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光田健輔論(38) 牢獄か楽園か(2)

戦争の拡大と長期化がハンセン病療養所に隔離された患者の生活をどれほど悲惨な状況に追い込んでいったか、戦時体制下での国民生活を記録した数々の証言から推察することは容易だろう。

多摩全生園患者自治会編『倶会一処』に「飢えと戦争」と題して、戦時下の療養所の生活が記録されている。抜粋して転載しておく。

1941年(昭和16年)、米穀配給統制法の実施により、主食糧が混入米(内・外地米)1人1日448グラム(三合二勺)となったが、入園者は定員を100名以上オーバーしていたため、食糧事情を急速に悪化させた。
冬のあいだは、竹藪に縄を張って吊した大根の干し葉がみそ汁やライスカレーの実であった。大根の千切りや野草をゆで、かぼちゃのたねを炒ってすって和えたものが「ごまよごし」であった。みかんは皮ごと食べた。お茶がらは乾かして粉にし「ふりかけ」にした。
春、はこべやたんぽぽ、なずなやあかざややあざみも食べた。がまが土から出てくるとがまをつかまえて食べ、ねこや犬を食べたり、食べるためにうさぎを飼う人たちもいた。
犬は身体があたたまるので神経痛によく「寒いときは袷一枚違います」という人もいた。砂糖なしでもかぼちゃや甘藷の汁粉が何よりごちそうであり…。
身体に生傷が多かったり咽喉切開している場合の消耗はとくにはなはだしく、病気が騒いでいる者も含め、普通の何倍もひもじかったはずであり、生大根をかじっても、梨かりんごのようにうまく感じられるのであった。
誰も彼も目がくぼみ、頬骨だけが突きでていた。檻のなかで、ただもがくだけの自由しか与えられていなかった。
飢餓と欠乏とはずかしめのなかにおとしいれられ、おびただしい人びとが呪うべき者の正体も知らず、肉親はおろか、僚友たちにに十分みとられることもなく死んでいった。ペコペコのおなかで、どんなに故郷が恋しかったことか。
結婚しても、何度も後家になる人がいた。
死亡者は昭和17年以降140人、114人、133人、142人、105人と5年連続100人を超え、逃走者を別にしても、5年間で入園者の半分が入れかわった計算になる。
その順番が自分のところへはいつくるか。あすか、あさってか。それが、きょうでないのは偶然にすぎず、10年のうちにはきっとくる、と考えるしかなかった。
死因は慢性腎臓炎、肺結核などだが、実際は栄養失調によるものが大半をしめていた。そして、一人死んだだけでも園内は葬式の雰囲気に包まれるのだから、人が続けて死ぬとき、そこはもう巨大な生きている人たちの墓場といってよかった。
つぶれた目のなかや傷口にうじ虫がわき、さ細な傷から指を切り、脚を断つことになっていったが、医局の裏手へ落葉をかきにいくと、ごみ穴から足がでてくることがあった。
落葉も糞尿も畑のために奪いあった。鶏糞や過燐酸も配給されたが、畑の広さにたいしては薬かまじない程度の分量しかなかった。
その翌日、監房内で自殺した者がいる。彼は、園芸部の馬鈴薯畑を探り堀りした、ということで処分されたのであった。丹精のみごとさで園内一と評判の自分の畑を誰かに荒らされ、その分の取りもどしを図ったものと見られたが、善良であっては生きられない時代であった。
園内通用券では何も買えず、ばくちに使うしかなかった。田舎へ食物を貰いに行こうとして分館へ帰省許可を申し込んでも鏡と相談しろといわれる者が多かった。
したがって、戦争中であっても、賭博はもちろん焚木の盗伐、逃走、脱柵はあとを断たず、監房はいつも満員の盛況であった。

多摩全生園患者自治会編『倶会一処』

長く引用したが、これが戦時下での療養所の実態の一端である。戦争中は内地でも食糧事情は厳しく、特に食糧事情は困窮していた。だが、隔離された園内での制限された自給自足、定員超過による食糧の配給減、強制労働の徴用、「国防献金」の拠出、空襲時の防空壕への避難(重病者の世話)、職員による理不尽な処遇(暴力的な弾圧)など、内地以上の苛酷さは逃走と死亡を量産した。

長島愛生園の状況を『隔絶の里程』(長島愛生園入園者自治会編)より抜粋して転載しておく。

…ついには朝晩は粥食、御飯は昼食一回という状態に追いこまれるようになった。この時期の患者の対応としては、愛生園から逃げ出すか、いもや塩を自分の手で作って食いつなぐか、何もできない者は死んでいくかであった。昭和17年から20年にかけての四年間の逃走件数413件、死亡者数889名がそのことを物語っている。(この四年間の年間平均在園患者数は1805名)
むろん重症者や不自由者といえど為すことなく死をむかえたわけではない。配膳に眼を光らせ、僅かな所持品や配給の煙草をいもや塩に換え、糞泥棒を見張り、燃えるものを手あたり次第集めて火鉢で燃やした。一食しかないめしを干飯にして塩や薪に換えたが、薪一把は丼めし二杯分であった。
めしに湯をかけて、その湯だけでもすすって干飯を作った話、炊事場で飯盒につぐとき土間にこぼれためしをスプーンを持って拾いに行った話等々、その当時の食をめぐる惨酷物語はつきない。

長島愛生園入園者自治会編『隔絶の里程』

それでも、光田健輔は『愛生園日記』「長島騒動」の中で、「食料についても、他の療養所に比べて決して粗悪であるとは思えない。中流の家庭でも、毎日肉類を食膳にのばすことはあるまい。一般にライ患者には肉類よりも菜食のほうが適しているのだが、私は予算の範囲内で、患者の希望する肉食を与えるようにしていた。」と開き直っている。他の療養所と比べる意味があるのだろうか。「予算の範囲内で」と言いながら「肉食を与えるように…」とは、まるで「飼育」としか思えない表現である。だが、この光田の言葉、入所患者の証言からはとても信じられない。

なぜ食糧事情や住環境が悪化しているか、それは偏に光田が患者収容を強行し、一人でも多くの患者を収容しようとする結果の「定員超過」が元凶である。

「ひとりでも多くの病友を社会から迎え入れよう。そのためには制度が完備するまで、たがいに一飯を分ち半座を譲って、乏しい生活にも甘んじよう」
というのが、開園以来家族主義とともに、愛生園の他に誇る方針となり、政府の支給を待ちきれない定員超過が続いていた。昭和七年には定員を五百名にふやし、一年に百人くらいの割合で定員数をふやしていたが、入園希望者の数のほうが、いつも定員を上回っていた。希望者を断るにしのびないから「十坪住宅」の運動に力を入れていたわけである。
昭和十一年になると、八百九十名の定員に対して、入園者の数は千二百名になっていた。三割強の超過である。その結果一棟四人を入れる住宅に六、七人がはいることになり、集会所や食堂にまで詰めこまなくてはならなかった。夏の暑いときなどはそうとう気の毒な状態であった。
愛生園のほうでも絶えず政府に対して、超過定員への追加予算を陳情していたが、大蔵省は、定員以上に入れるのが悪い-の一点ばりで押していた。

光田健輔『愛生園日記』

「定員超過」を「入園希望者」の結果のような口ぶりであり、善意で受け容れていると正当化している。光田は「伝染病者が門前まできているのを、捨ておくことはできない。伝染病院に定員はない」とまで言うが、実態は「無らい県運動」による「強制収容」である。その結果、政府の予算など考えもせず、押し込めるだけ押し込み、その負担は患者自身に背負わせる。食糧不足や住居不足は当然であり、満足な医療などできるはずもない。それでも、家族主義を標榜し、政府の責任に転嫁する。

(患者作業の賃金として)作業慰労金を出しているが、実はその財源は何もないのである。入所患者の経常費としては、医療費と最小限度の衣食住費が計上してあるだけであるから、作業慰労金は経常費の中から生み出していた。たとえば付添看護の慰労金は医療費から、土木、塗工などの慰労金は園内各所の修繕費から出すという具合であった。園内作業は法律できまったものではなく、労働治療のたてまえから患者自身のためと、またいくらかの収入を得させるためにやっているのであるから、その予算を政府に要求することはできない。園内にある恩賜互恵財団の基金は、患者の文化教養費を支出しなければならない。また、ライ予防協会の基金は、全国のライ救護に関して支途をもっているので、全く作業慰労金の出所がなく、姑息な手段ながら、経常費の節約によるほかに財源はなかったのである。こんな事情のもとに定員数の経常費で超過定員を賄っているのであるから、これ以上医療費や衣食住費を削ることはできない。

光田健輔『愛生園日記』

光田健輔は多くの文章を書いている。専門の研究誌、愛生園の『愛生』の他、各療養所が発行していた機関誌、日本MTLなどが発行する活動誌などに多くのエッセイ風の文章を残している。
また、自著としては『愛生園日記』『回春病室』がある。これらを読むたびに、光田の自意識の強さと頑強さを痛感する。必ずしも文章が上手いとは思えないが、具体的な事例を引き合いに出したり、資料や統計を巧みに使ったりすることで、内容の信憑性を高めているように装っている。さらに「御涙頂戴」といった感傷的な逸話をうまく取り入れて、献身的な救癩の様子を描いている。そのままに読み進めれば、光田の人物像に心惹かれてしまうだろう。

しかし、他の資料や時代背景などを考証していくと、文章の端々に、自分に都合のよい「解釈」に基づく光田の「虚偽」や「欺瞞」が明らかになっていく。救癩への情熱や患者への憐憫の情を誇張気味に書くことで自己正当化をはかる一方で、長島事件などの問題への対処や施設運営に対する患者の不満などの責任は省庁に転嫁する。よくもここまで「詭弁」を弄することができるのだと、読みながら痛感する。あるいは、光田自身、本当にそう思い込んでいたのかもしれない。

ハンセン病患者を取り巻く社会の差別や偏見、患者の生活環境の苛酷さ、病状の辛さなど、悲惨な姿を強調すればするほど、周囲も読者も、自らの差別や隔離への加担は棚上げして、患者への同情と憐れみに心を痛め、患者に寄り添う光田らの献身的な姿に尊敬の念を抱くようになり、光田らの絶対隔離政策を唯一の救済と信じるようになる。そして、自らが隔離に協力したことを正当化していく。光田を評価することで、自らの後ろめたさを免罪していく。強制収容や隔離政策が社会的な問題となっていかなかった、あるいは市民から批判の声が上がらなかった理由の一端もそこにある。

光田について書かれた伝記や思い出などを読めば、純真な人間ほど光田の言葉を短絡的に信用してしまい、彼の人間像や功績を過大な賛美で描いている。何より、「慈父」と尊称されることで、傲慢な非人間的な隔離政策も曖昧にされていく。「仕方がない」という他人事の言葉とともに。事実、昨今の研究者に見受けられる傾向である。しかし、忘れてはならないのは、邑久光明園名誉園長牧野正直氏の言葉である。

隔離政策が虐げられた患者を救いだした、という説明に関して牧野は「そもそも光田一派が病気の恐怖を宣伝したから、隔離しなければならないほど患者が社会の中で差別された。初めからボタンの掛けちがいがあったのであり、光田派批判されなければならない」と明言。光田の業績の中に評価すべき点を見つけてその免罪を図ろうとする動きに対しては「ヒットラーの政策の中に良いことがあったからといって、ナチが正当化されるか」と厳しく批判する。

武田徹『「隔離」という病い』

我々がハンセン病史から学ぶべきは、隔離政策の問題性だけではなく、関わった人間の「思考」である。光田健輔たちの「思考」や「思惑」が如何なるものであったか、如何なる経緯からハンセン病政策が実施されていったのか、それを実行していった者たちの動向を検証していくことで二度と同じ過ちを繰り返さない方途を見出すことができると考えている。それゆえ、最も戒めるべきは「時代的正当化」や「諦念」、「安易な擁護論」である。

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藤田孝志
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。