく。


『風雪の紋』に「人権闘争」についての詳細な記述があるので、ここでは重要な点のみをまとめておきたい。

始まりは偶然であった。そして、その偶然が齎したわずかなチャンスを掴み取ったことが悪夢の日々を終わらせたのだ。

…22年8月、当時(共産)党中央委員で関東地方労働組合協議会議長の伊藤憲一が痔の術後の湯治のため来草し、大阪屋別館に投宿していた。…そこへやはり関労協の財政部長をしていた真穂七が喘息を治す目的で湯治に来、二人は地元草津の党員たちの世話を受けているうち、「真穂が楽生園で霜崎という庶務課長が患者の頭をはねて湯治の金で一億円の不正をやっているのを聞きこんできた」ことから、いわば共産党が当園に重大な関心をもつに至るのである。

栗生楽泉園患者自治会編『風雪の紋』

時は参議院議員補欠選挙の最終盤、日本共産党から群馬県出身の除村吉太郎が立候補していた。その選挙運動のために、共産党員が楽泉園に入ってきた。患者の多くは所内作業中で伊藤たちの演説を聞きに集まるものはいない。

この日、青年会の患者たちは加島に命じられて奉仕作業を行っていた。その彼らに伊藤は話しかけた。

「君たちは患者だろう、なぜこんな仕事をしているのか」
「もちろん俺たちだって、こんな奉仕作業なんかやりたくないよ。だけど、みんながこうしなければ、結局は患者全体が困るのだし、仕方ないさ」
「しかしそれでは、いったいここの職員は何をしているのかね」
最初はこんなふうな対話からはじまったのだが、しだいに話しの輪ができて、いろいろやいとりしているうちに、“奉仕”という名の強制労働のことばかりでなく、「特別病室」その他数多くの問題が浮かびあがり、ついに伊藤らと青年会の双方が、患者の代表者に来てもらおうというところまで話しが発展していった。
折よくその場に、総和会々長の大和が来合わせていた。…
大和は請われるままに前に出て、伊藤らにたいし、これまでの入所患者の実態と、現在総和会がおこなっている待遇改善への取り組みなど、一応の説明をした。だがその説明を聞いた伊藤らは、患者のさまざまな要求や怒りを組織化して闘争に起ち上がる必要性を強調、ともかく早急に患者全員に呼びかけて集会を開くことを提案した。

栗生楽泉園患者自治会編『風雪の紋』

その日の夜、中央公会堂において共産党と患者たち約60人ほどの懇談会が開かれた。

…患者たちの口から、次々と窮状が訴えられ、さらに職員の不正問題、「特別病室」問題に激しい怒りの声が吐き出された。…会参加患者たちからは執行部への要望が、また共産党からは総和会の決起をうながす熱烈な励ましがよせられた。
大和はこれを受けて、翌12日常務委員会を開き、そこでの検討を経て、本格的に患者の諸要求をとりまとめることと、取りあげた要求の一つひとつを患者の総意によるものとするため、8月15日当園初の患者大会の開催を決定した。

栗生楽泉園患者自治会編『風雪の紋』

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藤田孝志
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。