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<特別病室事件>再考(7)

ここで、福岡安則が『裁判抜きの「重監房』によって明らかにした「訂正」を紹介しておきたい。過去のできごとなどについて論証する際、できるだけ一次資料によって検討するが、それでも誤記や誤認によるまちがいは起こりうる。そのため、可能な限り資料を集めて多角的に考察する必要がある。しかし、それでも新たな資料によって「訂正」は起こり得る。

福岡は宮坂道夫の『ハンセン病 重監房の記録』について、次のように書いている。

…重監房に収監されながら死を免れた人でその体験を証言したのは「山井道太の妻」だけであったと2ヵ所で書いている点(127頁および148頁)は、なにかの思い違いだと思われる。多摩全生園の島村秀喜さん(1925年生、筆名は大竹章)の話によれば、「山井道太の妻」は、もともと外島保養院に収容されていたのが、1934年の室戸台風で外島保養院が壊滅したため、全生病院に移ってきて、そこで山井道太と園内結婚をしたのであるが、重監房から出された夫が快復することなく死亡したあとは、外島保養院の再建という位置付けで造られた邑久光明園に移り住んだとのことである。…それゆえ、昭和22年の人権闘争のときには、彼女はもはや栗生楽泉園にはいなかったはずである。

福岡安則『裁判抜きの「重監房』

福岡は、『風雪の紋』に収録されている資料「栗生楽泉園特別病室真相報告――1947(昭和22)年9月5日」(497-507頁)を確認し、山井道太の妻の欄に「在園中」の記載がないことからも確認している。この報告作成時に「在園中」の患者は4人、そのうちの1人が「患者大会」で証言したのであるが、その人は「山井道太の妻」ではない。では、証言したのは誰か。福岡も「聞き取り」をした鈴木幸次さんが「[患者大会のとき、実際に重監房に入った者として発言したのは]満八十山の奥さん」(栗生楽泉園入所者自治会編『栗生楽泉園入所者証言集』)と答えている。
沢田さんも「1942年暮れごろから45年秋ごろまで石楠花舎にいた境テイに違いあるまい。この人は、戦後47年の『特別病室事件』とも呼ばれた人権闘争のさい、ニュースカメラが回るなか、強いライトを浴びながら中のようすを証言した人でもある。(1951年10月16日死亡)当時、川ヶ丘在住」(『とがなくてしす』)と書いている。

また、沢田さんは同書所収「特別病室は殺人罪に問えなかったのか」にも、次のように書いている。

また同じ年、四国と大阪で、患者間では重宝がられ、当局からは「こういう人がいるから収容がはかどらない」と目の敵にされていた、満八十山という人が捕まって送致されてきた。この人は五百三十三日という最長在監記録を打ち立てたすえ、獄死する。しかもこの人の場合、内妻の境テイも同罪とされ、ぶち込まれるのである。テイは三百九十日拘留され生きて出るが、その出かたというのはひどく衰弱したうえ、風邪をひくか何かしてまったく動かなくなったため死んだと見なされ、出されたという話なのである。

沢田五郎『とがなくてしす』

「栗生楽泉園特別病室真相報告」には、次のような説明が書かれている。

〇テイ、本籍不詳、入室昭和十六年九月二十六日、拘留日数390日、テイの夫満〇十〇が大阪府にて不注意にも盗品の自転車を買ったとの理由(本園の書類には罪名賭博とあり)で拘留533日に処せられたる際、妻であるとの理由で〇テイは390日拘留さる。

「栗生楽泉園特別病室真相報告」『風雪の紋』

今更ながら思うが、「患者大会」の時のニュース映像が残っていればはっきりするのだが、もはや処分されているのだろうか。しかし、これで唯一証言したのが、満八十山の内妻境テイであったことが明らかにされた。

また、福岡によっていくつかの指摘がされたことも紹介しておかねばならないと思う。

そもそも、あの時代、「癩患者」たちは、「大日本帝国憲法」が「日本臣民」に保障していた、もしくは課していた権利と義務の一切を剥奪されていたと見たほうが、事態をよりよく理解できる。端的に言えば、「癩患者」たちはまるごと法の埒外に置かれていたということである。

たとえば、「癩療養所」では、法的根拠なしに「断種・堕胎」の強要がおこなわれていたが、その処置をした医療従事者が罰せられたことは一度もない。あまつさえ、そのような処置を、医師の資格も看護婦の資格も持たない職員がやっても、それが法的処罰の対象となることはまったくなかった。

あるいは、収容前に社会ですでに結婚している者であっても、園内で別の相手と“結婚”することを、国が設置し厚生省が管轄する施設内で当局が認めていた。…それが“姦通罪”にも“重婚罪”にもされなかったのだ。
そして一方では、「徴兵の義務」からも除外されていた。また、「教育の義務」からも除外されていた。…これは権利の剥奪でもあった。

療養所内では“患者作業”という名の労働を課せられていたが、雀の涙ほどの賃金ゆえ、「納税の義務」からも除外されていた。
「重監房」は、わが国政府と国民が、ハンセン病罹患者たちを“人にあらざる者”として、法の埒外においやっていたことの象徴であった、…

福岡安則『裁判抜きの「重監房』

つまり、光田健輔によって創り上げられた絶対隔離施設である療養所は<治外法権>を有する別世界だったのである。同様の意味で、「植民地」「王国」と呼んだ人もいる。宮坂道夫が看破した<パターナリズム>を基盤とした「王国」である。

…戦時体制を強めていく時代背景と相まって、国家主義や家族主義の性格を持つ独特のパターナリズムが医療のなかで表れていく。軍国主義を強めていくなかで、天皇を始めとした男性皇族は「強さ」の象徴となっていくが、皇后などの女性皇族は、病人や社会的弱者に恵みを与える「慈愛」の象徴となっていく。これは、医師を父親に、患者を子供になぞらえるパターナリズムに、母性的な慈愛の色合いを加えたといえるのかもしれない。

宮坂道夫『ハンセン病 重監房の記録』

宮坂は、光田の<家族主義>は、最初から「罰する父親」という側面を含んでいたという。つまり、光田は自らを「家長」に、患者を「子供」になぞらえた「家族のような慈愛に満ちた世界を構築したいというのが彼の理想であった」(同書)。それゆえ、「家長」の意に沿わない、反抗する「子供」は罰してもよいのであり、そのために「懲戒権」も持っているのだと光田は思っていた。


「特別病室」は栗生楽泉園の入所者にとっては恐怖でしかなかった。

特別病室が責め道具として患者の上にあったため、患者は法に基づくささやかな権利要求すらできずにただひたすら施設側のご機嫌をうかがい、虎の尾を踏む思いで、びくびくしながら暮らしてきたのであった。そのことを思うと、この特別病室は規模こそ小さいが、性格においてアウシュヴィッツと同じものと考えてもいいような気がしてくる。

沢田五郎『とがなくてしす』

患者の上に君臨したのが分館長(実際の役職は看護長)加島正利である。加島は「特別病室」が設置された年に看護長になった。加島正利について『風雪の紋』より抜粋しておく。

…常に怯えて周囲をうかがう患者集団と化していったのである。しかもそんな患者集団を追い立て、群を散らし、裏切り者を育て、患者の中から自らの手兵を養い、もってさらに抑圧を強めるための担当職員――看護長加島正利の存在が、まさに「特別病室」に直結するかたちで、入所者一人ひとりにのしかかってきたのだ。

加島は千葉県出身で、当園開設時に庶務課長霜崎清の縁故により雇員として採用された。…そして「特別病室」が設置される同じ13年(1938年)、加島は霜崎のバックアップもあって看護長に就任したのだ。看護長と云っても医療面に携わるのではなく、それはあくまで患者管理を業務とする職種であったが、しかし分館内では特別の要職とされていた。

栗生楽泉園患者自治会編『風雪の紋』

加島は虎の威を借りて患者を気分次第で「特別病室」に入れると脅しては患者を抑圧して楽しむ人間であったらしい。彼の口癖は「頭を冷やしてこい」「しばらく頭を冷やすか」であり、「特別病室」へ入れるぞという脅しであった。

ただ腕をこまねいていただけではなかった。五日会(今の入園者自治会)レベルでは、楽泉園の患者が入れられそうになったとき、それはたいへん不名誉なことだし、そうとう身体にこたえることでもあるのだから、何とか入れないで勘弁してやってくれ、といった陳情、あるいはもらい下げをやっていた。これは案外馬鹿にならない行為で、実績も上げていたのだが、残念なことにはこれが他施設から送致されてきた人に及ぶことはなかった。
しかし、在園者一般のレベルでは、1942年に、…特別病室ぶち壊し計画「昭和十七年事件」が起きているのである。これは特別病室をぶち壊し、囚人を救い出した上で、火をつけてしまおうというものである。

沢田五郎『とがなくてしす』

事件ついては『風雪の紋』および沢田五郎『とがなくてしす』所収「昭和十七年暴動未遂事件」に詳しい。ここでは、事件の顛末に関する要点のみを抜粋しておく。

当時の食餌についても、入所者水沢定作の証言をかりれば、「朝食といえば塩気の少ない空っ汁がおきまりであった。たくわん一本がなんと三日分の昼、夕食用副食といった具合だったのだ。主食ときたら麦の中へ少々白米を落としたようなもので、それもどうした理由でか、半食などという時もあり、平常の半量しか給食されないこともあった。…」
いっぽう施設の管理職員たちは、患者の実状とは反対に何一つ不自由なく暮らしている様子で、そんなふうにしていられるのは、患者への支給物品の横流しや患者予算のピンハネをしているからだという声が、しだいに患者間に広まっていった。だが、そうした療養生活上の不満を代弁すべき患者代表機関五日会の役員や世話係は、むしろ施設当局の側に立っていて、療友を押さえつけることはあっても、要求をまとめて施設に交渉する態度など、まったく持ち合わせていなかったのである。それどころか患者代表の立場で職員に取り入り、わずかばかりのおこぼれを貰いうけることしか考えていなかったといえよう。

栗生楽泉園患者自治会編『風雪の紋』

後に「人権闘争」の際に明らかになる職員による不正である。霜崎庶務課長や加島分館長が中心となって職員を抱き込んでの施設当局による組織的犯罪行為であるが、「特別病室」があるがために患者は告発すらできなかった。
さらに、患者を「人海戦術に役立つ、集団としての労務者」としてしか思っていない霜崎庶務課長は、園内の「患者作業」だけでなく、「奉仕作業」と称して、職員すら動員して園外の仕事を請け負い、支払われる賃金を着服していた。
患者作業の苛酷さを沢田さんは、次のように書いている。

…病棟の看護から始まって、園を切り回すありとあらゆる作業は、患者が動かなければ一日も成り立たない。そのうえ炭背負い、薪上げ、道普請、温泉修理と毎日毎日奉仕作業に追い回され、座る暇もないくらいだ。これではよくなる病気だって悪くなる。…患者作業や奉仕作業を怠けると分館に睨まれる。その次は監房が待っている。重監房があるかぎり、患者は今のこの境遇から逃れることはできない。

沢田五郎『とがなくてしす』

「炭背負い」とは、「…約10キロの悪路を一人一俵から三俵の炭を背負い、ほとんど一日がかりで運ぶことが、多いときは月五、六回にも及んだ。まさに地獄の労働であり、このため病を悪化させたり死亡した者もある」と沢田さんは書いている。

「薪上げ」とは、「…通称“地獄谷”から患者が約1m間隔で並び、下から上へと薪木を手送りにする。…どうしても手を痛めやすく、常に血染めの薪が混じることになるのである。また万一転げ落ちるようなことがあれば、生命の保障はない場所だったので、患者たちは互いに呼び交わし、励まし合い、必死の思いで薪木を引き上げた。しかるにこの光景を眺めみた看護長の加島正利は、「実に壮観」と評し、いかにも満足げに笑う」と『風雪の紋』に書かれている。

患者の施設や加島への不満は日を追うごとに高まり、ついに決起の気運に至った。

すなわち天城、春日、妙義の男子独身軽症舎に居住する患者たちによって、内密裡に会合が重ねられるようになっていったのである。彼らは、待遇改善のたたかいに決起しようと誓い合った。そして決起にあたっては、何よりも先ず患者弾圧の具である「特別病室」をぶち壊すことが必要だとした。

…戦術というのは、決起組を二手に分け、その一つの隊は「特別病室」をぶち壊すとともに事務本館に火をつけ、併せて職員官舎をも大いに破壊すること。そしてもう一方の隊は、この襲撃によってやって来るだろう警察その他関係者にたいし、当園入所患者の実情をつぶさに陳情して理解を得、療養生活上の待遇改善をかちとるというものだった。同時にそれぞれの隊編成についてお、破壊焼打ち隊には主に青年たちを選び、その襲撃はあくまで若さによる衝動的結果として云いつくろい、極力隊員から犠牲者を出さないようにし、また陳情隊には人生経験が豊かで説得力のある者を中心にすえ、その面での力を発揮してもらうことにした。

栗生楽泉園患者自治会編『風雪の紋』

それぞれの隊が綿密な打ち合わせを重ねて計画を練っていった。用意万端整えて、それぞれが待機場所に集まり、号令を待つだけとなった。だが、その時、伝令が伝えたのは青天の霹靂の言葉だった。「事成らず、計画は五日会に筒抜け、決行隊危うし直ちに撤退させよ、証拠物件はすべて急ぎ処分を――」

計画は加島など施設側に漏れていたのである。「個々人の主観だけで、この人はと思えば勝手に決起組の目的を語り、加盟を促した」ことで、「その中には、ただ煽るのみの者、そして当然ながら決起組の内情をスパイするために加盟してくる者もあった」(『風雪の紋』)のである。

翌日から関係者は分館に呼び出された。しかし加島は直接事件に関わる物言いを避けて注意するだけにとどめたという。だが、犠牲者は出た。

計画の総責任者になるよう依頼されながら断った中村利登治が「所外追放」されたのである。熊本本妙寺の患者部落の代表であった中村は両義足の不自由者であるにもかかわらずだ。
さらに、事件では大きな役割を果たしていないにもかかわらず、所外追放の中村と文通したことを理由に、妙義舎の瀬村幸一が「特別病室」に入れられたのである。見せしめであろう。

この「昭和十七年事件」には園当局も衝撃を受けたことはまちがいない。「特別病室」を重石に患者を抑圧し、飼い殺してきた施設に対する捨て身の一石を投じたのである。

…たとえ不発の一揆に終わったものの、患者監獄「特別病室」の不当性と職員の不正を糾弾し。ハンセン氏病患者の人権を訴えようとしたこの17年事件は、やがて戦後昭和22年(1947年)の壮大な「人権闘争」への胎動として、ここに改めて評価されるべきだろう。

栗生楽泉園患者自治会編『風雪の紋』

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藤田孝志
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。