光田健輔論(34) 善意と悪意(4)
だが、キリスト者や真宗大谷派の信徒がハンセン病患者に注ぐ「献身」も「慰安教化」も、純粋な「善意」からであったことは否定できない。彼らのハンセン病患者への救護がどれほどたいへんなものであったかは、少し自らが行うと想像してみれば容易にわかるだろう。不治の病と言われ、治療薬もなく、感染の危険性が高いと言われていた時代、身体に現れた病状、知覚麻痺、膿と悪臭、失明などに苦しむ患者に直接寄り添い、治療・看護することがどれほどのことであるか。
「善意」でハンセン病に関わる彼らが、(自覚せずとも)なぜ「悪意」としか思えない「強制収容」「絶対隔離」「断種・中絶」に加担したのか。それも、患者にとって「良いこと」と信じて行ったのか。
「善意」と「悪意」という相反する概念が、「救済(救癩)する側」と「救済(救癩)される側」の立場によって異なってしまったのがハンセン病問題の根深さを表している。「救済する側」が「善意」と信じる行為が、「救済される側」にとっては「悪意」による行為としか受け取れない。両者の隔たりに欠落していたのは何であろうか。それは「相対的対応」であり、「対等な建設的対話」であり、「柔軟な許容」である。何より同等なる「人権」である。
「救済する側」が「救済される側」に対して一方的・独善的・強権的な、選択の余地のない「強制隔離」「絶対隔離」および「強制労働」「劣悪な生活環境」を強いたのであり、「救済される側」は反論も許されず、忍耐で甘受するしかない。だから「救済される側」である患者が求めたものが「自治会」だったのだ。「患者のため」という「善意」の思い込みであることに気づいていなかったのだろうか、それとも気づいていながら正当化していたのだろうか。
小川正子と『小島の春』について考えてみたい。彼女の言動を検証することで、光田健輔や林文雄の「善意の思い込み」の欺瞞性を明らかにしてみたい。簡単に小川正子の略歴を荒井氏の『ハンセン病とキリスト教』よりまとめておく。
小川正子は1902(明治35)年に山梨県東山梨郡春日居村に生まれた。正子の祖父長衛門が始めた製糸工場を父清貴が受け継ぎ発展させた。父の代に全盛期をむかえ、徐行の数も数百人を超えたという。清貴は民政党の県会議員でもあった。母くには同県勝沼の出身で、東京女子高等師範学校の二回生として卒業し、同校の附属女学校や喧嘩の女学校で教鞭を執った。
当時としても、かなり裕福な家庭に育った正子は、甲府高等女学校を卒業後、数年の花嫁修業をして、遠縁の樋貝詮三と19歳で結婚する。樋貝は京都帝国大学を卒業後に逓信省に入り行政官の道を歩き、戦後は衆議院議長や国務大臣を務めるなど政治家として活躍した。しかし、正子の結婚生活はわずか2年ほどで破局した。離婚後、正子は東京女子医学専門学校に入学する。
小川は卒業と同時に全生病院に就職を希望したが、経験を積むように光田に言われ、約3年間、他の病院で修業した後、32年に再び光田に就職希望の手紙を出すが、長島愛生園に移っていた光田は欠員がなく返事を書かないでいたところ、小川は前触れもなく愛生園を訪ね、医務嘱託として採用され、翌33年に正式に医官として発令を受けている。正子の性格なのか、思い込んだら一途という強い信念を感じる。
小川は、1934年秋より37年夏にかけて、四国や瀬戸内海の島々をめぐり、患者隔離に奔走している。しかし、肺の疾患で38年に愛生園を休職し、郷里で静養するが、4年後の1943年、肺結核のため、41歳で亡くなった。
小川正子がハンセン病患者と向き合ったのは、長島愛生園に医官として勤務した32年~38年の約6年間である。
私が検証したいのは、小川が「善意」(と信じ込ん)で行った「強制収容」「絶対隔離」を記録した手記が、結果的に残虐な実態と非人道的な政策である「悪意」を覆い隠し、救癩という美名によって「正当化」を人々に意識づけたことである。一冊の本が「悪意」の隠蔽に利用された事実である。利用したのは誰か。それは序文を寄せた、光田健輔であり、厚生省予防局長高野六郎であり、貴族院議員下村宏であり、光田に賛同する絶対隔離主義者たちである。
彼らが自らのハンセン病対策についての考えを「善意」としか思っていない証左が、下村の「不幸な患者」「憐れなる病める人々」という患者への視線であり、「救い出す」という自己正当化の表現である。そして、彼らが表面上は「救癩」という美名に隠した「本性」が、「患者の全部が相次で天命を終わった時に、その国には癩が絶滅される」という絶対隔離である。つまり、ハンセン病という「伝染病毒」が蔓延しないように、一般人を守るために、すべての患者を「隔離」し、ハンセン病患者が死に絶えるのを放置するという患者の人権や人生などを無視した自分本位の政策である。その「本性」を「救癩」という表現でごまかす「偽善」でしかない。
荒井英子は<『小島の春』現象>と造語して次のように批判している。
荒井氏は「問題は、彼女をして聖医にしてしまう側の論理である」と述べ、「患者の視点は、全くといっていいほど欠落している」「阿部(知二)をはじめとするヒューマニズムという言葉の幻想にとりつかれて、歴史を一方的にしか捉えていない。徹頭徹尾、『救癩』する側の目で歴史を見ている。小川の『献身』が、患者に何をもたらしたのか一顧だにせず、こうして神話化の道筋だけを準備して行く」と、ハンセン病問題の核心を指摘している。
では、だれが、何のために、<『小島の春』現象>を意図的に起こしたのか。
それは紛れもなく光田健輔ら絶対隔離論者である。
光田は『小島の春』の「序」で、「…女性として救癩戦線に投じた愛の爆弾は高知、徳島、岡山、東京等の各地に於て不発に終わったことはない」と小川の患者収容の実績を讃え、「女史から癩の話を聴いた人々は、遺伝の迷信から醒め、伝染を如何に速に根絶すべきかを衷心から考へる」と小川による喧伝の効果を述べている。
光田が小川の逝去後に、彼女の思い出を書いた「純真なる小川女史」(『光田健輔と日本のらい予防事業』)があるが、彼女の救癩に賭ける熱情とひたむきな献身に賞賛と感謝を述べているだけで、特別にここで紹介するほどの内容はない。小川の思い出を語りながら、実際は無らい県運動などによって各府県の在宅患者数が減少している成果を挙げ、自らが提言・推進している絶対隔離政策によってハンセン病が根絶に向かって前進していることを自画自賛している、実に光田らしい一文である。
小川は光田の「走狗」であったのだろうか。私は、小川を「アイヒマン」と同列には思いたくはないが、光田が彼女を「純真」と評する背景を想像して戦慄を覚えてしまう。
作品は出版されると同時に作者の手を離れて一人歩きするとは、よく言われることだが、無責任の言い訳にもとれる。『小島の春』が映画化されたとき、小川は何も感じなかったのだろうか。
監督豊田四郎は次のように語っている。
藤野豊氏は、映画『小島の春』を「絶対隔離の正当性を国民に納得させる国策に沿った映画」「観客にハンセン病が遺伝では亡く感染するということを知らせ、それゆえ絶対的隔離が最善策であることを理解させるための国策映画」と断じている。
その証左に、光田健輔は次のように述べている。
光田が賞賛するこの映画に対して鋭い批判を書き残している人物もいる。荒井氏は2人の人物の批判を紹介している。太田正雄と青木文象である。荒井氏が引用している彼らの一文を転載しておく。
わずかな救いだが、小川自身、映画『小島の春』を観て、「私だけが献身的な人間の様に描かれて癩院で働く方々の献身と仕事が描かれていない」と不満を書いている。荒井氏は、虚飾や虚名を嫌う小川の性格を示していようと評価しているが、それとても「救癩する側」の視点である。