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汝の道を行け

Segui il tuo corso、e lascia dir ie genti!
【 汝の道を行け、そして人々の語るにまかせよ 】

ダンテの『神曲』「煉獄篇」にある章句であり、マルクスが『資本論』(初版序文)に掲げたことでも有名な格言として多くの人びとに勇気を与えている言葉である。
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年頭、<Blog>から<note>に、記事(文章)を移行した。
作業しながら昔書いた文章を読み返していると、論旨が明確でなかったり、記述が途中になっていたりする文章がある。それらについても今後、加筆修正するか、あるいは書き直す必要を感じている。

と同時に、時代の流れも痛感している。これらの文章は2000年前後に書いたものがほとんどで、この20数年間に「部落史・部落問題」を取りまく状況も大きく変化してきた。同和対策に関連する法律は失効し、事業の終了とともに学校教育の場でも部落問題が取り上げられることは少なくなっている。

私の専門と言えるほどのものではなく、ただ興味関心と問題意識から長年取り組んできただけであるが、少しでも誰かの、僅かでも何かの役に立つことができれば幸いである。
今まで書きためてHPやblogに公開してきた「記事」を今年からnoteに移行させている。随分昔に書いたものや最近書いたものまで混在しているが、自分の「記憶」としても残しておきたいので、重複している内容や文章も多いかもしれないし、逆に時代錯誤や誤謬の内容もあるかもしれないが、お許しいただきたい。
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同和教育から人権教育へ、国賠訴訟を契機にハンセン病問題が社会の関心を集め、LGBTの社会認知が進み、社会的マイノリティーに人々の関心が拡がっていった。少数の声が徐々に多くの人々の意識を変え、共感を呼び、連帯と運動へと発展していく。まさしく人権拡大の方向へと動いている。だが、逆に社会的反動の動きも大きい。アメリカの黒人問題・人種問題などのように。
果たして「部落問題」は解消できているのか、「部落史」は解明されたのか。私はそうは思っていない。

部落史や部落問題から遠ざかって10数年、あらためて振り返ってみると、私自身の中に以前と同じ考えもあれば、随分と変化した考えもある。気づかなかったことや思い違いをしていたこともある。まちがっていたと反省や後悔することもある。私も当時の時代や社会の風潮に流されていたのだと気づかされた。

若さや立場のせいにはできないが、一面的な見方に偏っていたところもあるし、運動の大きな渦に飲み込まれて冷静な判断を見失っていたところもある。ただ、部落問題の解消の必要性は強く念願していたし、そのために自分にできることに全力を尽くそうと決心していたことは事実である。しかしその結果、心ならずも他者に不愉快な思いをさせてしまったり、相反する主張に対して攻撃的な言動をとってしまったりしたことは否めない。申し訳なく思うとともに、別の対応や意を尽くして説明すべきであったと後悔する。今となっては痛恨の念は消えない。

人の悪意によって人の善意を見誤ってしまったことも、今さらのように気づく。疑心を抱かせる罠に落ちたことに気づかずに、信じるにたる人との縁を切ってしまったことも、人を見る目のなかった自分を恥じる。傲慢なだったり不遜だったりした自らの態度や言動が引き起こしたことと反省している。

また、部落史・部落問題から離れる原因の一つとなったネット上での「誹謗中傷」においても、あらためて顧みれば、人間の多様さを知り得なかった自分の認識の甘さと対応の至らなさに起因すると思い直している。人それぞれの考えや生き方がある。部落史への向き合い方も人それぞれであり、解釈も主義主張もそれぞれである。どれが正しいとかまちがっているとかにこだわりすぎていたかもしれない。自説以外を認めない人間や他者を批判と称して攻撃的に非難する人間もいるのだと了解していればそれだけのことであった。世の中にはどうしても相容れない人間もいるのだと、今は思うことができる。自分とは認識・価値観・行動様式・他者への対応などが大きく異なる人間がいるのだと知ることができたのが、無駄な時間と労力に対する唯一の慰めである。

結論(見解)は相違していても、こちらの言いたいことの核心部分にかかわって批判されることは、決して不愉快なことではない。むしろ逆なのである。
ところが、言ってもいないことを、さも私が言っているかのように「批判」されたり、結論部分だけを取り出して自説の展開に「引用」されたりすることがある。
『身分・差別・アイデンティティ』(畑中敏之)

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部落史に対する見方や考え方は確かに変わった。あえて極論を述べれば、部落史研究が解明する成果が部落問題の解消に寄与することを過大評価していたことである。部落史研究の役割をもっと整理すべきであったと思っている。同様に、部落史学習についても過大評価していた。確かに、部落史学習と部落問題学習は両輪ではあるが、相互の目的と果たすべき役割を整理し切れていなかったと思う。

しかし一方で、昔同様に「(現在の)被差別部落民の祖先は賤民ではなかった」ことを証明すれば、現在の部落問題は解消するなどという単純な問題ではないと今も思っている。歴史のまちがいを糾したからといって、現在の部落差別が解消するとは思えない。
近世であろうが近代であろうが、政治(支配構造)の関与は確かであるが、近世では「賤民」ではなかった(差別されたかどうかは別にしても)としても、近代そして現代において「部落民」として差別されているのは事実である。政治がどの程度(どのように)「差別」に関与したかも解釈によってさまざまであるが、実際に彼らを「差別」したのは「民衆」である。民衆の差別意識が差別したのである。では、なぜか。それを解明するのが部落史であり歴史である。過去のまちがいを糾すのも歴史である。

過去に目を閉ざす者は結局、現在にも盲目となる。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのだ 【Wer aber vor der Vergangenheit die Augen verschliest, wird blind für die Gegenwart】
(ヴァイツゼッカー元ドイツ連邦大統領)

この演説の中で彼は「心に刻む(erinnern)というのは、ある出来事が自らの内面(inner)の一部となるよう、これを誠実かつ純粋に想い浮かべる(gedenken)こと」と述べている。歴史(過去)に学び、その教訓を「心に刻む」ことの大切さを語っているのだ。

同じ言葉でも人によって解釈がこうも違うのかと唖然としたことがある。
ヴァイツゼッカーが「盲目」を使えば名言となり,私が使うと「差別語」になるらしい。
「憎しみは,人を盲目にする」というオスカー・ワイルドの言葉を引用して記事を書いたところ,一面識もない方がご自身のブログに私を名指しで「障がい者差別」者として非難された。
「盲目」という言葉は(視覚)障がい者に対して「差別」になるそうだ。

オスカー・ワイルドの『獄中記』を英文学を専攻する友人にすすめられて読んだ時,『幸福の王子』や『サロメ』の作者と同一人物であることがすぐには結びつかなかった。

オスカー・ワイルドは,1895年,彼とアルフレッド・ダグラス卿との特別な付き合いを嫌ったアルフレッドの父クイーンズベリー公爵と裁判沙汰になり,3回の公判の末有罪となって,2年間の獄中生活を余儀なくされた。1897年に出獄,そして1900年にパリでこの世を去った。同性愛者として世間の冷たい視線に晒されながら,恋人と隔離された獄中での日々,全財産が競売にかけられ,愛する者も失う。

「憎しみは,人を盲目にする」
この言葉は『獄中記』に書かれているが,憎しみにとらわれたとき,人は何も見えなくなってしまうという彼の痛恨の思いを表した言葉だと思う。恋人の父親だけでなく,裁判官にも,そして世間の人々にも,すべての人に向けてのメッセージである。

「差別を憎んでも,人は憎まず」とは,かつて私に過酷な部落差別との闘いの半生を語ってくれた古老の言葉だ。感情的な対立から,まして憎しみからは決して部落問題の解決は生まれないとも語っていた。同じことを,林力さんも書いている。「痛みは踏まれた者にしかわからない」が,踏み返せば感情的な対立しか残らない。

私が,このオスカー・ワイルドの言葉を引用するのは,感情的な対立から連帯は生まれず,孤立しか残らないと教えられたからだ。部落問題に携わるかぎり,その解決を目指すのであれば,対立ではなく連帯の重要性を考えるべきだと思う。
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たとえ教科書の記述が変わり、そのように授業で教えようと、人々の中に根深く染み込んだ差別意識や偏見は短絡的に消えはしない。だからこそ、歴史と補い合う現在の実践(もちろん、自らの言動についての内省も含む)が不可欠なのである。過去に学ぶのは政治や社会ではない。自らの生きる姿勢であり、物事を判断する思考である。

歴史の果たす役割は、問題の原因(要因)と経緯を明らかにすることであり、現在の問題を解決・解消するのは政治・社会・思想・文化・心理などの役割と啓発(活動)ではないだろうか。部落史学習と部落問題学習の役割も同様と思う。
歴史は過ぎ去った事実であるが、その事実に学ぶことで現在と未来を良き方向へと導くことはできる。
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顔の見えない無責任なネット社会である。悪意をもって人を陥れようとする人間も、最初から他者を非難することを、あるいは嘲笑することを目的に「標的」を探して攻撃する人間もいる。事実無根であろうと、根拠がなかろうと、巧妙な文章表現で、捏造も創作も可能なのがネット上の世界である。私も30年近く身を置いてきたが、否という程にそんな人間を見てきたし、味わってもきた。人間の汚さも醜さも、姑息な手法を平然と使う厚顔無恥も実感してきた。世の中にはそんな人間もいるんだと呆れ果てた。

私は批判することを目的に論文や論説を読むことも書くこともしないが、最初から批判することが目的であったり、批判するための根拠を探して他の文献を読むことに終始する人間もいる。それは単なる「批判のための批判」でしかなく、そこには発展も深まりも見られない。自分勝手な自己満足でしかない。最初の目的が違えば結果も自ずと異なってくるのは必然である。

学問とは他者を攻撃するための手段ではない。人智を深め、他者や自己を高め豊かにする営みである。「批判」に終始した文章を誰が読みたいと思うだろうか。何かを得ることができると思うだろうか。少なくとも私は読みたいとは思わない。まして「批判」がいつしか常軌を逸した他者を愚弄するような「非難」になっている文章など読んでも楽しくもないし、気分が悪くなるだけだ。ゴシップ記事の類いであれば、その程度のことと思うだけだが、しっかりとした根拠をもって自説を主張する論文や論説を書くのであれば、最初から「批判」を目的にすべきではないと私は思っている。
これが私の立場である。自らの思考を高め拡げ深めるために読み、自説と相容れなければ批判することもあるが、それは例えば弁証法的な発展のためである。値しなければ、読み流すだけである。不要でしかない。
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若き日、大学生の時に訪ねた恩師の友人を思い出す。心臓に疾患をもつ彼は、キリスト教の牧師であった。過去に大手術をして生死の境をさまよった過去が、彼をキリスト教へと進ませたのか、私の記憶は定かではない。恩師に会うことを勧められ、静岡県の片田舎に立つ教会に彼を訪ねた。玄関から続く廊下も書棚が並び、溢れ出た本や書類が床に積み上げられていた。小さな書斎も壁一面が天井までの書架であり、本に埋め尽くされていた。まるで図書館である。
半日を過ごした記憶の中に、奥さんの手料理と髭を蓄えた温和な顔が朧気に残っている。何を話したかも忘れて、断片的な言葉しか思い出せない。

ただ、心臓の持病のためか、そう長くは生きられないと自覚している彼は、信仰の源である『聖書』を読み解くことが目標であると、ギリシャ語・ラテン語で読み、今はヘブライ語で読んでいると語ってくれた。その記憶だけがいつも鮮明に、本に囲まれた書斎の情景と机の上に広げた分厚い本や辞書、手書きのノートとともに蘇ってくる。誰かのためというのでもなく、研究成果を発表するのでもなく、真摯に学問に向かい、学ぶことで人生を豊かにしてくれることを楽しんでいる。<知>を楽しんでいる。そんな印象が心に残っている。

彼の姿を思い浮かべるとき、フランスのレジスタンス詩人ルイ・アラゴンの詠った【教えるとは、希望を語ること 学ぶとは誠実を胸に刻むこと】の一節を思い起こす。
1943年、ストラスブール大学の数百名の教授や学生がナチスに銃殺、逮捕されたことを題材にアラゴンが書いた『ストラスブール大学の歌』の一節である。ストラスブール大学はナチスの戦火を逃れてフランス中部に疎開した後、新たに開学し、困難の中にあっても大学を続けた。この時代にあって、まさに教えることが希望を語ることだったのだ。

本を集めることの目的と読書の意味を教えられたと思っている。読書は、多くの本を買い集めて自慢するためでも、難解な哲学書や宗教書、数カ国語の原書を読めることを自慢するためでも、まして自説に反する他者を非難するためでもない。純粋に本の中の<知>を学ぶことである。そしてよりよい人生を人間として生きるための<糧>を得るためである。歪んだ目的からは歪んだ学びしか得られない。
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積み残した課題である「部落史・部落問題」研究と「ハンセン病問題」研究を再開しようと思う。
まず、「部落史」であるが、ほぼ部落史の全体像は明らかになったのではないかと思っている。1980年頃から2000年にかけて、研究者によって多くの成果が発表され、従来の部落史像は大きく転換した。それは歴史像や歴史認識にまで及び、特に江戸時代の被差別身分とされた穢多やひにんの歴史的実像も明らかにされ、それらは教科書記述に反映されて学校現場での同和教育や人権教育を変えていった。
また、地域史としての部落史の分野でも、地域の独自性と共通性の視点から部落史像全体を考察するための研究成果が各地域で史料の発掘とともに行われてきた。

しかし、同和対策に関する国の特別措置法が切れ、学校現場や社会啓発の場において、同和教育が人権教育とより広範囲な人権問題を総合的に扱うようになったことで、部落史・部落問題への比重が大きく下がり、取り組みやすい人権問題へと意図的に移行していった。このことは部落史研究の衰退へと直結したといっても過言ではないだろう。さらに背景としては、運動団体の分裂と弱体(減退)化や世代交代(運動の推進力世代が老年化するとともに若者の部落問題離れ)の加速、国及び地方自治体の予算措置の大幅減少などが考えられる。金銭を含む物的・人的な大幅削減が要因である。

一方で、研究成果の社会的反映により人々の部落史・部落問題に関する認識は大きく転換したのも事実である。古くからの忌避意識や差別観も、全国的な人流の大きな流れ、世界的なグローバル化の進展などを背景に、若い世代へと交代する中で薄れてきた。その最大の要因は、同和教育の成果であると私は考える。確かに1990年代までは「近世政治起源説」などまちがった部落史認識が学校現場や社会啓発の場で伝えられていたが、それでも堂々と「部落問題」が語られ、「部落差別」の否定を伝えてきた教育や啓発の実践があった。
たとえ歴史認識が希薄な教師であっても、誠実に心から部落差別の悲惨さや苦悩を人間として許すことができない問題であると伝えることで、生徒たちの心には従来の親世代より以前の古き価値観を転換すべきという認識は生まれたはずである。
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部落史にこだわる人間がいる。私も部落史を研究している人間であるので、一面では歴史認識や部落史像の重要性は理解できる。だが、いくら部落史認識が転換したからといって部落問題が解決するとは思っていない。たとえば、「士農工商穢多非人」の歴史観や身分制度の構図が否定されても部落問題は解決に至っていない。部落史認識の転換(教育・啓発)と部落問題解決の実践とは両輪として機能しなければならないと考えている。部落史における認識、正しい部落史像が伝えられたくらいで、部落問題の解決や部落差別が解消するなどあまりにも安易すぎる。本の中、頭の中での構想でしかない。あえて言えば「机上の空論」でしかない。人間は頭の中の「知識」だけで日々の生活や人間関係を営んでいるのではない。理屈だけで解決しない中で、人は人と関わり交わる中で、この社会を築いているのだ。社会的交わりを閉ざして、書斎やパソコンの仮想現実を現実社会と勘違いし、頭の中だけのシミュレーションで部落問題を語っても効力は薄いだろう。

私が「部落史」に求めるのは、<被差別部落への認識の歴史的変遷>である。なぜ、人々は被差別民あるいは賤民を生み出したのか、彼らを歴史的にどのように認識してきたのか、各時代における彼らへの認識の変化である。それは「なぜ、人が人をそのように見てきたのか、見るのか」という課題意識である。

断念することをほんとに知っている者のみがほんとに希望することができる。何物も断念することを欲しない者は真の希望を持つこともできぬ。
形成は断念であるということがゲーテの達した深い形而上学的智慧であった。それは芸術的制作についてのみいわれることではない。それは人生の智慧である。
(三木清『人生論ノート』「希望について」)

多くのことを諦めていくのが人生かもしれない。有限なる時間の中で自己実現を目指して生きる人間にとって夢や希望を持つことは生きる力の源泉となる。だが、その夢や希望を諦めざるを得ないのも人生である。しかし、最後の最後に残ったものこそ自分が本当に希望していたものだと思える人生を目指したいと思う。あれもできず、これもできなかったと、いつまでも後悔する人間は時間と人生を無駄にしていることになる。断念することで、真に希望するものが見えてくると三木は言う。


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藤田孝志
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。