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「重監房」に学ぶ(3) パターナリズム

ハンセン病問題について調べるほど、<目的のために手段を正当化してはならない>という言葉が脳裏に浮かんでくる。
目的が社会正義を持ち、万人にとって有用性が高いほど、その手段は承認されやすい。まして権威や権力をもつ一部の人間によって、目的の重要性が強調されるほど、その手段もまた正当化されてしまう。
同様に<大義のために>という言葉もある。<大義>のためならば少々の犠牲は許される、そのような思想によって戦争や自然破壊などが繰り返され、無数の犠牲者が生まれ続けてきた。
今、我々が過去の歴史から学ぶべきは、この思想の愚かさである。

光田健輔に関して、宮坂道夫氏は次のように書いている。

隔離政策を推進した中心人物として、光田健輔には激しい毀誉褒貶が向けられてきた。今もその功績をたたえる人がいる一方で、1951年に彼に与えられた文化勲章を剥奪すべきだという人がいる。一人の人物を「悪者」に仕立てることで、他の人々や、関連していた組織などの関与が見落とされ、結果として問題の本質を見失う恐れがあると指摘する人もいる。倫理学では「人物」の評価と「行為」の評価を区別せよと教える。
ここで考えるのは、彼が善人だったか否かというような「人物」の評価ではなく、彼が日本のハンセン病政策に関わるなかで行った「行為」の評価である。

宮坂道夫『ハンセン病 重監房の記録』

私も同感ではあるが、調べれば調べるほど、光田健輔という人物の思考や判断、さらには「頑迷」な「独善性」がハンセン病問題の元凶を生み出したと思えてならない。彼の思考の根底には、自らの「行為」を「正当化」するための論理、すなわち<目的のために手段を正当化>できる、<大義のために>犠牲はやむを得ない、という論理があった。

日本からハンセン病を根絶するという、社会から排除・排斥され苦しんでいるハンセン病患者を救済するという<目的>と<大義>のため、彼は自らの思考と判断に確信をもって<手段>を正当化したのである。

宮坂道夫氏は続ける。

…光田健輔という一人の医師によって、国の政策のおもだったアイデアが発想されたことである。特に重要なのは、「強制隔離」「強制労働」「断種」「懲罰」という、日本のハンセン病政策の核心であった四つの強権的な制度である。この四つは、いってみれば医師や医療行政に関わった人たちが手にした強大な「権力」であり、それによって患者たちの「人権」は著しく侵害された。これらは、いずれも光田のような第一線の医師たちが唱道し、政治的に働きかけて制度化に成功し、自らの手で患者に対して実践したものだった。この四つの権力の組み合わせが一連のものとして制度化されたのが、日本のハンセン病政策だった。患者を「強制隔離」し、療養所で「強制労働」をさせ、子どもを作らせないように「断種・堕胎」を行い、反抗的な患者には「懲罰」を与えるー。

宮坂道夫『ハンセン病 重監房の記録』

宮坂氏は、光田の「発想」を解き明かすキーワードとして<パターナリズム>という概念を使って検証する。

パターナリズムの「パター(pater)」は「父親」を意味することばであり、まさしく父親と子供のような関係が出来上がっていることをいう。つまり、当事者のあいだに力の不均衡があり、「強者」は「弱者」に対して「恩恵」を与えるように振る舞うべきだという価値観のことである。
パターナリズムということばの通りに、光田は自分を「家長」に、患者を「子供」になぞらえている。家族のような慈愛に満ちた世界を構築したいというのが彼の理想であった。しかし、光田は、親が子を罰することができるように、家長たる自分も患者を罰する権利を持つ、と述べている。

宮坂道夫『ハンセン病 重監房の記録』

確かに、宮坂氏の言う<パターナリズム>が光田の信条であり、彼が理想とする療養所の姿であったと思う。ただ、それは彼だけの家族観ではなく、古くから理想とされた日本的な家族形態のあるべき姿であり、この当時の多くの日本人が持っていた家族観である。それゆえに、疑うことなく、正しく理想的な家族主義と信じ、それを療養所において拡大させた「大家族主義」という方針として光田は実行したのである。光田には、露程も自らの信念と方針に疑問をもつことはなかったであろう。

宮坂氏は、本書の中で、「強制労働」(患者作業)の過酷さ、「断種」(ワゼクトミー)による将来への絶望と「懲罰」(暴力)の実情を詳しく書いている。
正直、読みながら当時の状況を想像してしまい、吐き気に襲われ、怒りに身体が震える。人間の暴力性や冷酷さは知っているつもりであったが、あらためて痛感した。

強力な隔離、そこでの強制的な労働、断種と堕胎-「大家族主義」の美名のもとで「恩恵」を与えられているようで、じつは人間としての尊厳を踏みにじられている-日本のハンセン病政策に対して、患者が不満を抱かないはずがなかった。
…日本では、力によってそれを抑え込む仕組みを作っていった。この場合の力とは、文字通り「物理的な力」であり、司法の範疇に入らない「私刑」「暴力」というべき類いのものである。しかも、その暴力的な権力を与えられたのが、患者を治療すべきはずの医師たちだった。1907年に制定された「らい予防法」は、9年後の1916年、ハンセン病療養所の所長に対して懲戒検束権を付与するよう改められた。

宮坂道夫『ハンセン病 重監房の記録』

光田にとって、自らが理想とする「(光田を家長とする)大家族主義」に反抗する患者を御しきれないことが最大の問題であった。要するに、自分の言いなりにならない患者の存在が苛立ちと憤りの原因であり、自らの方針や運営、園の実情に問題があるとは認めなかった。

ここにも光田の「独善性」が見える。彼が掲げる理想、彼が「楽土」と呼ぶ療養所の理想的な姿は実情を伴わない彼の独り善がりの妄想でしかなかった。それを強引に抑え込むための「武器」が懲戒検束権であった。

光田は「目的のために手段を正当化」したのである。

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藤田孝志
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。