部落差別は「深刻化」しているか
ここ数年,特に同和対策に関する措置法が失効して以後の状況を見ながら考えてきた問題がある。部落差別は果たして「深刻化」しているのか,また逆に解消しているのか,という素朴な疑問である。両方ともに「実態」としては事実であろう。各地域・各個人という面から考えれば,深刻化しているケースもあり,解消しているケースもある。また,何をもって深刻化ととらえるか,何をもって解消ととらえるかによって対極に分かれる。
…… もしも,トイレ等に書かれた「落書き」の内容が,人々の共感を得ているものであるならば,「差別落書き」の多発が部落差別深刻化の根拠にもなるだろう。しかし,書かれている内容が多くの人達に共感をもって受け入れられている事例が存在するなどということは聞いたことがない。たとえば「エタ死ね」などという文言は,公衆の面前では,多くの人々の眉をしかめるものであることが社会的に明確になっているからこそ,だから“犯人”も,そのことが,わかっているからこそ,トイレ等での匿名の行為に及ぶのである。「差別落書き」多発=部落深刻化の論者は,これを“陰湿化”と言い,“深刻化”の根拠とするだろう。しかし,事態はむしろ逆で,このことは“差別をトイレに封じ込めた”ものとして捉えた方がいいのではないだろうか。
(畑中敏之『「部落史」の終わり』)
ネット上の差別書き込みや特定の個人に宛てた差別はがきにしても同様である。判断基準を「社会的価値観(倫理観)」とするならば,差別の違法性は十分に社会に認知されている。このことは,差別事象のほとんどが「匿名」「不特定」という隠れ蓑の中で行われていることからも明白である。ただし,これを「陰湿化」ととらえ,氷山の一角であり,多くの者は思っているが行為に及ばないだけだととらえるならば「深刻化」していることになる。逆に,多くの者は決してそうは思っておらず,一部の者による行為であるととらえるならば「解消化」していることになる。果たしてどちらであろうか。
これらの判断を難しくさせているのは,単に差別事象を行う「人数」では計れない個々人の「認識度」が関係しているからだ。通常の日常生活では何事もなく付き合っていながらも,心底には部落出身者に対する差別感をもっている者もいるだろう。差別行為には及ばずとも差別意識をもっている者もいるだろう。差別意識の程度は「認識度」に関係しているだけでなく,部落出身者あるいは部落との関わりにも左右されている。直接体験だけでなく,周囲の偏見や先入観など間接体験も「認識度」に深く影響を与えている。
当然のことだが,偏見や先入観を払拭するとともに正しい認識と指標をあたえることが啓発や教育の役割である以上,今後さらに人権問題や同和問題に関する「社会啓発」や「人権・同和教育」が必要なことは自明である。しかし,その状況分析と考察,対応・方法において従来のままでよいのであろうか。今までの同和教育において「柱」とされてきた「被差別の立場に学ぶ」ということが,単に「被差別の立場の側(味方)に立つ」ということになってしまい,部落至上主義・部落正当化主義という弊害を生んできたように思う。そして,最も疑問に感じているのは,<被差別者(被差別の立場・側に立つ者)でなければ差別者か>という命題である。
「まだまだ,こんなにもひどい差別がある」と居丈高に声をあげる「深刻化」論者の同調し,被差別者や被差別の立場に立つ者を絶対化し,同和教育や社会啓発こそが最高のものと信じ,同じ考えや同じ主義・主張の者だけを「仲間」として受け入れ,結束し特定の集団を構成していき,他をまるで「差別者」に荷担する者であるかのように批判する。実に巧妙な煽動によって同調者(仲間)を増やしていく。その求心力となり,大義名分となっているのは,無批判に正当化された「被差別の立場」である。
この問題について,小浜逸郎は『「弱者」とはだれか』の中で【「弱者」を「聖化」する作用】として,次のように考察している。
…… 被害者の共同性がいったん社会的なものとして認められると,それはそれだけでその共同性に属する個々人に対して超越的な力(共同幻想)を持つようになる。その力は集団の内部では彼らを従わせる規範として働くと同時に,集団が外に向かうときには,彼ら自身が持つ特権的な力であるかのように働きやすい。
…… 社会集団として認知され定着した「弱者」には,このように,自分たちは共通の弱者,被差別者として苦しみを共にしているという共同観念が不可分の形で張りついている。それが集団としてのアイデンティティの軸になっているので,実態が変化しても,なかなかそのことを認めようとしない。被差別者が差別の不当性を訴え続けるために(ときにはただ既得の利権にしがみつくためだけに),「自分たちは被差別者だ」という無理な言い聞かせが必要だからである。
守安の言う「部落民(部落)のアイデンティティを主張すればするほど差別が不可欠になるというディレンマ」は,灘本が指摘するとおり,現実が改善されてきたとき,概念と現実との剥離現象として顕在化する。
…… そして「被差別者」「弱者」としての集団アイデンティティの危機を,自分たちに向かっての無理な言い聞かせで埋め合わせようとし,ますます「被害の共同体」という記号化した特権性によりかかることになる。
その結果,いつまでもルサンチマンの固執から逃れることができない。
…… これが内部からの「弱者」聖化のからくりである。
小浜氏が文中で引用している灘本氏と守安氏の一文は次のものである。
…… 社会が以前より被差別者の声を尊重するようになったため,「弱者性」「被差別者性」は,行政からなにがしかの対策を引き出したり,世間の同情を得るための「資源」ともなりえることとなった。資源を発掘するためには差別の証拠探しが行われ,「弱者性」「被差別者性」の誇張もなされやすい。こうした状況は,人権の軽視されている時代より遙かに前進なのであるが,そこでの差別とのむきあい方を誤ると,ルサンチマンへの固執,負のアイデンティティー形成という思わぬ落とし穴に落ちることになる。
(灘本昌久「差別問題における思索と現実」『脱常識の部落問題』)
…… 極めて逆説的に言うならば,「部落民(部落)は部落民(部落)であり真の部落民(部落)は不変である」というアイデンティティーは被差別とは不可分ではないのか。差別されてきたからこそ部落民(部落)ではなかったのか。部落民(部落)のアイデンティティーのかなりの部分が,被差別であったが故に存在可能であったのではないか。
このことを部落解放との関わりで考えてみれば,部落解放が実現し被差別の状況が存在しなくなれば,部落民(部落)のアイデンティティーがほとんど存在しなくなる,ということと同じではないのか。つまり,部落民(部落)のアイデンティティーを主張すればするほど差別が不可欠になるというディレンマに陥らざるをえないのではないか。
(守安敏司「被差別とアイデンティティー」『脱常識の部落問題』)
この3人が指摘する「弱者の聖化」「ルサンチマンへの固執」「アイデンティティのディレンマ」こそが現在の部落問題あるいは部落解放運動にとっての大きな壁となっているように思う。
角岡伸彦氏の『はじめての部落問題』を興味深く読んだ。部落解放運動や部落問題について,現在の状況と以前の状況とを比較・検証しながら,新しい世代の視点から今後の部落解放の方向性を提起している。1年半ほど前に出版された山下力氏の『被差別部落のわが半生』と共通している部分も多い。彼らの提起について考察しながら,現在の課題と新しい視点・方向について考えを述べてみたい。
同和施策に関する措置法が切れて以降,全国各地で様々な混乱が起こる中,行政における同和対策事業や教育現場における同和教育は人権問題に関する施策や人権教育の中に新たに位置づけられて取り組まれてきた。各地域・各学校においても,様々な試行錯誤の結果,この数年間で人権施策・人権教育としての方向性や取組の内容がある程度確立してきたように思われる。しかし未だに旧態依然の同和教育にこだわる人々がいる。彼らの主張の根拠は,未だ部落差別は厳しく,社会問題としてより深刻化・陰湿化しているとの認識である。これは現状をどのように分析・考察するかの問題である。彼らが部落差別の深刻化・陰湿化の例とする「差別落書」を考えてみよう。
『同和中毒都市-だれも書かなかった「部落」2-』(寺園敦史)に,京都市作成の同和啓発教材「なくしたいこんなこと」の一文が引用されている。
(偏見は)特定の個人がたまたま抱いているという筋合いのものではありません。…… 社会にすでにある物の見方・考え方を反映したものだということです。偏見の持ち主が落書という行動に出て差別を具現した。そのもととなった偏見は書き手に限らずかなりの人が抱いているかもしれない。また,落書を仲立ちにして偏見の共有という作用も考えられる。
つまり「差別落書」とは,部落に対する社会全体がもつ偏見を具現化したものであり,落書の内容に対して多くの人々が内心において共感していると作者は思っている。しかも「落書」によって偏見を共有する作用が生まれると危惧している。だからよりいっそうの社会啓発が必要であると結論付けている。
この論理は一見正しいように思えるが,それはあくまでも「差別落書」に共感し部落に対する同じ偏見を共有する人間が「かなり」の人数であり,彼らがもつ偏見は「社会にすでにある物の見方・考え方」である前提によってである。はたして現実社会において「差別落書」に共感したり,同じ偏見を共有したりする人間が「かなりの」人数いるだろうか。まして部落に対する偏見は未だに「社会意識」となっているだろうか。
確かに部落に対する偏見や先入観を根深くもっている人々はいる。まちがった認識をもち続けている人々もいる。頭ではわかっていても拭い去れない偏見や実態のない世間体の目に縛られて「変われない」人々もいる。自らのストレスや不満などの捌け口の標的と部落差別を悪用する人々もいる。だが,それらの人々の絶対数は以前と比べてどうであろうか。
実態を正しく把握し考察しようとするならば,特定の主義・主張を合理化するための根拠として統計資料を解釈してはいけない。まして誇大解釈は尚更である。
部落民すべてが差別されているわけではない。ところが同和教育などで部落問題を伝えようとするとき,いかに差別が残っているか,厳しいかを強調する傾向がある。同和教育=被差別の現実を伝えること,と思い込んでしまっている。…… 部落民の話は,かつての悲惨な生活や被差別体験が中心になってしまいがちである。なぜなら教師だけでなく部落民も,部落問題を語る=いかに差別を受けてきたかを伝えるか,だと思っているからである。
(角岡伸彦『はじめての部落問題』)
この一文は,従来の同和教育が陥ってきた弊害を端的に述べている。例えば道徳で「結婚差別」の授業をおこなう場合,その教材が両親や親族の反対をいかに根気強く説得し最後には理解してもらって結婚できた内容であっても,また部落に対する根拠のない偏見がいかに愚かしいことであり,部落差別が人間をいかに不幸にすることであるかを述べていたとしても,現在の実態を正しく伝えないかぎり,未だに部落民は厳しい結婚差別を受け続けているという印象は強く残ってしまう。差別され続ける部落民という固定概念を生み出すことにつながる。
社会科における部落史学習で特に注意すべきは,差別の歴史ではなく「差別克服の歴史」「人権拡大の歴史」を教えることである。生徒の多くは「時代感覚」が十分に育っていない。時代の流れや歴史過程を把握することが難しい。そのため,江戸時代の被差別の実態を現代の実態にオーバーラップさせてしまう危険性は大きい。
社会啓発においても同じで,同対法以前と以後,この数十年間の歴史過程を的確に説明しているだろうか。「厳しい」「悲惨」という差別を形容する言葉で安易に語りすぎてはいないだろうか。「厳しい」という内容も受けとめ方も時代によってちがうことをわかっているだろうか。尺度も度合もちがうのだ。被差別体験にしても「厳しかった」「つらかった」と過去のことにしようとも,一体いつのことを指しているかは語る人間によっても異なるのだ。その時代の社会意識,価値観,社会状況など時代背景を分析・考察した上で的確な表現をしなければ正しくは伝わらない。
同和教育はえてして結論を押し付けてしまいがちである。大事なことは考えることであり,講師はとりあえず,その材料を提供するだけである。…自分の知らない現実や考え方を知ることで自分がゆさぶられたり,世間にある常識や価値観やそれらに影響されている自分を,一度じっくり考えてみる。その過程が大事だと私は思う。
(前掲書)
まったく同感である。「差別はいけません」という抽象的な結論からは何も生まれはしない。「なぜいけないのか」という自明のことをあえて問い直すことが自分の生き方やあり方を生みだしていく。部落問題は今も残存し続けている。しかし確実に解消の方向を歩んでいる。しかも加速度的に人権意識は広がり高まってきている。部落という垣根も社会意識において随分と低くなってきている。だが,なお残存している。どこに解決の糸口があるのか。部落差別とは何かをあらためて整理すべきではないかと考えている。