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光田健輔論(66) 「らい予防法」の背景(3)

1951(昭和26)年11月3日の文化の日、光田健輔が文化勲章を授与された。「救癩の父」と呼ばれ、長年に渡りハンセン病医療に貢献してきたことを認められての栄誉であった。
全国の療養所入所者は、全癩患協の呼びかけで5円ずつ出し合って、寝具一式を贈った。

だが、そのわずか5日後、光田は、第12回国会参議院厚生委員会において、いわゆる「三園長証言」を行うのである。証言の中で、光田は次のように述べている。

…予防上から申しておくのは、療養所の中にいろいろ民主主義というものを誤解して、患者が相互に自分の党をふやすということで争っているところがございますし、それは遺憾なことで患者が互いにいがみ合っているようなことになっておりますが、これは患者の心得違いでありまして、そのためにそこの従業員が落ち着いて仕事ができない。結局は患者の不幸になって参ります。…もう少し法を改正して闘争の防止ということをしなければ、不心得な分子が院内の治安を乱しますから、十分法の改正すべきところはして頂きたい。

『三園長証言』

光田の方こそが「民主主義」をはき違えている。無理矢理に「大家族主義」に入れ込まれ、明治の家父長制を強要されるなど、戦後の個人を尊重する考えとは相容れないのは当然である。まして「犠牲」を強いられれば反発もする。意に従わぬ者は「不心得な分子」と見做し、「懲戒」を与えて従わせるなど、時代後れの妄言である。
光田こそが「恩情」を忘れ、自分の「理想」以外認められないという「心得違い」である。


新たに生まれかわった各療養所の自治会は、さらに連帯を強めて大きな力となるべく全癩患協に結集し、早々に行動を起こした。

この年の2月、全癩患協の第1回書面会議が始められた。各支部からの議題提出を本部がまとめて各支部に提案、意見交換による討議を経て採択に持ち込まれたのが5月2日であった。ハンセン病患者ゆえの「書面会議」である。
そこで採択されたのは、①研究所の設立 ②作業慰労金 ③付添手当 ④営繕費の増額 ⑤文化教養費の計上 ⑥医師、看護婦および職員増員並びに待遇改善 ⑦癩患者保護法制定 ⑧寒冷地療養所燃料費増額及び被服、寝具の特別支給 ⑨結核予防対策 ⑩重病棟の設備改善、の10項目であった。全癩患協は10項目の請願を行い、そのいくつかは参議院本会議で採択されて内閣へと送付されたが、何一つ実現されなかった。
第2回書面会議は、同年8月から11月にかけて行われ、10項目を再確認し、新たに被服費や燃料費の増額を請願事項に加えた。

このように当初の全癩患協の活動は、生活や待遇の改善を国会や内閣、大蔵省や厚生省に働きかけることであったが、反応は芳しくなかった。それでも全癩患協は繰り返し請願を続けたが、「三園長証言」の一人、宮崎松記が園長である菊池恵楓園で「強制収容」が強行され始め、それを入所患者が阻んでいる状況も生まれた。

翌1952年2月から開催された書面会議において多磨支部が「支部長会議」の開催を提案した。5月22日から28日まで、全生園を会場に第一回支部長会議が開かれることになった。だが、施設側に背く政治活動である以上、さまざまな妨害や障害が予想され、実際どれだけの支部が参加できるかが大きな問題であった。

長島愛生園では二人の出席代表を決めたが、「会議出席を予定しての帰省は認許できぬ」と施設から拒否された。その理由を質すと、林芳信園長よりの書簡が明らかになった。

今般本園内に事務所を設置している全癩患協本部から各療養所自治会宛に本園を会場として各代表者の会議を開催したいと云う通謀を発したことは、多磨当局としては事前何ら承認を与えたものではない、この様な行事は昭和26年7月医務局通牒もあるので絶対に許可しない方針であります。貴職に於かれましても右ご了承の上、一時帰省の方法によっても参加を許可しない様御取計ひ下さい。

全国ハンセン氏病患者協議会編『全患協運動史』

これを受け、田中文雄長島支部長は参加を断念せざるを得ないと連絡した。その理由は、林園長の申出もあるが、強行すれば無断出所で逃走と言うことにし、園籍も失うことになるとの脅しであった。各療養所においても同様であったことは想像できる。これは、自治会及び全癩患協の台頭に対する警戒心の表れであるが、逆考えれば、それだけ自治会の存在が大きくなっている証左でもある。

支部長会議の開催は困難であったが、どうしても開かなければならない状況でもあった。第1回支部長会議には抑圧、部外をはねのけ、松丘から駒木根拓寿ほか三人、東北から高橋弘二ほか一人、栗生から富岡雄二ほか四人、駿河から田中章道ほか一人、菊池から加納敏克ほか一人、星塚から奥実利ほか一人、多磨からも原田嘉悦ほか三人、本部事務局員およびオブザーバーとして多磨支部役員が参加、5月23日礼拝堂における歓迎会をもって始められた。それは、やっと会うことのできた顔、顔、顔であり、顔を見ただけで涙が出てきてしまいそうな顔ばかりであった。

全国ハンセン氏病患者協議会編『全患協運動史』

一日目は2回の書面会議で採択された要請内容を討議し、要求の理論的補強を行った。二日目は予防法改正に関する議題に終始した。三日目は身障保障(義足費ほか)等予算の問題、高校設置等教養文化の問題、患者作業の範囲など全議題を消化した。四日目は懇親会が開かれた。こうして歴史的な会議の幕を閉じた。
九州二園の代表は帰途、長島、邑久に寄って会議の報告をし、さらに大島と邑久を長島に招き、西部五園代表による懇談会が開かれた。


実はこのとき全癩患協本部は「三園長証言」の全文を、どのように、いつ入所者に伝えるかで苦慮していた。せめて各代表には伝えなければと判断して「証言議事録」を渡している。

火の手は菊池からあがった。
本部事務局は、三園長の証言議事録を菊池代表に渡し、慎重に扱うように注意したが、同支部では正しい解決を図るため、入所者に要旨を伝えないわけにはいかなかった。菊池恵楓園の入所者は今日の今日まで宮崎園長を心から信頼していたが、社会保障制度のととのわない状態で収容が強化されたら、犠牲をこのうえ患者、家族に押しつけることになり、逃走罪をもうけ、懲戒検束権をもって今後も、不満の多い状況を取締っていこうというのであれば、施設運営に協力し、療養生活の向上に一生懸命尽くしてきた者たちとして、裏切られた思いに駆られるのは当然であったし、事実を知らされ、憤激が轟然と高まっていった。
菊池支部は、園長の証言は予防法改正によせる入所者の願いと全く対立する、と撤回を要求することにした。公聴会が開かれ、真意の追及に遭って宮崎園長は証言の取消しを約束、患者側の出した陳情書をもって上京することになった。

全国ハンセン氏病患者協議会編『全患協運動史』

宮崎が上京したか、患者の陳情書を手渡したか、それらの記述がないため不明だが、事実はどうであったのか。ただ、全癩患協では、評議会が三園長への抗議とらい予防法改正促進委員会を全癩患協組織内に設置することを決定した。さらに三園長証言議事録全文を全支部に配布し、全癩患協議長加賀美君彦の名をもって、光田愛生園長に抗議文を発送した。
光田の証言に対して一つひとつを論破したうえで「然し、私達は、最早旧憲法下に眠らされた卑屈な患者ではありません。懲戒検束規定の犠牲になった幾多の病友、強制収容のために平和を破壊された沢山の家庭を考えるとき、生命を賭しても予防法の改正をかちとる覚悟」であり、「あなたが前言を改めず、あの政策をもって、今後もハンセン氏病事業を運営して行こうとするならば、私達も自分達と家族の自由と幸福と人権を擁護するために闘ってゆきます」と決意を伝えている。

これに対して「光田園長は『証言の真意を補足説明』したが、内容は議事録に比べ、はるかに弱いものであった」と、『全患協運動史』に書かれている。だが、光田の本心は一向に変わってはいないと私は思っている。あの頑固者が簡単に自説を改めるなど信じられない。

手錠などとはけしからん――というわけで、説明会が開かれたのだ。私はまたもや礼拝堂で首の座に引きすえられた。…私は患者たちから執拗に証言の取り消しを要求された。

「この証言は私の生涯をかけた学問的な研究と信念から、当然のことをいったまでだから、取り消すわけにはいかんよ。証言を撤回することは、私の学問の価値を動揺させることだ、それが不承知で、どうしても取消しを要求するなら、まず私の首をはねてから先に進んでくれ…」

私は首を前へつき出した。私以外の証人は、私ほど激しいことはいわなかったが、あっさり証言を取り消されたようである。私は患者に殺されることなどは、少しも恐れていない。もしも私が殺されたら、なぜこういう事態になったかについて、患者たちがよくよく考え及んでくれる、いい材料になるであろうと思った。
しかし私は殺されもせず、1953年(昭和28年)1月12日、七十七才になった。全国の療養所にいる患者諸君から、私は暖かい絹夜具と毛布を贈られ、喜寿を祝ってもらった。
このように自分たちの主張は主張、個人のお祝いはお祝いとして区別してくれたことが、私は非常にうれしかった。

光田健輔『愛生園日記』

「絶対隔離政策」「懲戒検束」「断種・堕胎」が学問的な研究とは呆れ果てる。プロミンの効果によって光田の「学問の価値」は「動揺」しているはずである。何と頑迷で自信過剰な人間だろうか。

犀川一夫は「対外的な先生の発言は、日本のらい行政に直接影響するだけに、先生は意識して発言しておられた。」(『門は開かれて』)と書いているが、私には贔屓目に見てもそうは思えない。犀川自身も「ただ問題は、三園長が揃いも揃って、なぜ『強制収容』とか、『消毒の実施』『外出禁止』などを強調されたのか、その真意のほどは理解に苦しむし、残念なことである」「1951年の時点での三園長の、患者を施設に収容して治療をする考え方も理解できないこともないが、それにしても『強制収容』は、理解に苦しむ」(『ハンセン病医療ひとすじ』)と書いている。
また、「日本のこれまでの『らい政策』が執拗に身についていたことは否めない」(『同書』)とも書いている。

犀川は、上記の著書において、在宅治療をめぐって光田と対立し、長島愛生園を出ていく経緯を繰り返し書いている。「やはり在宅治療のため、海外に出掛けるか。私も頑固だが、君も頑固だね」と光田に言われたことも書いているが、光田は「頑固」というより偏執的であったと思う。自分の築き上げてきた社会的地位あるいは権威に固執し、自分が提唱して推進してきた「絶対隔離政策」が時代後れのように否定されていくことを認めたくなかったのではないだろうか。


ここで確認をしておきたいことがある。
『全患協運動史』では「全患協」(全国々立療養所ハンセン氏病患者協議会)の表記を使用しているが、正式には「全癩患協」(全国癩療養所患者協議会)である。1953年2月をもって「全癩患協」を「全患協」に変更する旨を「全癩患協ニュース」第24号(1952年12月)で告知している。これは第一回支部長会議で討議の上で採択された要求(請願)項目の一つである<「癩」を「ハンセン氏病」と改める>に準じての名称変更であると考えられる。


話をもどして、「らい予防法」成立の背景について検証していく。まず、藤野による概観を引用しておく。

…厚生省は「癩予防法」を改正せず、絶対隔離政策を維持するという方針を固めていた。その方針を覆したのは、全癩患協の法改正に向けたたたかいであった。1953年、左派社会党の長谷川保が全癩患協の主張に沿った「ハンゼン氏病法案」を作成するに及んで、厚生省はそれを潰すために急遽、強制隔離と懲戒権を明記する一方、「軽快退所」規定を欠いた改正「らい予防法案」を立案する。そして、この法案が成立することにより、法律上では、絶対隔離政策が維持されることになった。国家があらためて絶対隔離政策維持の意思を表明したことで、国民各層間に、プロミン治療が普及しても、やはりハンセン病は恐ろしい感染症であるという認識が維持された。

藤野豊『ハンセン病と戦後民主主義』

では、具体的に背景を検証していきたい。

1952年10月、全癩患協が国立ハンセン病療養所10園の入園者の総意によりらい予防法改正促進委員会を結成し、政府など関係方面に「請願書」を提出した。そこには「癩」を「ハンゼン氏病」と改称することをはじめ、法律の患者保護法化、強制検診・強制隔離の廃止、懲戒検束規定の廃止など15項目の要求が記されていた。

藤野豊『ハンセン病と戦後民主主義』

これに対して所長側の意見は、病名の改称や患者保護法化には賛成であったが、強制隔離にかんしては非人間的にならないようにするとか、懲戒検束規定は所内の治安維持のためには「適当な法規」が必要であるとか、現行を維持しようとする。

厚生省も各療養所を訪問して患者と懇談しているが、「人間の本能」を根拠に隔離政策を正当化したり、療養所は「特殊な共同生活」だから懲戒検束規定による罰則が必要だと述べたり(療養所課長尾村偉久)するなど、従来の方針を支持している。
参議院厚生委員会「らいに関する小委員会」委員長谷口彌三は、「国民福祉の立場」から強制隔離の必要を認め、懲戒検束規定も必要と明言している。

10月23日、多摩全生園で厚生省側と全癩患協側の懇談会が開かれたが、全癩患協の要望に対する厚生省側の回答は、従来と変わることなく、平行線のままであった。

…11月13日、第15回国会で、左派社会党の長谷川保が吉田茂内閣に対し「癩予防と治療に関する質問主意書」を提出する。それは、懇談会における全癩患協の要望に沿うものとなっているが、冒頭、長谷川は「癩予防法は、その精神において人権を無視したきわめて非民主的なものと考えられ、且つ、現下の癩行政に適合しない法律として、多くの疑義がある」と指摘、法律そのもの違憲性、強制収容や懲戒検束規定の是非、治癒した患者の退所規定がないことの理由などについて質し、政府に「癩予防法」改正の意図の有無を問うた。

これに対し、11月21日、首相吉田茂は衆議院に答弁書を提出、「癩予防法は、憲法に抵触するとは考えない」「癩療養所は、一つの特殊な社会集団であって、この集団の中において秩序を乱すものに対しては、集団からの退去を求めることが、秩序維持のために通常とられる措置であるが、癩及び癩療養所の特殊性から癩患者を癩療養所から退去させることは、公共の福祉の観点から適当でないと認められるので、国立療養所の長に療養所の秩序を維持するための懲戒検束の職権を与えることが必要である」「現在のところ改正法案を提案する予定はない」などと、長谷川の質問と対決する姿勢を示した。

藤野豊『ハンセン病と戦後民主主義』

時代に逆行した、光田が懲戒検束権を要望したときの理由そのものである。まったく変わっていない。新たな概念として持ち出されたのが「公共の福祉」であり、昔の「国家や社会に病害を撒布しない」と同義である。「公共の福祉」のために「犠牲者になるのは当然」の論理である。
では、「特殊な社会集団」を形成させたのはだれなのか。「特殊」を容認する姿勢は憲法に違反しないのか。

藤野は厚生省が用意した「癩予防法関係予想質問及び答弁書」についても言及し、「『癩予防法』の内容は医学的に正しく、それゆえ改正はしないというのが厚生省の見解」であり、「ハンセン病は感染力が弱いと認めつつ、全治が困難であること、患者本人も親戚縁者も差別されることの二点をもって強制収容を正当化する根拠としている」、さらに「強制収容と懲戒検束について『公共の福祉』を大前提に掲げ、ハンセン病には隔離しか予防法がない、ハンセン病は完治しにくい、ハンセン病患者と親戚縁者は差別される、ハンセン病療養所は特殊な社会であるなどという理由を連ねて、合憲であると言い切っているのである。」と批判している。

繰り返すが、これらの論理は、プロミン治療が普及する中において明らかに時代錯誤である。また、「三園長証言」が厚生省に影響を与えていることも明らかである。特に光田は、以後も厚生省や関係機関に執拗に働きかけていたと推測できる。

衆議院厚生委員会は、12月6日に理事会で実情調査のための視察団を全生園に派遣することを決定していたが、政局の重大化によって12日の予定が延期された。そして25日、衆参合同の調査団が来園し、公聴会が開かれた。加賀美促進委員長、鈴木副委員長、光岡事務局長から切々とした訴えが続いた。

この改正運動に終始、協力的な長谷川(保:社会党)代議士は「直ちに改正問題を厚生委員会に持ち出す。私は責任をもってやる」と言明、藤原(道子:社会党)議員は「参議院でも衆議院でも厚生委員会で支給に着手しようとしています」、河崎(なつ:社会党)議員は「私達も努力しますが、皆様もどしどし運動を推進して下さい」、さらに島上(善五郎:社会党)代議士は「私共の方では政策審議会厚生部会で討議した結果、これを春の国会に提出することに党議決定しましたが、すべての党派と協力して改正に努力したい」と発言、最後に野沢(清人:自由党)代議士の「お訴えは全議員、全国民に知らせねばならぬ義務があると感じており、一日も早く改正を実現するよう努力することを誓います」と挨拶、この日の視察団来園、公聴会は大成功であった、いよいよ改正も近くなった、というのがすべての患者の印象であった。

全国ハンセン氏病患者協議会編『全患協運動史』

この日から長谷川代議士によってハンセン氏病法の原案が作成され、2月には社会党提出の議案として国会に提出すべく、促進委員会との頻繁な打ち合わせが重ねられた。
1953年1月14日、長谷川代議士による改正案が本部、改正促進委員会、多磨支部委員会に提示された。その内容はほぼ全癩患協の「癩予防法改正に関する意見書」に沿うものであった。

…第一条において「この法律は、ハンゼン氏病の予防及びハンゼン氏病患者に対する適正な医療並びに生活保護管理を図ることによって、ハンゼン氏病が個人的にも社会的にも害を及ぼすことを防止し、もって公共の福祉を増進することを目的とする」と記されている。患者への「適正な医療」と「生活保護管理」を法の目的としたことは、これまでの「癩予防法」と大きな違いである。患者に対する治療と生活保護、それをハンセン病政策の新たな目的としているのである。
次に患者の隔離については「あくまでも療養所の実情を患者に知悉せしめ勧奨せしめ納得の上本人の同意を得て行わなければならない」とされ、強制隔離を否定している。さらに入所者の退所についても「国立ハンゼン氏病療養所の長は、ハンゼン氏病より完全に治癒したもの及び病状が快癒して菌が発見されず、且つハンゼン氏病の傷痕又は肉体的欠損も微小にして、社会生活に堪える程度のものに対しては、本人の希望により、診断の上証明書を交付して退所させなければならない」と明記されている。
この他、草案には懲戒検束規定はなく、また患者の被扶養者への年金制度が盛り込まれるなど、取締り法的色彩が強かった「癩予防法」に比べて、患者福祉法の性格を明瞭にしていた。

藤野豊『ハンセン病と戦後民主主義』

「癩予防法」に代わる「ハンゼン氏病法」は、今読めば当たり前の条文ばかりだが、当時としては患者主体の画期的なものであった。もし、この法案が成立していれば、日本のハンセン病政策は大きく転換されていただろう。

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藤田孝志
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。