光田健輔論(60) 「三園長証言」の考察(9)
徳永進は「隔離の中の医療」(『ハンセン病』所収)と題した小文で、光田健輔について次のように述べている。
確かに、光田健輔には常人を越えた行動力と揺るぎない信念がある。何よりも、徳永が「ハンセン病者の傍らに居続け、多くの医者たちがハンセン病の臨床を避ける中でその弟子となる人たちを育てた、という点では偉大でもあると思われる」と言うように、私も思う。
だが、それは光田の一面の「事実」であって、他面には別の「事実」もある。徳永はそれを「光も影もが同居する」と言う。他の研究者は「両義性」とも言う。近年の光田健輔に対する論評では、この「光」を強調することで、「影」を「時代的正当性」「時代的制約」を理由に「仕方がなかった」と免罪しようとする。あるいは、治療薬がなかった「不治の病」「恐ろしい感染症」から国民を守るために「絶対隔離」を選んだのであって、ハンセン病患者の「犠牲」はやむを得なかったと光田を擁護する。
徳永には、長島愛生園入所者に「聞き書き」をした『隔離』という著書がある。友人に紹介されて一夜で読み終えた感慨は今も脳裏に残っている。
すべての人にその人だけの人生がある。ハンセン病患者としての「終生強制隔離」という「共通項」はあっても、一人ひとりの人生はあった。徳永は「四十人のらいを病んだ故郷の人たち」に真摯に向き合い、彼らは重い口を開いて、「事実」を伝えた。
光田健輔の罪過はこれだけではないし、歳を重ねるごとに、権威者として周囲に承認されていくごとに、彼の自負心は強くなっていき、それゆえに頑迷と独善に陥っていった。まさしく「裸の王様」となっていった。悲しいことに、彼は死ぬまで、そのことに気づきはしなかった。
「三園長証言」の最後の1人、宮崎松記であるが、彼の功罪については別項で論じるつもりだが、簡単に略歴を書いておく。
宮崎松記は、熊本県八代市の網元・井上家の三男として1900年に生まれた。14歳で同市の開業医・宮崎家の養子となり、宮崎姓を名乗る。17歳で第五高等学校(熊本市)に入学した。キリスト教布教のために来熊したハンナ・リデルが開院したハンセン病病院・回春院が学校のすぐ裏にあり、ハンセン病患者のため献身的に尽くすハンナの姿を見て、キリスト教徒でもあった宮崎は心を打たれ、ハンセン病医師となることを決意したという。
京都大学医学部を卒業後に大阪赤十字病院に勤めていた1934年、熊本のハンセン病病院、九州療養所(後の国立療養所菊池恵楓園)の所長となり、1958年まで務め、59歳で辞職した。
彼の国会証言について考察してみたい。
有名な、患者を「塵」に喩えた「古畳の話」である。光田の「手錠」の話とともに、患者から猛反発を受けた証言である。患者を「塵」と表現することも問題であるが、それ以上に宮崎の患者収容への執念に、光田と同じ狂気を感じる。
宮崎の「古畳」発言は、以前からの彼の持論であった。1947年5月、宮崎松記は「癩の調査収容に関する意見」を厚生省に提出している。その中で「我国の癩浸透の現状は恰も古畳のようなものでたたけばたたく程埃が出るのが当然であり」と述べている。ちなみに、この中で「無記名申告制の採用」として、国民に「密告」を奨励している。まるで、戦前の治安維持法下における特高警察の強制連行を想起する。
続けて、「一人でも隔離すればそれだけ癩伝染の縮少を来し感染危険率は低下し患者の発生は減少する。癩根絶の最良策は隔離収容施設の拡張にある」と述べ、または「結核を以て亡国病とするならば、我等は癩を以て国恥病と呼ぶ」(1936年6月26日付『九州新聞』)と述べるなど、ハンセン病患者が多いことを文明国の恥とする考えを強調して、「無癩県運動」の推進を強く提言していく。
もしそうであれば、光田と同じく自己欺瞞である。あるいは、ハンセン病の感染拡大から社会を守るためという<社会防衛論>の立場から「強制隔離」を実施する自らを正当化している。さらに、<社会防衛論>は、同時にハンセン病患者を救済することにもなるという言い訳による自己弁護を図っている。
ここでもう一度、ハンセン病を主導した医師たちの「光」と「影」を考えてみたい。
2007年にテレビ熊本が放送した「ハンセン病、迷宮の百年-医師たちの光と影」に対する藤野豊の論評がある。
残念ながら、私はこの放送を見ていない。そのため、内容は藤野の批判的な論考でしか知ることはできないが、それでもおおよその判断はできる。なお、番組の内容やディレクターのコメントなどは、フジテレビのHPに掲載されている。
上記の引用文だけでも、制作意図の偏向がわかる。「日本のシュバイツァーとまで言われた宮崎松記医師」とあるが、それはインドでの活動を現地の人間が評してのことであって、菊池恵楓園の園長として行った隔離政策を評してではない。あえて宮崎松記の「光」を強調していることがわかる。
実際、長島愛生園を訪問して40年近く、何人もの入所者との交流の中で光田健輔について両極端の思いを私自身が聞いてきた。「救われた」と涙を流して感謝する姿も多く目にしてきた。彼らが本心からそう思っていることは感じられた。その一方で、哀しみと苦しみの日々、頑迷な光田によって一時帰省も許されず親や妻の死に目にも会えなかった悔しさ、失われた人生を嘆く姿、光田の偏見や差別を思い知らされたと訴える姿も目にした。
だが、私の目的は光田の人格や人間性を分析・考察することではない。光田や宮崎が行ってきた「事実」を明らかにすることである。彼らによるハンセン病政策の「事実」が生み出した「結果」と「影響」を解明することを通して、何がまちがいであったか、将来に向けた「教訓」を明らかにすることである。
1940年7月9日から11日にかけて、本妙寺集落のハンセン病患者157名が強制収容され、全国の療養所に分散収容された「本妙寺事件」を主導したのも、宮崎松記と山田俊介警察部長、そして九州MTLであった。
私が特に問題視するのは、本妙寺集落の自治的組織である「相愛更生会」のメンバーが群馬県草津の栗生楽泉園に送られ、さらに17名が「特別病室(重監房)」に入れられていることである。
「特別病室」とは名ばかりの「重監房」がどのようなものかを、宮崎は知らないはずはない。真冬には零下20度近くになる、薄っぺらい煎餅蒲団上下一枚ずつしか与えられず、日に2回の粗末な食事しかもらえない苛酷な監房に、数十日から数百日も閉じこめられる。懲戒検束権を有する所長たちは、「重監房」を脅しに使い、意に染まない患者を「不良分子」との名目で送っている。光田健輔も送っている。宮崎松記の心は痛まなかったのだろうか。事実、彼が送った患者の数人は「獄死」している。
宮崎の三男の逸話も「事実」かもしれない。恵楓園入所者の感じた宮崎の思いも「事実」かもしれない。だが、そこまで本妙寺の患者を心配する人間が、「特別病室」に送れば獄死することは気にしなかったのか。「のたれ死に」と「獄死」「凍死」はどちらが本妙寺の患者にとってよかったのだと思うのか。
九州MTLのメンバーであり、本妙寺集落に頻繁に通い、親密な関係となった潮谷総一郎は、熊本市方面委員の十時英三郞が作成した本妙寺集落のハンセン病患者宅を示す地図に手を加えて、より正確なものを作成した。それが強制収容に利用されたのである。不本意に思ったかどうかはわからないが、潮谷は、その後、各療養所に収容されている本妙寺集落の患者たちを慰問して歩いている。宮崎はどうであっただろうか。
宮崎の詭弁を鵜呑みにした表面的なドキュメンタリー番組としか思えない。まず、「患者たちを社会復帰させれば差別にあう」とは、彼らの自己弁護の常套句だが、だれが国民に「偏見と差別」を植え付けたのか。「怖ろしい伝染病」という喧伝によって、仰々しい「消毒」のパフォーマンスによって近隣の住民そして伝え聞いた国民がハンセン病患者をどう思っただろうか。「ハンセン病に対する社会の偏見が強い現状」を生み出して助長したのは、光田や宮崎ではなかったのか。
光田は胸像除幕式の挨拶で「自分の胸像を作ってくれたことよりも、ここに参列している人たちが消毒ということに関心をもってくれた方がもっとうれしい。特に宗教家が患者の頭を平気でなでたりすることは困ったものだ」と述べたという(十時惟雄「思い出」)。
「消毒」について、光田や宮崎は医者として当然のこととしか考えないだろう。患者や家族の思いなど気にもしないだろう。実際に「消毒」や「強制連行」を行った保健所などの職員や警察官は、自分が偏見や差別を拡散しているなど思いもしないだろう。
我々が最も注意を払うべきは、戦争も侵略も、人権侵害も差別事象も、「光」を強調することで「影」を隠蔽する巧妙なレトリックに欺されて、その「事実」の本質を見失ってしまうことである。「時代性を帯びたヒューマニズム」「時代的正当性」「当時は仕方がなかった」等々の見方や考え方が「罪過」を繰り返すことになってしまうのだ。
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。