松本良順と弾左衛門(2)
富士三哲を予が家に招き曰く,予親しく弾に遭うて謀るところあらん,もし彼の家に病者のあるとならば,これを口実として彼の家に至り,弾に面して謀らんとす,如何。三哲曰く,幸い目下弾の養父譲,久しく下痢に悩めり。予曰く,然らば,譲の病気久しきに渉らば終に大患となるべしとて,予に診察を乞う願書を作り来たるべし。このこと最も秘密を要す。他の俗論を恐るればなり。この時老中にて立花出雲守は席末なれどもすこぶる事理を解する人にして,ことに予が親しくするところなれば,往きてあらかじめこのことを告げるに,立花氏曰く,このこと極めて可なり,足下十分尽力すべし,もし穢多の家に至ること暴露せば,我必ずこれを弁解せん,意とすることなかれ,と。因って大いに力を得たれば,一日薄暮より小舟に乗じ今戸橋に至り,弾の家人の迎うるに遇うて彼の家に至り,譲を診察し,後これと語るに,譲はすこぶる学識ある者にして,鎗剣馬術等もまた拙からずと聞く。
彼の家に祖先の代より仕うる者六人あり。三河松助と云う者は最も譲の愛するところにして,少しく読書あり,撃剣を千葉周作に学び免許を得,また詩俳諧をよくし,画もまた見るべし。別名を井上香と云う。すこぶる解事漢なり。醜名除去のことに付いてはしばしば予が家に往来したり。これ全く譲の薫陶せし人物なり。
そもそも弾の祖は鎌倉右府妾腹の出にして,当時政子の嫉妬を避けて由比ガ浜の長吏となし,二十八職の長とせし者にて,纔かに左衛門尉に任ず。因って弾左衛門と称す。のち足利氏の時訴訟の事ありてこれに勝ち,幕下定めの通りたるべしとの辞令書あり。徳川家康公関ヶ原の役に従って戦功あり,感状を賜う。三代将軍日光社参の時宇都宮において賜あり。その配下の者をして間諜をなさしめ,諸藩の国情を探偵するを以て名を賜わり,弾直記と云う。この時すでに二十八職の長たることを得ず,改めて非人,乞胸,猿引等三者の長たり。また遊女,芸妓,いわゆる傾城屋等は,二十八職の下にて,人倫外たるべきの命令書もあり,現に彼の家に存せり。傾城屋は亡八とて八行を欠きたる者なれば,人倫外として卑しみたるならん。徳川五代将軍の時始めて弾左衛門を穢多となし卑しめたり。然れどもさきに定めたる法は変ずることを得ず,なおその名を失わず。吉原の如きは,正月元旦に,弾左衛門配下の賤者,大黒舞を演ずるを待ちて,その戸を開くを例とす。俳優市川団十郎,尾上菊五郎,劇場座主守田勘弥の如き,噺家。三味線引・太夫の類,みな芸人として記名捺印する帳簿あり。今に存するなるべし。
一日立花雲州に請うてその家臣の要路に当たる者を伴い弾の家を訪わんとす。これ彼の家伝うるところの古文書を一見せしめんとなり。あたかも良し,近藤勇銃創を負うて治療のため我が家に寓せり。共に日暮より弾の家に至り,古文書を一覧せしめ,その醜名を除去するの話をなしたり。弾曰く,従前より幕府の奸吏等,醜名を除くを名として黄金を奪いしこと数回なりしが,一も成功することなく,みな奇貨として欺かれたるのみなりし,と。予笑って曰く,予は只一片の疑心君が家のために計らんとす,何ぞ黄金を要せん,君決して心を労することなかれ,と。勇もまた側より予が為人を語り,疑惧の念なからしむ。予重ねて曰く,今穢多と云う醜名を免かるは可なれども,然る上は従来所有の田園には必ず租税を課せらるべし。醜名去りて家計衰えなば何とせん。その時に至り予を怨むることなかれ。我もまた君が家のために計る一の方略あり。そはおもむろに語るべしとて,同伴の人と共に帰りたり。爾来譲と交わることますます親しく,後を計ることまた密なり。曰く,従来有名無実なりし非人,乞胸,猿引,傾城屋の管轄をさらに公任の者とし,かつまた東海,東山,北陸諸道の駅妓に,梅毒検査を行うために,人頭税を課し,これを管理し,その税金より実費を去り,余剰の金を手数料として収入することとせば如何,と。謙,意義無くこれに同じければ,願書を作らしめ,これを閣老立花氏に呈せり。然るに諸有司は甚だ冷淡にして,このことを譲せず。放擲するが如く荏苒数月に渉る。立花は老中といえども席末なれば,敢えてこれを極論するの権なく,切歯に堪えざることなりし。
弾家にある古文書とは,正式の家伝である「弾左衛門由緒書」等と思われる。歴代弾左衛門にとっては,東日本の全被差別民衆を支配する権利を証明する証拠書類であり,極めて重要な文書であった。1715年(正徳5年)に江戸町奉行に提出されて以降,江戸時代を通じて弾左衛門は数度にわたって幕府にこの名前の文書を提出し,「弾左衛門が全ての被差別民衆を支配するのは,頼朝公以来清和源氏の家法である」と主張してきたのである。
「弾左衛門由緒書」には,「弾左衛門家の先祖はもともと鎌倉にあって鎌倉幕府成立時から被差別民衆の支配を任された存在だった。鎌倉に住む前は,摂津国池田に居住していた。弾左衛門が被差別民支配を担うようになったのは,鎌倉幕府を起こした源頼朝によってその支配権を公認されたからだ。徳川氏が関東に入国したときも,先祖が『鎌倉以来の由緒』を述べ,家康からその支配権を承認された」と書かれており,その証拠として1725年(享保10年)には「頼朝公証文」も提出された。しかし,「頼朝公証文」は明らかに「歴史的偽文書」で,書式などから江戸中期以降に作られた全くの偽物であることがはっきりしている。幕府は,それを承知しながら弾左衛門の主張を根拠あるものとして認め,その支配権を公認し続けたのである。
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次に,「弾左衛門由緒書」の全文を掲載しておく。
『弾左衛門由緒書』享保十年(1725年)
一,私元祖,摂津国より相州鎌倉江罷下り相勤候処,長吏以下の者依為強勢私先祖に支配被為仰付,頼朝公御証文鎌倉八幡に奉納候,此書物の儀に付別当の書付等も御座候,依之伺先例,於今に鎌倉八幡宮御祭礼御神楽先立の供奉長吏烏帽子素袍並麻上下着し相勤申候
一,寅御入国の御時,先祖武蔵国府中より罷出て,鎌倉より段々相勤候由緒申上候得共,御役等長吏以下支配被為仰付候,其節小田原長吏太郎左衛門小田原氏等の御証文を以長吏以下支配の儀奉願候得共,無御取上,其御証文被召上,私先祖へ被下置,其後元禄五年申年上州下仁田村馬左衛門長吏の論に付,甲斐の信玄公御証文を以論仕候故,其証文御評定所にて被召上私に被下候事
一,寅御入国の御時,御馬足痛踏摺皮被仰付,御馬の御祈祷猿引御尋の上,私先祖支配の猿引召連罷出候得は,病馬快気仕候,依之為御褒美鳥目頂戴仕候,為其引例毎年正月十一日御城御台所にて鳥目頂戴仕候,中古より西丸下従御厩御判頂戴仕候,御納戸方より鳥目頂戴仕候,中古より西之御丸下僕御厩御判頂戴仕,御納戸方より御鳥目頂戴仕候
一,御入国の御時格式にて只今迄,年始の御礼元日御老中様江罷出,夫より段々御役所様江相勤申侯
一,従先前手下の女御関所通り候節,一は私一判にて御留守居様江申上御判頂戴仕通申侯て罷通り申候事,私所持仕候印判は,濃州青野原御合戦の御時私元祖江首御預の節,集方と申文字印判為割封被下候,此印判只今に用申侯
一,九十年程以前,灯心挽候者御城江上燈心細工仕,御扶持方頂戴仕候一,燈心商の儀,御仕置者御役仕候由緒にて,瀬戸物町小田原町両辻にて,役々の者六十五人の内,毎日罷出,無地代にて商仕来候,浅草観音市場商仕候,却て灯心細工并商の儀,従古来私一名の家業にて御座候事
一,御役目相勤候儀,御配江御用次第御絆綱差上申候,其外御陣太鼓并時々御太鼓御陣御用の皮類,御用次第差上申候事
一,御仕置物,御島者,晒もの,磔,火罪,獄門,鋸挽,文字雕,耳鼻剃,切支丹,鍋銅等御座候,六十五年の前石谷将監様神尾備前守様御奉行の時,武州鴻巣村磔三人被遣候に付,御評定にて被仰付,御奉行の下置検使共私先祖被為仰付候に付,御伝馬申請,長道具為持相勤申候,此外在々支配の内,一代壱度も相廻り改候節も長道具為持申候事
一,堀式部少輔様町奉行の節,私先祖内記と申名被下,只今内証名に用申候事
一,午未飢饉の節,岩附町の御欠所雑物被下置,火事の節御金御米頂戴仕候,丸橋忠弥品川にて磔に被行候場所場所にて石谷将監様より金子頂戴仕候,甲斐庄飛騨守様より溜順礼雑物頂戴仕候,盗賊御改赤井五郎作様より銀子頂戴仕候,丹羽遠江守様より御尋もの被為仰付候間,召捕差上候得は為御褒美金子五両被下候事
一,当五月中,大納言様御仕官為御祝儀御米五百俵浅草御蔵前にて被下置,則手下共江割渡し配分仕候事
一,御入国の御時,島田儀助江御鑓壱本御預け被遊候,一本にては手支申候間,神尾備前守様御奉行の節御願申上候得は,御番所朱鑓の内壱本被下候事
一,私支配在々長吏,無年貢の田地或は居屋敷計無年貢にて,田地御年貢差上候者数多御座候,御水帖直に頂戴仕,其村の長吏御年貢収納仕候者も御座候
享保十年巳九月
浅草 弾左衛門
『頼朝公御証文写』
鎌倉藤沢長吏弾左衛門頼兼写シ
一,長吏 座頭 舞々 猿楽 陰陽師 壁塗 土鍋師 鋳物師 辻目暗 非人 猿曳 弦差 石切 土器師 放下師 笠縫 渡守 山守 青屋 坪立 筆結 墨師 関守 獅子舞 蓑作り 傀儡師 傾城屋 鉢叩 鐘打
右の外は数多付有之,是皆長吏は其上たるへし,此内盗賊の輩は長吏として可行之,湯屋風呂屋るい,傾城屋の下たるべし,人形舞は廿八番の外たるべし
治承四年庚子九月
松本が「由緒書」を本物と思ったかどうかはわからないが,弾左衛門及び養父譲,さらに仕える家臣と交わる中で,彼らの教養(学識)の高さや武道の腕前,書画などの素養などに驚嘆していることから,「由緒書」の真偽よりも,彼らに対して世間が思っているような人物でないことを実感したからこそ,醜名除去を必然と思うに至ったのではないかと考える。
家臣の三河松助は,剣術を千葉周作より習い免許皆伝まで到達しているとは,長年の修行も当然だが素質も並外れていたと思われる。剣術だけでなく詩俳諧・書画まで堪能ということは,弾左衛門や頭など富裕な上層部だけかもしれないが,それぞれの師匠について学んでいるということであり,日常の交流が行われていたとみるべきであろう。
松本は,弾左衛門の配下を,非人・乞胸・猿引の三者と書いている。それぞれについて,『近世の民衆と芸能』(京都部落史研究所)・『東京の被差別部落』を参考に簡単にまとめておく。
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非人
非人とは仏語からでた言葉で,魑魅魍魎などの人間でないものを意味したが,古代日本社会で「人であって人でない者」を指す言葉に変わっていった。つまり,囚人や癩者,乞食などが非人と呼ばれるようになった。
これらの非人たちは,朝廷により貧民の救済施設としてつくられた悲田院,およびその他の寺社の境内や野末に集まったが,人に物を乞う仕事にくわえて,祇園社の犬神人のように,さまざまな穢れを取り除く仕事などに従事するようになり,その仕事の権益を軸にいくつかの集団にわかれていった。これらの賤民集団は,大きく分けると,宿・清目・声聞師・鉢叩・隠亡の各集団にわけることができるが,人間ではない存在とみなされ,異種なる存在と考えられるようになっていった。
新たに非人になった者とすでに賤民集団を形成したものとの区別が意識されるようになり,異種である生まれつき人間でない存在に対して,非人という言葉は素人が零落したものという意味合いを強くもつようになっていった。
非人の役負担は,地域によって異なるが,犯人の探索や逮捕などの警察役,刑罰の際の下役,囚人の護送,昼夜の牢屋敷番,行き倒れ非人の取り片付けなどを勤めた。
生業としては,非人小屋頭の差配による乞食,春駒や祝福芸など各種の門付芸があった。さらには,紙屑やボロ集め,鳥を捕まえたり,流木を引き揚げたりした。
元禄期ころより村や町の番人の仕事をするようになる。小屋頭がその配下の非人を番人として町や村に紹介し,その身元を引き請けるとともに年々町より銭をもらった。さらに,町々の掃除も非人が引き請けるようになった。
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非人番
江戸時代の江戸・大阪・京都などの大都市には,町と町の境目の辻々に木戸が設けられ,夜の四ツ時(午後10時)を過ぎると閉められ,それ以後は潜り戸をとおって通行しなければならなかった。木戸の横には木戸番があり,その番人が潜り戸の開け閉めをして,拍子木を打ち,人の通行を知らせた。江戸には,木戸が990カ所あり,大名や旗本が担当した辻番所890カ所と合わせて,夜になると1800カ所もの木戸によって仕切られた。この木戸番が江戸の治安維持に大きな役割を果たしていた。
木戸のおこりは,戦国時代の京都で町衆が自営のために設けた釘貫門にあるが,治安維持のために残され,町人自身による番ということで「自身番」がおかれていた。京都では用人,江戸では書役とよばれた人々が町に雇われて番人となり,幕府からの触を伝達したり町費を集めたり掃除をしたりと,町の雑用にたずさわった。
近世となり,大きな町では用人とは別に番人を雇うようになり,中小の町でも雇うようになった。この番人には素人のものがつく場合もあったが,非人が町に雇われるようになっていった。享保十五(1730)年ごろには,京都では番人は非人の仕事と認識されていたが,京都とその周辺では,元禄頃より番人として非人を雇い入れるようになったと推定される。
非人とは物乞いをして生活する人をさす言葉だが,江戸時代には二種類の非人がいた。一つは「抱非人」とよばれた幕府なり藩なりが認めた非人頭のもとに統率されていた人々で,頭に稼ぎの一部を上納するかわりに,その乞食をする稼ぎ場を保障してもらっていた。もう一つは「野非人」とよばれた人々で,生活に困った百姓などが物乞いに出たものであった。野非人は稼ぎ場に余裕があれば新たに抱非人として抱えられるものの,飢饉などで野非人が急増した時などは抱非人によって追い払われることとなった。
非人の居住地は京都では非人小屋とよばれ,そこには小屋頭がいて手下の非人を支配した。農村部では,小頭の住む比較的大きな非人の居住地があり,数十人の手下の非人が住んでいた。
非人番の仕事は夜番が中心であったが,その他にも町内の路の掃除をしたり,夏には水打ちをしたりとさまざまな雑用にたずさわった。農村の番人の場合には,村々をまわる勧進や乞食などを追い出し,盗賊などから村をまもる仕事が中心であった。他には,火事の見回り,犬などの死骸の片付け,行き倒れの処置などの仕事にたずさわった。
町や村に雇われ町内の雑用に従事して礼銭の支給を受けながら,一方で,奉行所や代官所のもとで捕物の手伝いや探索,警護に従事するなど幕府や藩など権力による警察機構の一部をなしていた。
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乞胸
浅草非人頭・車善七の支配下に置かれた被差別民で,大道芸を業とする被差別民であり,その頭は仁太夫という。乞胸は,法的にはその身分は町人とされながら,大道芸をおこなって金銭を取るときは非人頭車善七の支配を受けるものとされた。非人が門付芸を生業としていたことが,この支配関係に結びついているのではないかと考えられる。このため,乞胸は一般の町人や武士からは蔑視された。
乞胸は江戸中期までは乞胸頭仁太夫の家の周辺など江戸の数カ所に住んでいた。しかし,天保十四(1843)年,天保の改革の時,幕府によって集住を命じられる。その理由は「身分は町民だなどと言っているが,非人と同じような業をしているのだから市中に置くのはよろしくない」(町奉行鳥居忠耀による老中水野忠邦への上申)という差別的なものであった。
明治3(1870)年,「平民も苗字を名乗ってよい」という布告が出されたが,乞胸は布告から除外された。
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猿引
猿引は,「猿廻し」のことで,弾左衛門配下の被差別民である「猿飼」たちが担った芸能であった。『守貞漫稿』には「猿曳(猿引),あるいは猿廻とも言う。江戸では弾左衛門の部下である。(中略)江戸は猿曳がはなはだ多く毎日十数人来ては(芸をして)銭をこう。京阪では,はなはだまれである」と記述されている。
江戸の猿飼は長吏頭弾左衛門の支配を受け,長吏たちと一緒に弾左衛門屋敷の近くに住んでいました。弾左衛門の由緒を記した文書である『弾左衛門由緒書』に,猿飼と弾左衛門の関係について,おもしろい由緒が記されている。
(徳川氏の関東)ご入国の時(1590〈天正18〉年),(家康公の)お馬の足が痛んでいました。『祈祷のため猿引を』とお尋があったので,私の先祖が支配下の猿引を連れてまいりましたところ,馬の病気が治りました。それでご褒美のお金を頂戴しましたが,これを先例として毎年正月十一日に江戸城の御台所にてお金を頂戴しています。西丸下の御厩でも御判ものを頂戴しています。また御納戸方からもお金を頂戴しています
猿飼の芸は,もともとは馬の健康と,馬の飼い主である武士の武運長久を祈る祈祷であったが,それが江戸時代中期以降は町人たちの楽しみの一つである「芸能」ともなったわけである。江戸の猿飼たちの芸は,歌舞伎にも取り入れられている。
彦根藩の井伊家が専属の猿廻を抱えていたように,江戸時代においては各地の諸大名が城下近くに場所を定めて,猿廻しを集住させていた。江戸では浅草猿屋町に十二軒があった。
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傾城屋
「遊女」のことを「傾城」ともいう。中国からきた言葉で,原義は美人の色香におぼれてしまって城(国)を滅ぼすというものである。近世に入ると,この傾城は遊女とともに多用されるが,京都には中世後期にすでに数か所の傾城屋が集住する遊女町が存在した。
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大黒舞
女太夫の鳥追とともに新春を祝う芸として「大黒舞」がある。これも非人がおこなった門付芸である。
『守貞漫稿』には,「新しい広桟木綿島の綿入れに博多の帯を締め緋縮緬の頭巾をかぶり,三弦を弾いて町内の各戸を唄い歩く。その唱える歌を半切紙に印刷してあってこれを投げ入れる。各戸の町人はこれに銭12文あるいは米1盆を渡す。昔は大黒天に扮しておこなったので,その名残で赤いずきんをかぶるらしい」とある。また,「大黒舞はかつては江戸・京都・大坂の三都ともにあったが,今では大坂だけに残っている。大坂の非人たちが今でも正月にこれを行っている」と書かれている。こうした記述から,少なくとも江戸中期以前には,非人たちの行う門付芸の一つとして「大黒舞」があったこと,そして江戸後期の文政・天保(1817年以降)には江戸や京都では廃れ,大坂だけに残っていたことがわかる。
一方,『嬉遊笑覧』には「正月六日からおおよそ二月初めまでの期間,大黒舞ということで非人たちが吉原(江戸吉原)に来て,いろいろの物真似をする。大黒舞というのは形ばかりで,多くは芝居狂言の真似である。これは近世始まったことだ」という記述があることから,江戸では,古くからの門付としての大黒舞は文政天保期には廃れてしまい,そのかわり「大黒舞」の名前を引く新しい芸が生まれていたようである。
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弾左衛門の言ったことが事実であれば,従前より醜名除去を名目にして幕府の奸吏に金品を騙し取られたことが数回あったという。それほどに「穢多」という名を「醜名」であると,周囲も自らも認識しているのであり,単に「名」だけでなく「穢多」という社会的立場(社会的身分としての位置づけ)・周囲からの賤視のまなざし(認識)からの解放を願っていることがわかる。