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<特別病室事件>再考(9)

8月15日午後7時から第一回患者大会が開催された。大和ら総和会常務委員会全員が出席し、患者数は約400名にのぼった。共産党からは伊藤憲一、真穂七、山本俊五のほか、金応七、田口賢造が臨んだ。常務委員会よりの経過報告と提言の後、討論に移り、患者は次々と起ち上がり被害の実例を語った。そして、次の事項を決定する。

(1) 全患者ノ要求ヲマトメタルコト
(2) 同情的ナ職員トノ連絡ヲ秘密裡ニスルコト
(3) 窮迫セル生活状態ト園当局ノ非人道的ナ仕打チニ関スル具体的ナ資料ヲトリマトメ日本共産党ニ提出スルコト

栗生楽泉園患者自治会編『風雪の紋』

これを読んで少しだが人間の良心を感じたのは「同情的ナ職員」という一文である。戦後間もない時期、楽生園でも職員組合が結成されていた。初代組合長に庶務の井上謙、副に医官の武田正之が選出されている。そして、密かに井上は施設側の情報を総和会に提供していたという。
だが後日、このことを知った霜崎庶務課長は「飼い犬に手を噛まれた」と怒り、井上は長島愛生園に転勤させられている。霜崎が人事にまで口を出せるほどに、古見園長は「お飾り」にされていたのだろう。

17日には早くも第二回患者大会を開催し、全体会の決定に基づき、要求項目を具体化させる協議を行っている。
さらに19日には第三回大会を、中央公会堂に患者600名を集め、来賓席に共産党の真穂、山本、朴昌煕の三名が姿を見せた。前回大会の決議をさらに具体化し、施設側に交渉するために新たに「生活擁護・要求貫徹実行委員会」(26名)を発足させた。

施設当局との直接交渉は、22日に決まった。この間実行委員会は、初期、渉外、連絡などの任務分担を行ない、それぞれが当面する施設との交渉にそなえて不眠不休の活動に入った。職組の活動家より極秘裡に情報を入手、また関係各方面への支援要請書の作成と長野原町へ出向いての投函、その他必要な手立てに万全をつくした。しかしそうした活動のうちにも、実行委員一人ひとりの脳裡には、「特別病室」の黒い影が恐ろしくのしかかり、突き刺してくるのだった。いつ何どき加島や霜崎や警察の手によって投獄されるかもしれぬという、それは容易にぬぐいきれない恐怖であり、不安のタネであったのだ。

栗生楽泉園患者自治会編『風雪の紋』

対施設交渉の日には、中央公会堂には600名の患者、草津町からは共産党の真穂、山本、金ら6名が出席し、職員席には園長古見嘉一、医務課長矢嶋良一、庶務課長霜崎清、看護長加島正利の4人が座った。園長や霜崎、加島についてはその暴虐について責任は今更述べるまでもない。矢嶋について、その責任を『風雪の紋』には、次のように書いている。

昭和14年(1939年)以来医務課長の任にあった矢嶋良一については、その外科医としての手腕を評価する向きはあったものの、手不足を理由に平気で看護婦にメスを握らせ、ために患者が死に追いやられる事例が絶えず、しかもさらに問題なのは、矢嶋は医療面での責任者でありながら「特別病室」収監者を患者の扱いからははずし、何の診療も施すことなく放置、次々と死亡せしめた点である。このことは、闘争開始にあたって、改めて患者の憤激を呼ぶところとなっていた。

栗生楽泉園患者自治会編『風雪の紋』

施設側の弁解めいた説明や発言があるたびに、患者からはヤジを始め、「腹からふりしぼるような怒号」が一斉に巻き起こった。

…この日施設側は患者の要求事項に対し、
①生活保護費200円支給は妥当。②作業賃ピンハネの事実を認め、慰安会々計簿を公表する。③強制労働は施設の方針ではないので、これを執行した加島を謝罪させ退職させる。④職患合同の園運営協議会の設置を原則的に認め、各種会計は資料として提出する。⑤食費増額、ゴム長靴、電球、雨傘の支給、家屋修理、その他患者の生活保障に最善をつくす。等々の回答を行った。

栗生楽泉園患者自治会編『風雪の紋』

しかし、「不良職員追放」問題を含めて、納得できないところもあったため、翌23日に続行と決まった。


再会交渉では、まず「不良職員の件」に関係して「特別病室」問題が取りあげられた。「実際にそこへ収監され、獄死していった多くの療友たちを知っているだけに、怒りにふるえながら古見ら施設当局者を追及した」が、「施設側は、ほとんど回答らしい発言ができず、ただうなだれるばかりだった」という。

あれほど高慢な態度で患者を恫喝していた加島が黙していたとは、結局は権威を笠に着ただけの小心者であったのだろう。だが、こうした職員を採用するほど人材不足であったのか、古見園長を含めて施設管理を彼らに任せたままにしていた厚生省官僚の責任も大きいと思う。

次に実行委員会は、栗生保育所の児童虐待問題に入った。これには子供の預け親たちが次々に証言に立ち、涙ながらにその実態を明らかにした。すなわち、保母の菅野コト子は常に竹の棒を持ち歩いて子供たちに体罰を加えていること、寝小便をしたとして極寒の廊下にいつまでも立たせ、またいたずらを理由に食餌を与えなかったこと、子供の頭を押さえて積雪の中にその子の顔を突っこんだこと、仕置きに子供を南京袋に閉じ込め窒息死させたこと、足袋が年に一足きりのために子供たちは寒中でも素足でいること、栄養不足で六歳になっても立って歩けない子供がいること、畳も破れほうだいでその上に布団ならぬ綿にくるまって寝かされていること、患者の親は子供の死に目にも会わされないこと等々、いくども声をつまらせての証言であった。…もちろん古見ら施設当局は誰一人として、これらの追究に回答できずにいた。

栗生楽泉園患者自治会編『風雪の紋』

『風雪の紋』には「悲惨!保育所児童」と題した一文がある。そのあまりの杜撰さと保母の非人道的ふるまいに怒りを禁じ得ない。施設側が患者だけでなく、その子供たちを同じ「人間」として見ていないことが明らかである。一体、どれだけの子供が理不尽な仕打ちによって生命を落としていったか。もしこれが園外の保育所であれば、環境も保母もちがったのではないかと思わざるを得ない。

栗生保育所は、湯之沢部落より子連れ患者の収容を契機に昭和8年に開設された。当初は、らい予防協会の委託を受けた日本救世軍が管理運営を行っていたが、児童の生活状態は開所当初より食糧も環境も劣悪であったという。事実、開所から13年までの入所児童の死亡者数は18名にのぼっている。昭和13年、この保育所は二度にわたって火災を起こしたり、保育予算の一部を救世軍に送っていたりしたことが発覚し、保育所は予防協会と救世軍を離れ、施設に移管された。だが、施設当局は改善策を講じるどころか、保育職員を削減するなど、待遇はさらに悪化した。当時の児童数は、学齢児童数と乳幼児数を合わせて毎年90名以上になるにもかかわらず、16年には保育係を9名から7名に、さらに19年には4名に削減している。幼児と学童は10畳間六室に寝起きしていたという。まさに鮨詰め状態での生活である。

さらに保育主任に就任した岩田たまは、保育所地域入口に「病者立入るべからず」の立札を建て、予防医学を理由に保育時と患者との交流を一切断った。患者父母の目が届かぬようにして好き放題の運営を行ったのである。当時働いていた保母の証言は上記のとおりであった。その一部を引用する。

私は21年に保育所勤めを辞めたのですが、その間にもずいぶん子供たちが死にました。それもほとんどが乳幼児で、岩田主任さんは赤ん坊がミルクも何も呑まなくなって何日も経ってから、やっと園の先生に診てもらうというやり方だったため、いつも手遅れで死んでいったのです。しかも岩田さんは本病を嫌っていたので、子供が病気になっても患者の親に知らせず、死んだ時はじめて通知をし、急を聞いて馳(駆)けつけた親に、やはり窓ガラス越しにしかその子の死に顔を見せなかったのでした。そして火葬した後、火葬場まで呼び出しておいた親に子供の遺骨を渡し、それですべてを済ませたのです。

栗生楽泉園患者自治会編『風雪の紋』

子供たちを慰めてくれた教育部主任蜂須賀要は自分の子供と保育所児童を分け隔てなく扱い、食餌も分け与えたというが、それが岩田を怒らせ、霜崎庶務課長によって解任されてしまったという。岩田は霜崎の妾と噂されていたが、終戦間もなく彼女も辞め、次に就任したのが、さきほどの菅野コト子である。菅野と同時期、保母であった竹田花子は、次のように証言している。

…菅野さんは保育所内を回る時、いつも竹の棒を持ち歩き、悪さをしている子供を見つけると容赦なくその棒で叩くため、子供たちは常に怯え、明るい表情をみせることはけっしてありませんでした。…ともかく彼女の行為は、子供たちへの躾けというよりもただ憎しみの表れとしか受けとれぬことが多く、私は戸惑うばかりでした。

栗生楽泉園患者自治会編『風雪の紋』

菅野は同僚の新井という保母を誘い、子供たちのわずかな給食分の中から食物を掠めとり、ひそかに食べていたという。保母の役得として。時代と療養所という治安維持の閉鎖空間だから黙認されたのかもしれないが、明らかに殺人と虐待の犯罪行為である。今では考えられない。何より罪にさえ問われていない。患者は泣き寝入りするしかなかったのだ。

患者の生々しい証言を聞くたびに、置かれた環境によって人間はどのようにでも変貌できるのだと痛感する。それゆえ、個人の責任に還元して終えるべきではない。いくら非人道的な行為を行っていたからといって、霜崎や加島、岩田や菅野だけが悪いのではない。彼らにそうさせる状況や環境を与えた管理監督の責任、何よりハンセン病患者へのまちがった認識を植えつけた絶対隔離政策を推進した光田健輔らの責任を問うべきである。

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藤田孝志
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。