戦争の拡大と長期化がハンセン病療養所に隔離された患者の生活をどれほど悲惨な状況に追い込んでいったか、戦時体制下での国民生活を記録した数々の証言から推察することは容易だろう。
多摩全生園患者自治会編『倶会一処』に「飢えと戦争」と題して、戦時下の療養所の生活が記録されている。抜粋して転載しておく。
長く引用したが、これが戦時下での療養所の実態の一端である。戦争中は内地でも食糧事情は厳しく、特に食糧事情は困窮していた。だが、隔離された園内での制限された自給自足、定員超過による食糧の配給減、強制労働の徴用、「国防献金」の拠出、空襲時の防空壕への避難(重病者の世話)、職員による理不尽な処遇(暴力的な弾圧)など、内地以上の苛酷さは逃走と死亡を量産した。
長島愛生園の状況を『隔絶の里程』(長島愛生園入園者自治会編)より抜粋して転載しておく。
それでも、光田健輔は『愛生園日記』「長島騒動」の中で、「食料についても、他の療養所に比べて決して粗悪であるとは思えない。中流の家庭でも、毎日肉類を食膳にのばすことはあるまい。一般にライ患者には肉類よりも菜食のほうが適しているのだが、私は予算の範囲内で、患者の希望する肉食を与えるようにしていた。」と開き直っている。他の療養所と比べる意味があるのだろうか。「予算の範囲内で」と言いながら「肉食を与えるように…」とは、まるで「飼育」としか思えない表現である。だが、この光田の言葉、入所患者の証言からはとても信じられない。
なぜ食糧事情や住環境が悪化しているか、それは偏に光田が患者収容を強行し、一人でも多くの患者を収容しようとする結果の「定員超過」が元凶である。
「定員超過」を「入園希望者」の結果のような口ぶりであり、善意で受け容れていると正当化している。光田は「伝染病者が門前まできているのを、捨ておくことはできない。伝染病院に定員はない」とまで言うが、実態は「無らい県運動」による「強制収容」である。その結果、政府の予算など考えもせず、押し込めるだけ押し込み、その負担は患者自身に背負わせる。食糧不足や住居不足は当然であり、満足な医療などできるはずもない。それでも、家族主義を標榜し、政府の責任に転嫁する。
光田健輔は多くの文章を書いている。専門の研究誌、愛生園の『愛生』の他、各療養所が発行していた機関誌、日本MTLなどが発行する活動誌などに多くのエッセイ風の文章を残している。
また、自著としては『愛生園日記』『回春病室』がある。これらを読むたびに、光田の自意識の強さと頑強さを痛感する。必ずしも文章が上手いとは思えないが、具体的な事例を引き合いに出したり、資料や統計を巧みに使ったりすることで、内容の信憑性を高めているように装っている。さらに「御涙頂戴」といった感傷的な逸話をうまく取り入れて、献身的な救癩の様子を描いている。そのままに読み進めれば、光田の人物像に心惹かれてしまうだろう。
しかし、他の資料や時代背景などを考証していくと、文章の端々に、自分に都合のよい「解釈」に基づく光田の「虚偽」や「欺瞞」が明らかになっていく。救癩への情熱や患者への憐憫の情を誇張気味に書くことで自己正当化をはかる一方で、長島事件などの問題への対処や施設運営に対する患者の不満などの責任は省庁に転嫁する。よくもここまで「詭弁」を弄することができるのだと、読みながら痛感する。あるいは、光田自身、本当にそう思い込んでいたのかもしれない。
ハンセン病患者を取り巻く社会の差別や偏見、患者の生活環境の苛酷さ、病状の辛さなど、悲惨な姿を強調すればするほど、周囲も読者も、自らの差別や隔離への加担は棚上げして、患者への同情と憐れみに心を痛め、患者に寄り添う光田らの献身的な姿に尊敬の念を抱くようになり、光田らの絶対隔離政策を唯一の救済と信じるようになる。そして、自らが隔離に協力したことを正当化していく。光田を評価することで、自らの後ろめたさを免罪していく。強制収容や隔離政策が社会的な問題となっていかなかった、あるいは市民から批判の声が上がらなかった理由の一端もそこにある。
光田について書かれた伝記や思い出などを読めば、純真な人間ほど光田の言葉を短絡的に信用してしまい、彼の人間像や功績を過大な賛美で描いている。何より、「慈父」と尊称されることで、傲慢な非人間的な隔離政策も曖昧にされていく。「仕方がない」という他人事の言葉とともに。事実、昨今の研究者に見受けられる傾向である。しかし、忘れてはならないのは、邑久光明園名誉園長牧野正直氏の言葉である。
我々がハンセン病史から学ぶべきは、隔離政策の問題性だけではなく、関わった人間の「思考」である。光田健輔たちの「思考」や「思惑」が如何なるものであったか、如何なる経緯からハンセン病政策が実施されていったのか、それを実行していった者たちの動向を検証していくことで二度と同じ過ちを繰り返さない方途を見出すことができると考えている。それゆえ、最も戒めるべきは「時代的正当化」や「諦念」、「安易な擁護論」である。