<歴史に、もし・たら・れば…はない>とは至言であるが、差別史などを調べているとつい考え込んでしまう。ハンセン病問題もまた<歴史的転換の時>を過ぎて今に至っている。「なぜ、あのときに」と思ってしまう。嘆きとか悔しさとかよりも、悲哀よりも、私には憤怒の思いが強い。
なぜ「らい予防法」は改悪・制定されたのか。この<歴史的転換>こそが、ハンセン病問題を今日まで残存させた元凶である。しかし、ハンセン病ではなく「ハンセン病患者」を偏見・差別の目で見る人々は何も知らない。この元凶に加担した人間の多くは鬼籍に入り、彼らに<呪縛>されていた人気もまた多くは老年となり余生の世界を過ごしている。彼らは自らの半生を振り返ることもなく、自己正当化のなかで、あるいは「仕方がなかった」と時代的責任制を隠れ蓑に、堅く口を閉ざして、すべてを墓場に持っていこうとしている。事実、知人は元厚生省官僚だった人間に「当時を知らない人間が…」と言われたそうである。
歴史は人間がつくる。だが、まちがった判断や決断も人間がつくる。それに加担した、関わった人間がどう「後始末」をするかである。彼らがしない、できないのであれば、私たちがしなければならない。
歴史には、ヘーゲルの弁証法的歴史観のように単純ではないが、現状を<変革>しようとする勢力と<維持>しようとする勢力が対立する<歴史的転換の時>がある。それは偶然でありながら必然である。戦後、1945年から1953年までは、まさに<その時>であった。
1947年、群馬県でおこなわれた参議院議員補欠選挙に際して、日本共産党の遊説隊が草津町にある国立ハンセン病療養所、栗生楽泉園を訪れたことで長く止まっていた「歴史の歯車」が動き出す。隠されていた歴史の闇が暴かれた。<特別病室>の実態が白日の下に明かされたのである。
1938年に開設された<特別病室>という名の「重監房」には、全国の療養所から園長に目を付けられた入所者が送り込まれ、92人の患者が苛酷な監禁と非人間的な扱いにより22人が獄死(凍死・衰弱死・自死)した。
開会中の国会、衆議院厚生委員会で取り上げられ、国会より調査団が派遣された。日本社会党の武藤運十郎は、フランス革命時のバスティーユ監獄に例えて、<特別病室>の実態を明らかにし、その廃止を強く求めた。こうして重監房は廃止された。だが、<変革>には必ずこれを引き戻そうとする動きが起こる。
「特別病室の食事では生命の維持すらむつかしく、厳冬下の凍死もまた当然」と断じ、「患者の処遇改善の要求を予算不足と退けるのは、官僚が自らの怠慢を弁解しているに過ぎない」と強く非難した武藤にとって、<特別病室>の廃止や患者の生活改善と「癩刑務所」の設置は決して矛盾してはいない。また、一松も<特別病室>の非を認め、東龍太郎も人権蹂躙に違いないと述べている一方で、上記のように<特別病室>の「功績」を認めている。
一松は、『毎日新聞』(1947年8月27日付)の報道に驚き、早々に関係課長ら現地調査に派遣したと答弁し、さらに調査派遣に際して「病院について調べるだけではいけない、患者について調べろ、公平無私の立場において調べてきなさい」と指示したとも述べ、「今御調査に相なるような事実が実在いたしておったといたしますれば、それはまことに重大な国家の不祥事でありますから、私は断固としてこれの責任を問うことはもちろん、将来再びさようなことの起こらないように、もし法規の上で欠陥がありますれば、それらの法改正を国会に提出して皆様の御審議を仰いで、再びそういうことの起こらないように努力する」とまで明言している。にもかかわらず、11月6日の答弁において<特別病室>の功績を述べた一松の「変化」はなぜだろうか。
彼らの背後に光田健輔の影を見るのは私だけだろうか。私には彼らの主張は光田の論理であり、光田のハンセン病患者観が反映されているように思える。管理する側に従順であれば慈愛も恩情もかけるが、反抗的な態度や「逃走」などを行う患者は懲罰の対象となる。光田の「パターナリズム」である。一松や東の答弁の変化は、光田健輔からの抗議によるものと私は考えている。
「重監房」問題に関する成田稔の論文を紹介しておきたい。
成田稔「重監房(「特別病室」)について」(国立ハンセン病資料館 研究紀要第4号)
特に、「重監房が機能していた当時の栗生楽泉園の医師たち」と題した小項目では、医師たちのハンセン病患者への認識と態度を明らかにしていて興味深い。一部を抜粋して引用する。
光田イズムに<呪縛>されている医師の姿がある。光田の自己正当化にも呆れ果てるが、要するに光田は患者に対して「社会の偏見や差別によって迫害されていた、衣食住にも困って徘徊していたお前たちを救ってやったのだ」という考えである。極論を言えば、まるで動物を檻に入れて飼育している飼育員である。尾を振って言いなりになる犬には愛情を持って可愛がるが、牙を剥いて反抗する犬は「躾け」と称して食事を制限したり狭い檻に閉じ込めたりする。患者の生殺与奪の権を握った管理者であって、患者を治癒する医師の姿ではない。彼らにとって患者は研究のための「モルモット」である。
成田稔「重監房(「特別病室」)について(補訂)」(国立ハンセン病資料館 研究紀要第5号)
先の「重監房(特別病室)について」を「別の観点からの考察」を加えた論文だが、重監房や収監患者を医師や職員がどのように見ていたか、その苛酷な非人間的な扱いを江戸時代のキリシタン迫害(拷問も)と対比させて考察していて興味深い。
一松の答弁や光田の所論に対する、すなわち彼らが言う「重監房の功績」に対して厳しい批判を成田は書いている。
「立場が人をつくる」とは、元同僚が教頭に昇任したときに管理的態度と抑圧的言動を行った際に開き直って言った言葉である。「救癩」の思いで療養所の医官となった医師も職員も、体制に組み込まれ、先達や上司の指示命令に従うなかで、いつしか患者を管理する「立場」であることを当然と思うようになり、「~してやっている」という傲慢で威圧的な態度が普通になっていく。患者を自らと同じ人間と見なすことは薄れていき、患者の痛みに共感もしなくなってしまったのではないか。まして「重監房」に入れられた患者は「不良患者」「犯罪者」「反抗者」であって「懲戒」の対象でしかないという感覚に陥ってしまう。
この成田の考察は、当時のハンセン病に関わる療養所の医官や職員、厚生省官僚も含めての患者観であったことは確かだろう。彼らの言動の根拠こそ、絶対隔離政策の産みの親である光田健輔であり、光田イズムであった。そして、その残滓は今も私たちのなかにある。ハンセン病問題は国賠訴訟によって終わったのではない。
ハンセン病問題を学ぶのではなく、ハンセン病問題から学ぶのである。成田が問うのは、私たちの心にある差別や偏見の存在である。
ハンセン病への差別や偏見の実態を把握するため、厚生労働省が一般の人を対象に初めて意識調査を行ったが、6割以上の人が「ハンセン病への差別意識を持っていない」と答えたが、2割近くの人が身体に触れることに抵抗を感じると答えたほか、元患者の家族と自分の家族が結婚することに抵抗を感じると答えた人も2割以上にのぼったことがわかった。
「人は遠くのことは、美しい言葉で語る」とは部落差別と闘い続ける知人の言葉だが、残念ながら真実である。これほどにハンセン病問題の解決に尽力し、詳細な研究を行ってきた成田稔であるが、国立ハンセン病資料館における館長であった自らの人権侵害(セクハラ・パワハラ)には自覚がなかった。彼の著書や論文から多くを学び示唆を受けた者として、実に残念である。