「里海」を引き継ぐ者
「里海」という言葉を初めて耳にしたとき,深く共感するとともに懐かしさを感じた。その理由がはっきりしたのは,『里海資本論』に紹介されているエピソードを読んだときだった。
国際会議で「里海」の概念を柳哲雄先生が発表したとき,欧米の研究者から「おまえは,漁師の召使いか!」と罵声を浴びせられたという。
同じ言葉でありながら,まったく逆の意味で使っている一文を,私は40数年前に読んでいた。哲学者の梅原猛が書いた『哲学の復興』である。
梅原は,なぜヨーロッパの科学技術文明が自然を破壊していったかを哲学的に考察し,近代文明の原理となったデカルトの二元論を痛烈に批判する。そして,死の概念を忘却し,自然を「人間の召使い」とした近代文明からの克服を次のように提起する。
今後の人間観は,徹底的に人間と自然との関係をつきつめる必要がある。人間は,その深い意味において自然の子であり,自然は人間の母なのである。近代文明は,その母を召使いとまちがうという大きな誤謬を犯したのである。その自然,天と地を離れて人間の生きてゆく道はない。その意味で,もう一度,人間は,自然との関係を確認する必要がある。そこにおいて,東洋の思想の伝統的経験が,われわれに一つの智恵を暗示する。しかし,人間は自然の子でありながら,決定的に自然に相反する子である。科学技術文明そのものが,すでにその性格の根底に,自然への相反,自然征服の性格をもっている。科学技術文明は,一面,人間の本質に根づいた文明でもある。いったいこの矛盾する性格を,われわれはどう考えたらよいであろう。
今後の人類は,この人間の中の,全き従順と全き反逆との間の,細い道を行かねばならぬであろう。そしてこのことは同時に,内的に,人間の欲望の自己制限を,文化に課することになる。人類は,かつてのように禁欲的文明の中で生きることも,また近代文明のように欲望の無限解放の中に生きることもできないであろう。欲望の理性による全き統制と,欲望の自由との間のきわめて細い正しい道を発見すること,それが文明の課題になることはたしかであろう。
(梅原猛「人間に問われているもの」『哲学の復興』所収)
梅原の提起は,まさしく「里海」の概念であり,自然と人間,生きとし生けるものすべてが「共生」していくことである。
「子や孫に美しく豊かな海を残す」という言葉をよく耳にする。確かに,経済的・物質的豊かさを求めるあまり,人間の都合によって自然を破壊してきた。その反省と後悔が人々に,自然の再生と持続可能な社会の実現を痛感させているのだろう。しかし,残すべきは「自然の美しさや豊かさ」だろうか。
残すべきは,我々がなぜ誤ったか,なぜ自然破壊に進んだのか,自らが為した非と責任において,誤謬を犯した根本的な思想ではないだろうか。科学技術の進歩による経済発展こそが豊かな社会を実現するという人間中心の思想が,自然を犠牲にしてきた。「人間のために自然はある」という思い上がった思想が自然破壊の要因である事実こそを伝えるべきである。
後は,次世代の若者たちが,まったく異なる価値観に立った思想を生み出すだろう。若者は我々以上に,地球規模での自然の異変を敏感に察している。そして時間が少ないことにも気づいている。我々ができることは,彼らが考えるための情報を提供することだ。彼らの感性を育てるための教育と体験である。
古い船には新しい水夫が 乗り込んでゆくだろう
古い船を今動かせるのは 古い水夫じゃないだろう
何故なら古い船も 新しい船のように 新しい海へ出る
古い水夫は知っているのさ 新しい海のこわさを
吉田拓郎『イメージの詩』より