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光田健輔論(78) 「らい予防法」その後(5)

1958(昭和33)年11月12日~19日、東京において第七回国際らい会議が開催された。

…ローマ会議からさらに踏み込んだ点として注目されたのは、以下のような部分である。
法による患者の強制隔離は、ハンセン病予防において意味がない。無差別の強制隔離は時代錯誤であり、廃止されなければならない。政府がいまだに強制的な隔離政策を採用しているところでは、その政策を全面的に破棄するように勧告する。ハンセン病に対するあやまった理解に基づいて、特別な立法が存在する場合、政府はこの法律を廃止し、公衆衛生法規の一般的方法に組み替える必要がある。差別行為から患者を法律によって保護する必要がある。治癒した患者が正当な家庭的条件の下ですごすことが重要であり、患者を有効的に受け入れることは社会の義務である。

内田博文『ハンセン病 検証会議の記録』

この決議に影響を与えたと考えられるのが、メキシコの報告であった。

昔はらいは感染力の強い病気と誤解されていたから、患者はそのことで非常な苦しみを受け、しかも予防には隔離が最善と医学は教え、強制隔離を法律化することに努力を払い、患者の人間性を全く無視してしまった。それどころか、家族までが徹底的に苦しめられ、いつ終わるとも知れない絶望的な恐怖と戦ってきた。ここで改めていうまでもないが、何よりも患者は一人の人間であり、らいを病む患者でしかないことを忘れてはならない。これこそらい患者の正しい扱い方であり最も重要な根本である。数年前(1955年)メキシコは強制隔離を廃止し、かつての古い規則を捨てて、新しい By-low of Leprosy Prophylaxis(癩予防法内規)をつくった。その目的は、患者があらゆる面で聖城に生活ができるように、患者と戦うのではなく、らいそのものと闘うところにある。

いわゆる「らい予防法国賠訴訟」の判決後に、国や自治体あるいは関係団体などは、斬新感のない似たような文言を並べたリーフレットやパンフレットを出しているが、半世紀も以前の第七回国際らい会議におけるメキシコの方が遥かに優る。

成田稔『日本の癩対策から何を学ぶか』

明らかに日本のハンセン病政策を批判している。開催会場国である日本を意識しているかはわからないが、もはや「らい予防法」による「絶対隔離政策」を実行しているのは世界中で日本だけである。当然、日本のハンセン病対策は光田健輔によって発案され推進されていることは、世界中が知っていることである。その光田に対しても手厳しい批判があった。

次いでブラジルも、救癩事業を正しく発展させるには、政治的・宗教的派閥は不要であること、必要なのは社会的立場からの知識と勧告であって、医師ひとりが立案するものではないとした。

成田稔『日本の癩対策から何を学ぶか』

今までは国際会議には代表者が参加し、海外の専門誌を一部の厚生省官僚や医者が読む程度であったが、今回は会場が日本であり、多くの専門医や厚生省など関係者が参加していると思われる。彼らはどのような気持ちで各国の報告を聞いていただろうか。

では、日本側の発表はどのようなものであったのか。大谷藤郎の『らい予防法廃止の歴史』によれば、「生物学的発表が殆どであるが、唯一社会問題分科会において政策について」「現職の医療行政の最高責任者である厚生省医務局長(現健康政策局長)小沢龍氏が」「発表をしていた」と、発表の概要を書いているので一部を引用しておく。

現在の患者数は、1904年実施の実態調査時の患者数30,393名と比較すれば、約二分の一に減少しており、更に入院患者、在宅患者いずれも平均年令が高年令になっており、これらのことは日本におけるらい流行が極期を過ぎたことを示している。
しかし、まだ在宅の未収容患者が相当あり、これらが感染源になっているので早期に収容することが望まれ、これが収容促進のため次の如き施策が行われている。
(1) 入所者の療養、生活に必要な経費は全額国費をもって賄っている。
(2) 患者が入所することにより、その家族が日常生活に困る場合には、らい予防法の適用ににより生活援護が行われている。
(3) 患者が入所することにより、身寄りのない未感染児童が生ずる場合には、その養育施設として全国八ヵ所、定員355人の収容施設が国立療養所に附設している。
(4) 患者が入所することにより、引き取り手のない老人が生ずる場合には、熊本市内に定員70名の養老施設を藤楓協会が経営している。然し各都道府県にある児童、養老等の施設において保護は同様に出来るので最近はこれ等の施設に入れる様に努力し実績をあげておる。
なを以上の外に、近時プロミン等サルファ製剤の治療により軽快退所患者増加の傾向にあるが、かかる患者に対して療養所内において種々の職業補導を実施し患者の社会復帰を円滑化するよう努力している。又、社会復帰を促進するために退所患者に対し生業資金貸付制度が1958年より発足した。

大谷藤郎『らい予防法廃止の歴史』

確かに前半を読めば、大谷の言うように「日本だけが隔離こそ唯一のハンセン病予防策であるとして、未だに完全隔離主義を間違って誇っていた」と理解されただろうが、小沢が列挙している患者への保護策によって、これだけを読めば、参加した諸外国の専門医や行政担当者も一応は少なからず対応はしていると思われたのかもしれない。

もちろん、挙げられている数字からも明らかなように、また効果や成果も具体的に示されていないように、実際は決して十分とはいえない。むしろ、「らい予防法」の「附帯決議」について全患協からの強い要望に渋々わずかながら応えているのが実情である。何より患者の声が聞こえてこない。

大谷は小沢の論文について、次のように述べている。

小沢龍先生は私たち厚生省技術官僚の大先輩であり、人間的な優しい誠実な方であった。だからといって政策の誤ちが許されるわけもないのだが、…官僚システム内における政策立案過程の硬直さ複雑さを自分も経験しているだけに、先生が諸外国の開放政策発表の中で完全隔離主義を述べていたことに複雑な心境にならざるを得ない。
論文の後半三行においてすでにプロミンの効果、軽快退所者について論及しており、どうしてこれが国際会議だけの発言であり、国内に向けてもっとこの事実を大声で発言し、開放政策への転換がはかられなかったのかと疑う。

大谷藤郎『らい予防法廃止の歴史』

大谷は本音を漏らしたと思う。後に別項で大谷藤郎の功罪についても触れるつもりだが、気になることだけを書いておきたい。なぜ大谷は社会復帰を妨げている最大の壁が「らい予防法」であることに、わかっているはずなのに、言及しないのか。「国内に向けて」語るべき「この事実」は「プロミンの効果、軽快退所者」についてではなく、開放政策に向かう国際動向であり、「らい予防法」の問題点についてであろう。
また、「国内」よりも、まずは「厚生省」であり、「政府」であり、「療養所長」であろう。大谷は論理のすり替えで小沢と厚生省を擁護している。これは以後も同じで、この点を藤野豊は「大谷氏は自己の責任は認めるが、国の責任には言葉を濁す。そこには、自分ひとりで一切の責任を背負うことにより、国家を守ろうとする元厚生官僚の姿しか見えてこない」と、国賠訴訟の証言について手厳しく批判する。

成田稔は小沢の報告について「…社会復帰支援に全く積極性を欠いた時代錯誤の発言をしている」と一蹴し、「国際的動向に背くわが国のらい対策は第一回(1897年)ないし第二回(1909)国際癩会議の決議から脱却できないままでいた」と、暗に光田健輔を批判している。


東京で開催された第七回国際らい会議に、光田健輔は名誉会長として出席して閉会の挨拶を行っている。

青柳緑の『癩に捧げた八十年 光田健輔の生涯』には、「一期一会」と題して19ページにわたって会議の様子が詳細に書かれている。特に、旧知である国際的に著名な学者たちとの交流を通して、光田健輔の功績を世界中が称賛しているように晴れがましく描かれている。ただ、「社会部門の会議」(社会問題部会)の決議に対しての光田の反応だけは、次のように書いている。

いろいろと話し合ってみると、治療の面でも施設の面でも、日本は世界のどの国よりもすぐれていることがわかった。この社会部会の決議は新しい時代精神を反映しているものだとはいえ、光田健輔の隔離主義とは完全に相反するものである。だがいまや老いた光田健輔一人の手では、どうすることもできないところまできてしまった。
華々しい国際会議の成功に引きかえ、光田健輔の胸には「わが事終れり」という苦渋の思いがふっ切れなかった。人類は戦争をしてみなければ戦争の悲惨さを感じとることができないものだとすれば、ライ予防の上でも過誤を犯してみて、そのときになって、かつての隔離政策の正しかったことが再認識される事態に立ち至るのではあまりにも情けないと思わずにはいられなかった。

青柳緑『癩に捧げた八十年 光田健輔の生涯』

この書は1965年4月発行である。「あとがき」の日付は1965年2月である。光田が死去したのは前年の5月である。青柳が光田の死後から書き始めたとも思えないのだが、原稿の段階で光田が目を通したとも思えない。相当の資料や近親者、関係者からの証言を集めて書いたとも思えるし、『愛生園日記』をまとめたことからも光田への取材も行っていたはずである。それにしても、このような一文を光田が語っただろうか。光田らしい頑迷さと自己正当化は読み取れるのだが、それでも半信半疑である。たぶん、光田ならたぶん、という青柳の脚色のような気がする。

しかし、この青柳の「戦争」の喩えはあまりにも陳腐な発想である。光田が仮にもしこのような喩えを使ったのであれば、(光田の文章でまだ読んだ記憶がない。もしかしたら書いているかも知れない)私(だけではないだろうが)は言いたい。「特別病室」に入って一冬でも過ごしてみなければ、「特別病室」の悲惨さを感じとることはできない。

残念ながら、光田は「情けない」と思わないでもよかった。逆に、光田の隔離政策の方がまちがっていたことが明らかとなっている。「過誤を犯した」のは光田健輔であった。

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藤田孝志
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。