西の丸騒動
HDDを整理していたら、昔の駄文が出てきた。20年ほど前、私に対して執拗に日々、一面識もないにもかかわらず、的外れな誹謗中傷の文章を自分のブログに書いていた山口県の牧師がいたが、この拙文を私がブログに書いたら、何を勘違いしたのか「殺害しようとしている」と書かれたことがある。そう思うのであれば、愚かしいイヤミや皮肉に満ちた攻撃的なことを書かなければいいのだが、松平外記をいじめた人間らと同レベルということだろう。誰からも相手にされない鬱憤を、今も同じことを繰り返しているのだろう。私には関係ないことだが…。
山本博文氏の『江戸の金・女・出世』や『男の嫉妬』に次のような逸話が紹介されている。いわゆる「西の丸騒動」,別名「松平外記一件」は『視聴草(みききぐさ)』に書かれている。引用史料一覧によると,『視聴草』は「内閣文庫史籍叢刊」(汲古書院)の一冊として出版されている。国立公文書館によると,『視聴草』は江戸末期の旗本宮崎成身がさまざまな資料や情報を記録しあるいは綴じ込んだ全176冊からなる冊子である。「松平外記一件」はこの中に所収されている。
この逸話,何も江戸時代だけではない。似たような話は,現代にも身近にも多く散見する。
少しからかった程度と思っているのは本人だけで,からかわれた方がどれほどに腹立たしく思っているかなど想像もできないだろう。(想像して,あえてすることが楽しいと思う人間もいるようだが)しかも,まだ一時のことなら我慢もできようし,恨みに思っても時が忘れさせてもくれるだろう。しかし,執拗に繰り返され続ければ,その憤怒は積み重ねられていく。雑言を吐く側もまた調子に乗って,相手が耐えていることに気づかず,より辛辣さを増した悪言や皮肉ったイヤミを口にしてしまう。
この両者の限界点を超えたとき,惨劇が起こる。事の是非でも行為の善悪でもない。山本氏が書いているように「やめておけばよかったのだが」それに気づかないことが悲劇を生む。相手をいたぶることを心地よいと感じる自らの心根の歪みに気づかないから,いつまでも繰り返し続けるのだ。皮肉やイヤミを,いつまでも続けて平気でいられる,その人間性そのものが歪んでいるのだ。捻くれた性格と言ってもいいだろう。多くの場合は,そんなことで自らの人生を棒に振ることのバカバカしさから耳を伏せて相手にしない方を選ぶ。関わることを避け,雑言を無視する。
しかし,相手が反応しないことをいいことに,それを笠に着て,ますます増長して,執拗に中傷と挑発を繰り返すことになる。
続けて山本氏は書いている。
その結果の惨劇については書く必要がないので書かないが,妬みの心からのいじめや嫌がらせが事の発端であったことは否定できまい。しかも一度や二度なら外記も我慢できたであろうが,度重なる嫌がらせ,何よりも執拗に繰り返された「嘲弄」や「讒言」「愚弄」が外記には耐え難い屈辱,怒りを抑えることができなかったのだ。口唇もまた刃となって人を切るのだ。
自分の言動が他者の心に不快感や屈辱感,怒りや憎しみを感じさせるならば,それは言うべきでない。語るべきでもない。関わるべきでもない。自分がしてもらいたくないことは人にすべきではない。そして何よりも,その判断基準は自分ではなく相手なのだ。相手がどう思うかが基準であるはずだが,そんなことは一向に構わず,相手が不快に思ったり腹立たしく思ったりすることの方が「楽しい・うれしい」という偏向した性格の人間もいるようだ。だから相手を貶したり,愚弄・揶揄したりできるのだ。使用する言葉や表現ひとつで,その人間の歪んだ性格がわかる。松平外記もまた,そのような捻くれた性格の同僚や先輩から執拗な嫌がらせを受け続け,ついに我慢の限界をむかえたのだろう。そうなってもなお,彼らは自分は正しいと言うのだろうけど。
私ならどうするだろうか。時代や立場に関係なく,いつの日にか必ず報復するだろう。ある程度ならば我慢もしようし,何を言われようと聞き流して相手にしないだろうが,やはり人間には限度と限界がある。憤怒もある。武士でなくとも自尊の念もある。恨みに思うこともある。松平外記の心情は察して余りある。いくらバカげたことであろうと,きっと何年経っても何らかの手段を用いて報復するだろう。それまでは沈黙の中で時を待つだろう。
外記のように直情的に報復はしないが,必ず,何年経とうとも時を待ち,絶対に二度と立ち上がれぬように叩きつぶす。人間を軽んじないことだ。甘く考えないことだ。憎悪は沈黙の中で蓄積されていくのだ。