ここで、福岡安則が『裁判抜きの「重監房』によって明らかにした「訂正」を紹介しておきたい。過去のできごとなどについて論証する際、できるだけ一次資料によって検討するが、それでも誤記や誤認によるまちがいは起こりうる。そのため、可能な限り資料を集めて多角的に考察する必要がある。しかし、それでも新たな資料によって「訂正」は起こり得る。
福岡は宮坂道夫の『ハンセン病 重監房の記録』について、次のように書いている。
福岡は、『風雪の紋』に収録されている資料「栗生楽泉園特別病室真相報告――1947(昭和22)年9月5日」(497-507頁)を確認し、山井道太の妻の欄に「在園中」の記載がないことからも確認している。この報告作成時に「在園中」の患者は4人、そのうちの1人が「患者大会」で証言したのであるが、その人は「山井道太の妻」ではない。では、証言したのは誰か。福岡も「聞き取り」をした鈴木幸次さんが「[患者大会のとき、実際に重監房に入った者として発言したのは]満八十山の奥さん」(栗生楽泉園入所者自治会編『栗生楽泉園入所者証言集』)と答えている。
沢田さんも「1942年暮れごろから45年秋ごろまで石楠花舎にいた境テイに違いあるまい。この人は、戦後47年の『特別病室事件』とも呼ばれた人権闘争のさい、ニュースカメラが回るなか、強いライトを浴びながら中のようすを証言した人でもある。(1951年10月16日死亡)当時、川ヶ丘在住」(『とがなくてしす』)と書いている。
また、沢田さんは同書所収「特別病室は殺人罪に問えなかったのか」にも、次のように書いている。
「栗生楽泉園特別病室真相報告」には、次のような説明が書かれている。
今更ながら思うが、「患者大会」の時のニュース映像が残っていればはっきりするのだが、もはや処分されているのだろうか。しかし、これで唯一証言したのが、満八十山の内妻境テイであったことが明らかにされた。
また、福岡によっていくつかの指摘がされたことも紹介しておかねばならないと思う。
つまり、光田健輔によって創り上げられた絶対隔離施設である療養所は<治外法権>を有する別世界だったのである。同様の意味で、「植民地」「王国」と呼んだ人もいる。宮坂道夫が看破した<パターナリズム>を基盤とした「王国」である。
宮坂は、光田の<家族主義>は、最初から「罰する父親」という側面を含んでいたという。つまり、光田は自らを「家長」に、患者を「子供」になぞらえた「家族のような慈愛に満ちた世界を構築したいというのが彼の理想であった」(同書)。それゆえ、「家長」の意に沿わない、反抗する「子供」は罰してもよいのであり、そのために「懲戒権」も持っているのだと光田は思っていた。
「特別病室」は栗生楽泉園の入所者にとっては恐怖でしかなかった。
患者の上に君臨したのが分館長(実際の役職は看護長)加島正利である。加島は「特別病室」が設置された年に看護長になった。加島正利について『風雪の紋』より抜粋しておく。
加島は虎の威を借りて患者を気分次第で「特別病室」に入れると脅しては患者を抑圧して楽しむ人間であったらしい。彼の口癖は「頭を冷やしてこい」「しばらく頭を冷やすか」であり、「特別病室」へ入れるぞという脅しであった。
事件ついては『風雪の紋』および沢田五郎『とがなくてしす』所収「昭和十七年暴動未遂事件」に詳しい。ここでは、事件の顛末に関する要点のみを抜粋しておく。
後に「人権闘争」の際に明らかになる職員による不正である。霜崎庶務課長や加島分館長が中心となって職員を抱き込んでの施設当局による組織的犯罪行為であるが、「特別病室」があるがために患者は告発すらできなかった。
さらに、患者を「人海戦術に役立つ、集団としての労務者」としてしか思っていない霜崎庶務課長は、園内の「患者作業」だけでなく、「奉仕作業」と称して、職員すら動員して園外の仕事を請け負い、支払われる賃金を着服していた。
患者作業の苛酷さを沢田さんは、次のように書いている。
「炭背負い」とは、「…約10キロの悪路を一人一俵から三俵の炭を背負い、ほとんど一日がかりで運ぶことが、多いときは月五、六回にも及んだ。まさに地獄の労働であり、このため病を悪化させたり死亡した者もある」と沢田さんは書いている。
「薪上げ」とは、「…通称“地獄谷”から患者が約1m間隔で並び、下から上へと薪木を手送りにする。…どうしても手を痛めやすく、常に血染めの薪が混じることになるのである。また万一転げ落ちるようなことがあれば、生命の保障はない場所だったので、患者たちは互いに呼び交わし、励まし合い、必死の思いで薪木を引き上げた。しかるにこの光景を眺めみた看護長の加島正利は、「実に壮観」と評し、いかにも満足げに笑う」と『風雪の紋』に書かれている。
患者の施設や加島への不満は日を追うごとに高まり、ついに決起の気運に至った。
それぞれの隊が綿密な打ち合わせを重ねて計画を練っていった。用意万端整えて、それぞれが待機場所に集まり、号令を待つだけとなった。だが、その時、伝令が伝えたのは青天の霹靂の言葉だった。「事成らず、計画は五日会に筒抜け、決行隊危うし直ちに撤退させよ、証拠物件はすべて急ぎ処分を――」
計画は加島など施設側に漏れていたのである。「個々人の主観だけで、この人はと思えば勝手に決起組の目的を語り、加盟を促した」ことで、「その中には、ただ煽るのみの者、そして当然ながら決起組の内情をスパイするために加盟してくる者もあった」(『風雪の紋』)のである。
翌日から関係者は分館に呼び出された。しかし加島は直接事件に関わる物言いを避けて注意するだけにとどめたという。だが、犠牲者は出た。
計画の総責任者になるよう依頼されながら断った中村利登治が「所外追放」されたのである。熊本本妙寺の患者部落の代表であった中村は両義足の不自由者であるにもかかわらずだ。
さらに、事件では大きな役割を果たしていないにもかかわらず、所外追放の中村と文通したことを理由に、妙義舎の瀬村幸一が「特別病室」に入れられたのである。見せしめであろう。
この「昭和十七年事件」には園当局も衝撃を受けたことはまちがいない。「特別病室」を重石に患者を抑圧し、飼い殺してきた施設に対する捨て身の一石を投じたのである。