岡山の部落関係史:岡山藩2
人見彰彦氏の『岡山・津山藩における部落問題関係略年表』に、備前と美作における封建支配者の差別支配政策の特徴を略記した「備前の支配政策」がある。検討すべき部分もあるが、概略を把握するのに有効と考え、転載させていただく。
◯宇喜多直家・秀家
又兵衛の「頭」支配が体制化されていくが、全般的には賤民制は未整備
◯池田光政(1632~1672)
「かわた」呼称を固定化し、本村に従属する枝村とし、以後この形態が踏襲される
「おんぼう」次郎九郎による乞食(非人)支配が体制化される
◯池田綱政(1672~1714)
「えた」呼称を固定化させ、警察・刑吏役を負担させ、郡奉行支配下に置く。
「目明し」の登用、部落の役人村化・博労の禁止・賤視の強調策が進められる
「非人」呼称、両山の居所が固定化され、町奉行支配下のもとに町人支配のための警察・刑吏役を負担させられ、「えた」との役割分担も明確化される
◯池田継政~治政(1714~1794)
打牛・博労等の禁止、賤視政策が強化されるとともに、「目明」役の増加がなされていく
村の「非人番」が何人か入帳(百姓化)されていく
◯池田斉政~茂政(1794~1867)
集合等の禁止、渋染衣類の強制など賤視政策が強化。それに抵抗する運動が展開される
「内信一件」で大弾圧を加える。倹約令で賤視を強化させようとする
多数の入帳を許可する
◯1673(延宝 1)
次郎九郎が延宝年間(~1681)に「町方盗賊見廻り役」と「両山の者共諸事差配」を仰せつかった(市政提要)
両山とは,古(本)山(上道郡網浜村郷内之山)と新山(同村内之奥内谷辺)をいう。
この史料から,東山峠の登り口(三友寺・現在の博愛会病院)にあった「乞食部落」(非人部落)が,玉井宮の地に東照宮が勧請されると,そこから見下せることになり,それは余りに見苦しいので奥市の谷池(狼谷)に追い込まれ,そこから更に山に追い上げられて湊の山上に移らされたことが推察できる。
岡山藩の「非人」が「山の者」と呼ばれる理由である。その非人部落ができたのは寛文4(1664)年頃であった。この非人村には,百姓または町人で借金により破産した者,家賃を滞納して家主より訴えられた者,駆け落ちして出奔したがつかまって連れ戻された者,その他軽微な犯罪を犯した者が,村や町の人馬帳(人別帳)より外されて「帳外者」とされ,ここに収容されたのである。収容されることを「山登りを命じられる」と言う。
この乞食部落(非人部落)に収容されたもの(「山の者」)を「両山の者」ともいうのは,この地が「古山乞食村」と「新山乞食村」の二つに分かれていたからである。
奥市の谷池(狼谷)に追い込まれたのち,さらに追い出されたとき,一方は網浜村の郷内にある山に移転し,これを「古山乞食村」という。もう一方は門田村の枝村である徳吉村の塔の山(現在の県立岡山朝日高等学校南の丘陵地に塔があったので「塔の山」という)に一度移転し,更に古山乞食の居た網浜の郷内のさらに奥ある内谷に引っ越したので「新山乞食村」といった。この「古山乞食村」と「新山乞食村」をあわせて「両山の者」,あるいは「山の者」と呼んだのである。
この「山の者」の支配責任者は,最初は町奉行であったが,寛文5(1665)年よりは寺社奉行より分かれて新設されたキリシタン奉行に任せられたらしい。その輩下として直接に「山の者」を取り締まっていたのは,城下の常盤町に住んでいた「次郎九郎」という者であった。
岡山藩の非人は、山の乞食を中核として、1654(承応3)年、旭川大洪水により発生した飢人の一部が乞食(非人)に組み込まれ古山乞食となり、さらに1673(延宝1)年に飢饉・大洪水があり飢人が発生し、その一部が新山乞食となったともいわれている。
以下、「非人」に関するできごとを略年表にしておく。
◯1675(延宝 3)
「奥市谷乞食居所」を門田村の内におく(撮要録)
◯1686(貞享 3)
山の乞食は暮六つより山を出ることを禁止(市政提要)
『市政提要』は寛文期から万延期までの岡山城下町の町人統制法令・町人の願書・諸記録を集録した史料である。山の乞食(非人)の夜間下山禁止、他国乞食の町内臥起禁止と非人に対する取り締まりが命じられている。
◯1703(元禄16)
岡山尾上町借家欠落人七兵衛の子供3人を山へ上げ非人とする(市政提要)
御野郡南方村の迷子を東の山に上げ非人とする(法例集拾遺)
◯1707(宝永 4)
嵐山角右衛門へ遣す米は郡割。非人留給は村割(法例集)
◯1723(享保 8)
心中者が両方存命の時は、3日さらしののち、非人手下にする(法例集)
◯1724(享保 9)
岡山城下町の野臥乞食追払いを山の乞食(非人)が行う(市政提要)
◯1731(享保16)
乞食(非人)のうち役目の死骸取扱いをしない2名を「御国法に背く」と追放(市政提要)
御野郡下伊福村枝国守穢多清五郎が荒皮蠟の類を売買、大坂との取り引きで為替を要求し許可される(法例集拾遺)
◯1742(寛保 2)
野乞食(野非人)を町内へおかぬよう命令(市政提要)
◯1756(宝暦 6)
穢多非人などに「平人」より身分高ぶる者がある、以後相慎み礼儀正しくせよと命令(市政提要)
◯1778(安永 7)
穢多・非人へ、風俗が悪く百姓町人へ法外の働きをすることなどを理由に取締令(法例集)
柳原での処刑のとき見物人が多いので見物禁止(法例集)
◯1792(寛政 4)
両山乞食(非人)頭次郎九郎、追い込み処分(市政提要)
両山乞食(非人)が頭次郎九郎を相手取り訴訟。次郎九郎が敗訴(撮要録)
◯1802(享和 2)
岡山城下常盤町の次郎九郎が古山・新山乞食(非人)欠落の山への復帰を嘆願し許可される(市政提要)
同人、御野郡大供村など6ヶ所の火葬場を町方が使い、生活に困ると嘆願。6か村火葬場使用中止(市政提要)
◯1807(文化 4)
赤坂郡西中村非人番栄蔵(42年間村々非人番)を百姓並みに取り立てるよう村方一同が願い出る。入帳(法例集拾遺)
◯1814(文化11)
次郎九郎が東山非人の内に日蓮宗不受不施派内信坊主をおいていた件につき郡会所判決。次郎九郎と山の者長屋入(市政提要)
この事件について,『池田家履歴略記』には,次のように記されている。
また,『市政提要』では,次のように記されている。
この事件で,次郎九郎はその監督責任を問われ,その役職を免ぜられ他国追放となったので非人総領の役も欠員となった。その際,次郎九郎の家に厄介になっていた玉島出身の隠亡仁平という者が代役を命じられたが,その後仁平は郷里の玉島村に居た甥の利吉を次郎九郎の跡目相続に願い出て許され,以後はこの者の子孫が次郎九郎の名で非人の総領となった。
すなわち,正保年中から文化十一年までの約165年間ほど続いた前代の次郎九郎の系統と,文化十一年から明治四年までの約六十年間続いた後代の次郎九郎に二分されながらも,岡山の非人支配はこの次郎九郎によって差配されてきたのである。
明治となり近代警察制度が発足した際,次郎九郎は,両山の非人を率いて町の盗賊見廻り方を行っていた前歴を買われて,県警察官に採用され,姓も能勢と給わって能勢次郎九郎と名乗り,穢多目明しであった岡勝右衛門とともに新町の鬼刑事となったと伝えられている。
◯1817(文化14)
両山非人へ風俗取締令(市政提要)
◯1833(天保 4)
両山非人へ取締令(市政提要)
両山非人に対する衣服等の統制令である。以後、穢多に対しても衣服統制令が強化され、「渋染一揆」が起こることになる。
この史料(以後も同様であるが)において重要な点は「身分不相応」であり「心得不埒」である。つまり、衣服によって「身分」の差別化を意図しているであり、身分の応じた身だしなみがこの時代の守るべき「心得」であった。それぞれの「身分」に相応して生きることが身分制社会を維持する根本原理であった。
「絹類」は贅沢という面だけでなく「衣類花美」という面でも禁止されることで、許される武士身分の特権性(支配階級)が強調され、差別化が顕著となるのである。
◯1842(天保13)
古山新山頭非人が両山非人源吉ら12人の平井村など3村への入帳を嘆願(市政提要)
◯1843(天保14)
山の者(非人)へ衣類・居小屋など取締令(市政提要)
◯1850(嘉永 3)
山の者(非人)取り締まり強調(市政提要)
◯1871(明治 4)
政府、穢多非人等の称廃止を布告(太政官布告)
倉敷県、「賤称廃止令」(解放令)を布達(倉敷市史)
岡山県、山の者(非人)につき、従来は町方が支配したが、以後は村々へ送籍すると指示。陰陽師・説教・隠亡などの称も廃止(法例集後編)
「両山の者」(非人部落)の人数は,『備陽記』によれば,竈数百九軒,男百八十四人,女百六十二人,合計三百四十六人 とある。
次郎九郎の役目は,盗賊見廻り方と両山非人の差配であるが,この史料に記されているそれまでに勤めてきた役務をまとめてみると,消火の手伝い,船着き場(川渡し場)の番及び渡し守,巡見通行や城主帰城及び祭礼の際の見張り番,捕縛した盗賊の見張り番,同心の下働き,紛失物の探索,断罪等御用(行刑),牢死人や行き倒れ等の死骸処理,野非人や帳外者の追い払い,市中(城下の武家屋敷地・町中)の昼夜見廻り,など多岐にわたっている。だが,基本的には,市中見廻り及び見張り番,行刑の手伝いと死骸処理である。次郎九郎の差配に従い,同心などの下働きを命じられて勤めている。
これらの役務に対する給付をまとめると,次のようになる。
ところが年々,減少して,町々の町代(町役人)衆より,家之者の分(百三拾目)と合わせて三百五拾目程になった。藩からは,町奉行森川藤七郎の時に,五拾目の加増があり,毎年の暮れに百五拾目を支給されている。また,寛政三年に米拾俵を給付され,翌年よりは毎年米七俵を支給されている。(武家)屋敷方及び町方の見廻りを1日につき昼夜で8人がおこなっているが,それに対して藩より1人につき麦一升を支給されている。他にも,番役20人に対して町中より一ヶ月に米六斗ほど(ただし1人につき1合)を受け取っている。
また,両山の上に「御免地(免税地)」が1反五畝ほどあり,自作していたようである。
「両山の者」の人数(約三百数十人)から考えれば,乞食としての施しがあったにせよ,生活は苦しく貧しかったと思われる。それを補っていたものが,門付け芸などの勧進であった。
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。