「渋染一揆」再考(15):倹約令(3)
「渋染一揆」に関する単書としては『渋染一揆論』(柴田一)、『概説・渋染一揆』(大森久雄)の2冊であるが、「渋染一揆」についての論考を収録した書籍は『神と大地のはざまで』(ひろたまさき)など何冊かある。『岡山県史』『邑久町史』など自治体が編纂した地方史の概説、研究紀要などに掲載された論文も多い。その他、論考の中で触れているものは相当数ある。史料としては『藩法集』や『備前備中美作 百姓一揆史料 第2巻』、『(日本近代思想体系22)差別の諸相』などがあるが、『岡山部落解放研究所紀要第6号』にはほとんどすべての「渋染一揆」関係資料が集録されている。
「渋染一揆」に関する論考において、私が最も参考となると考えるのは、『岡山部落解放研究所紀要第7号』に掲載されている若林義夫氏の論文「渋染一揆 -倹約令・歎願書- について」である。もちろん、他の研究者においても史料の分析・独自の考察など示唆に富んだ論考もあり、参考になる。若林氏の論考を視点として私見を述べていきたい。
その前に、『岡山県史 近世Ⅲ』より岡山藩における「倹約令」をまとめておく。
<禁令>が出されるということ、つまり「禁止」や「制限」が命じられるということは、そのような実態があったからである。また、度々発令されているということは、守られていない実情があったからである。
「倹約令」とは<質素・倹約>を生活の基本とし出費を抑えることを旨とする。その反対は<贅沢・浪費>である。「衣服統制」において、常に命じられるのが<絹類の禁止>である。
江戸庶民の被服の代表的な材料である「河内木綿」について『守貞謾稿』に次のように書かれている。
江戸時代中期は、銀1匁=約1250円(金1両は銀60匁)であった。現代との貨幣価値の換算はむずかしいが、木綿でも結構な値段がすることがわかるだろう。貨幣経済が農村にまで浸透し、振売り(棒手振)などの商人が農村に出入りしていることからも、百姓が米や野菜、商品作物を売って現金収入を得て、さまざまな品を購入していたのが実情である。「貧農史観」が描くような過酷な年貢の収奪によって極貧の生活であったとは考えられない。
上記の『岡山県史 近世Ⅲ』の続きを転載しておく。
これも逆に見れば、名主や大庄屋、地主だけでなく平百姓においても、そのような実態があったと考えられる。
では、「倹約令」の目的は何か。『岡山県史 近世Ⅲ』に上記に続けて、次の一文がある。
「倹約令」の目的は、質素倹約に努め、贅沢や浪費を慎むことで<支出>を抑えることである。従来の貧農史観では、百姓の生活を厳しく統制し、最低限の極貧生活をさせることで、少しでも年貢を増徴・収奪する(俗に言う「稗や粟を食し、米を納めさせる」)ための「倹約令」であったと解釈されてきたが、私は「倹約令」に「年貢増徴」が含まれた御触書を見たことがない。年貢を搾り取るというよりも、支出を抑えて生活を安定させ、飢饉に備えて(貯財)おくように命じている。藩にとっては年貢増徴よりも年貢減少を危惧しているし、農村の荒廃や自然災害、飢饉により救米や加損米が増えることを心配しているように思える。
岡山藩で城下の「ざるふり商人」が在方行商を禁止されたのは1655年(明暦元)であるが、1666年(寛文6)には13色の品目に限って許可され、1683年には18色、1705年には31色に緩和されている。さらに郡奉行の許可を得て「商札」をもらった者は百姓でも営業が認められた。しかし、商札をなしに営業する者や許可品目外の商品を売るなどの「忍び商い」が横行し、繰り返し取締令が出されている。農村に商品経済が浸透し、経済格差が拡大している証左である。
「倹約令」のもう一つの目的は<身分統制>である。
触書の前文(前書き)によく用いられる文言に「驕」「身分高振舞」「身分不相応」などがある。江戸時代は身分制社会であり、それぞれの身分に応じた「家職」「家格」「役務」があり、生活(暮らし)のあり方があると決められている。それが「身分相応」であり、武士から平人まで厳格に守ることで社会が維持されてきた。
一昔前(今もかもしれないが)まで、「分不相応」とか「分に合っていない」とかの表現で生活や態度を戒められてきたのは、その名残である。「分相応の暮らしをせよ」「分相応の持ち物」などの表現は今も使われている。
身分制社会とは「身分の差異」が基本にあり、それは<見た目>で自他に判断されるものであり、それゆえに<衣食住>が細かく規定される。大名屋敷の造り(門構えなど)も大名の家格によって規制される。
衣服においてはさらに厳密である。華美な衣服を贅沢と禁止するだけでなく、武士と平人、百姓と町人、さらに大庄屋と平百姓との差異(区別)を明確に規定することで、相互に身分を自覚させることが「倹約令」の目的であったと考える。
これも逆に考えれば、そのような身分統制に関する法令を繰り返し布達していることは、守らない実情があったということである。つまり、絹類の衣服への使用、冠婚葬祭や村方行事に際しての贅沢で派手な宴が度々行われていた事実があったということである。庶民は弾圧され抑圧されていたのではなく、したたかに生きていたのである。