伝説の編集者
坂本一亀がYMOの坂本龍一の実父であることを知ったのは随分と後になってのことだった。坂本一亀の名を知ったのは、高橋和巳の追悼集であったと記憶している。その後、戦後文学の作家や評論に関する本を読む中で、徐々に坂本一亀の存在の大きさに気づくようになった。
作家や評論家にとっての「編集者」の存在が必要不可欠であることは周知の事実であるはずだが、ネット社会におけるブログやSNSの普及により「編集者」不在の情報発信が可能になった。(その可否を論ずるのは他日に行うつもりだが)現在の無秩序な情報発信が招いている「誹謗中傷・罵詈雑言」の要因の一つであることは明白であろう。
事実無根・独断偏見・虚偽の「記事」を至る所で散見する。誰に相談することも確認することもせず(できず)、自分の考えや所感を「事実」であると思い込んで書く(投稿する)結果、とんでもない「記事」ができあがり、ネット上で拡散していく。
<検閲装置>がないことのメリットもあるが、このようなデメリットの多さを痛感している。
実際に、まったく見知らぬ相手(人)に、実名を挙げられて、事実無根の内容を事実であるかのように「記事」に書かれ、人間性や人格にまで言及されて、とんでもない虚偽を捏ち上げられる。
ネット社会以前、情報の主体は「活字媒体」によるものだった。新聞・雑誌・書籍が中心であった。そこでは「著作者」と「編集者」による<協同作業>があった。
『伝説の編集者 坂本一亀とその時代』(田邊園子)を一気に読了した。
目次に並ぶ錚々たる有名作家を世に送り出した編集者、坂本一亀の半生をその作家たちとの関わり(作家たちの回想や坂本自身の言葉)から描き出している。読みながら実感したのは、作家を支える編集者という以上に、作家を生み出し、作家を育てる編集者の圧倒的な力量であった。作家以上に知識と着眼・発想の豊富さが要求され、何よりも読書量と読解力に驚かされた。
田邊さんは坂本の後輩として彼を間近で見ながら、そして本書では坂本と関わりの深い作家が彼について書いている記事を引用することで、坂本の人間像と仕事を描き出している。
「偏執的とも言える熱心さ、依怙地なほどの固執ぶり」「直情的な激しい気性」「孤独型で内面性の強い性格」で、多くの有望な新人を発掘し大成させた坂本一亀その人について、ここで述べる気はない。ただ、そのような編集者がいたから、そのような編集者によって育てられたから、我々が読んで感動する文学作品が生まれたのだと実感する。
インターネット上での誹謗中傷対策として侮辱罪を厳罰化した改正刑法が、本日から施行される。侮辱罪の法定刑はこれまで刑法の中で最も軽く、30日未満の拘留、または1万円未満の科料と規定されていたが、改正刑法では1年以下の懲役・禁錮または30万円以下の罰金が追加された。
しかし、果たして誹謗中傷・罵詈雑言が抑止されるだろうか。あおり運転が未だにニュースを騒がしていると同様に、誰しもが疑問や不十分さを感じているだろう。「厳罰化」による抑止の効果以上に、取り締まる対象の曖昧さが抜け道となることを危惧する。「言論の自由」という大きな壁があり、法的手続きの複雑さ、時間と費用の問題が解決されていない。つまり、告発の受け皿である機関が不十分なのである。
何より「誹謗中傷・罵詈雑言」の基準が不明瞭である。事実無根・虚偽の内容を個人的なブログに書かれても、個人の感想や意見で片付けられたり、「死ね」などの露骨な個人攻撃でなければ容認されたり(巧妙・狡猾な筆法によって誤魔化しているため)、プロバイダーが国外であったり…等々の「不明瞭な壁」がある。
要するに、編集者のような「検閲装置」がいないことがネット上の言論の最大の「壁」なのである。ネット社会は「言論の自由」の究極の形である以上、それによる「弊害」もまた究極の形で存在する。そして、本のような活字とのちがいはネット上で瞬時に世界に拡散し、無料で読むことができ、「デジタルタトゥー」として残り続けることである。
ネット社会の「誹謗中傷・罵詈雑言」は人間の心底にある悪の表出かもしれない。
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。