見出し画像

光田健輔論(62) 「三園長証言」の考察(11)

「三園長証言」以後、厚生省は「癩予防法」の改正を進めていくが、その背景について考察してみたい。なぜ光田健輔、そして林芳信、宮崎松記など光田の考え(光田イズム)に同調する「絶対隔離論者」ばかりを参考人として招集したのか、このことだけでも厚生省が「絶対隔離政策」を維持しようとする意図が明らかである。
国会議員に対して、ハンセン病の専門医であり療養所所長(園長)である三人の肩書き(権威)に裏付けられた「証言」によって「絶対隔離政策」の正当性と必要性をアピールすることが厚生省の目的であったと,私は考えている。

…厚生省は「癩予防法」の改正を、こうした三園長の発言の趣旨に沿って進めていく。まさに、「癩予防法」の改正には治安立法的意味が加えられたのである。それは改正ではなく、事実上の「改悪」を意味した。

藤野豊『「いのち」の近代史』

「三園長証言」の後、三園長はそれぞれの療養所において入所者から激しい抗議を受けるが、その際の弁明で彼らの欺瞞が明らかとなる。

…宮崎は7月30日、証言の真意を質す菊池恵楓園の患者公聴会に出席、強制収容について「すべての社会保障を完備して、しかも尚お収容に応じない者を対象として、この言葉を使ったつもりだが、保障が確立し、治療が向上すれば、もはや強制せずとも、進んで入所を希望することになる訳であるから、強制収容の手段に頼る余地はないことになるので、自分のこの考えは是正する。又、「本人の意思に反しても」という言葉は失言だから取消す」と弁明した。

藤野豊『ハンセン病と戦後民主主義』

結局はハンセン病治療(療養)は療養所でしか受けることができない以上(プロミン等の治療は療養所以外では原則として認められない)、患者は療養所に入るしかないというシステムである。療養所の「社会保障を完備して」入所者の生活環境を整えると言いながらも、従来どおりの「絶対隔離」は継続するという考えである。

さらに、光田健輔も10月2日、愛生園の入所者を前に国会での発言について「言葉の不備不足」であったと弁明している。そして、強制隔離に関しては「対象として考えるのは常識はずれの乱暴者である」と限定し、家族への感染を恐れ「強権を発動してもその様な人々を病気の苦しみから救わねばならぬ」と、あたかも患者家族を救うために強制隔離をおこなうかのような論を展開している。また、断種については「皆の賛成を得てやって来たので強制ではない」などと虚偽の説明をなし、患者家族にも断種をおこなうと述べたのは「患者その人の事で病気でない家族の人々の事ではない」などと、発言そのものを否定している。さらに、強制労働については「過重な事は無理だが適当の運動は必要な事だから諸君もやってほしい」などと、その継続を求め、懲戒検束規程については、法務府の合憲判断を楯にして正当化している。光田は、最後に、ハンセン病は「ペストの様に急性ではないが伝染である事は明らか」として、法律については「現行のものは審議をつくして近代にそうものに作らねばならない。法務府厚生省の人等が療養所に適合するような改善をするのがよいと思う」と、責任を法務府・厚生省に転嫁してしまった。光田自身が率先して隔離維持・強化の方向で法改正を提起しているにもかかわらず、光田は第三者を装おうと詭弁を弄し続けたのである。

藤野豊『ハンセン病と戦後民主主義』

私がハンセン病問題の<元凶>が光田健輔であると確信するのは、彼の<頑迷さと自己正当化>を痛感するからである。
なぜ、国際的動向や社会情勢を無視してまで、旧来どおり「絶対隔離政策」にこだわるのだろうか。まるで自分の「信念」が否定されてしまうかのように、それは自分の考えこそが唯一絶対に正しいという高慢さからの「自己保身」としか思えない。
光田は礼拝堂で行われた「参議院証言説明会」において、次のように述べたという。

「この証言は私の生涯をかけた学問的な研究と信念から、当然のことをいったまでだから、取り消すわけにはいかんよ。証言を撤回することは、私の学問の価値を動揺させることだ、それが不承知で、どうしても取消しを要求するなら、まず私の首をはねてから先へ進んでくれ…」

光田健輔『愛生園日記』

この言葉に「患者の姿」はない。「ハンセン病者のため、患者のため、救癩のため…」という大義名分は表面的であって、本音は「国家のため、社会防衛のため、健常者のため…」であり、さらには「私の生涯をかけた学問的な研究と信念」を守るためであった。

最初は光田も医者として患者に向き合っただろうが、渋沢栄一や山根正次ら政治家、政府官僚との関わりの中で、次第に専門医としての自負心とともに「癩の撲滅」を使命と思うに至り、国家や社会をハンセン病から防衛するための国策を考えるようになり、変わっていったのではないだろうか。もし光田が一介の医官に徹して養育院で勤務していたならば、絶対隔離政策が生まれることもなかったとも思える。やはり光田には「野心」「立身出世欲」があったと思う。
自らの考え出した「絶対隔離政策」が認められ、実現していくにつれ、周囲から「権威者」「第一人者」と認められ、国策の中心人物として強力な発言力をもつようになっていったとき、彼は独善化していき、「裸の王様」となった。癩予防法が成立し、療養所体制が確立し、無癩県運動が全国で展開され、すべてが彼の思惑どおりに進展していくと、彼は現体制の維持に固執するようになっていった。その帰結が「三園長証言」である。

日本の癩対策の根源的な誤りは、癩患者すなわち癩は病気、患者は人、人は人という絶対的な倫理を疎かにしたところにある。癩を病めばすべてが伝染源となりすべては不治とし、絶対隔離こそ唯一最善の方策と考え、無癩国を目指し社会防衛と自賛した。「癩の撲滅」とは「癩患者の撲滅」と同義となり、そこから癩患者、ひいては人間軽視へと連なる。それでも世人は、自らの癩患者に対する差別・排除を何ら省みることなく、隔離の実態をよそに「救癩」と称賛する始末だった。もっとも、病を超えたかかわりもあったろうが、患者は人であることを疎かにした実際として、終生隔離を「ここで生きてもらう」のではなく、「ここで死んでもらえばそれでいい」ような思いだったに違いない。

成田稔『日本の癩対策の誤りと「名誉回復」』

成田の指摘は正鵠を射ている。ただ、この「人は人という絶対的な倫理」を疎かにする価値観はハンセン病に限ったことではない。日本の歴史を通底している「人外」「社会外」の価値観、「賤民」という存在を生み出した人間観が根底にある。それは、異質なもの、「害」と見做したものを排除・排斥することで同化と結束を図ってきた日本そのものが内包する問題なのだ。

「三園長証言」を読むかぎり、また質問する国会議員の反応を伺うかぎり、彼らにはハンセン病患者を自分と同じ「人間」であるという意識は少ない。彼らは自分たちとは違う「癩(ハンセン病)患者」であるという認識だった。

…病気に人を含めたり付けたりで「病気と人」とはまったく別という認識は(おそらく全然)なかったようである。たとえば(癩病の楽天地をなす)といった一言にそこがよくうかがえる。絶対隔離を指向した1931年あたりだと、病名は癩とはっきりさせているが、癩患者とあっても癩に癩患者の意を持たせたり、<癩民、癩保護>などと病気も人も同意と思わせる語句もある。退任(1957年)に当たっても、癩をライと仮名書きにしているが、やはり<日本人はライを他人にまかしてはいかん>と、病気と人を分けるつもりはなかったとしか思えない。まるで「癩の化身」とでもいいたげな発想だが、個人の人格的生存に不可欠な名誉権などはまったく認めていなかったろう。

成田稔『日本の癩対策の誤りと「名誉回復」』

光田健輔への批判であるが、結局、光田にとってハンセン病患者は研究対象、モルモットでしかなかったように思える。多くの「犠牲」の上に創り上げられた「絶対隔離」という<砂上の楼閣>を強固な城郭にすべく盲進したのが光田健輔の一生であった。

患者の名前を全員覚えているとか、優しく声かけをしていたとか…さまざまな逸話が美談のごとく証言されているが、それは大竹章が言う「飼育の檻」に入れられて、おとなしく「飼育」される患者に対してである。逃げ出そうとしたり反抗的な態度をとる患者には情け容赦ない「懲罰」を与え、たとえ死んでしまっても構わない程度にしか思ってはいない。まさしく「飼育カゴ」で昆虫を飼うかのように、療養所で患者を「飼育」していたのだ。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。