「日本のアウシュビッツ」と呼んでも過言ではない、草津の栗生楽泉園の「特別病室」とは名ばかりの「重檻房」の実態は、残酷非情なものであった。
『ふれあい福祉だより』(第21号 特集「なかったことにはさせない」重檻房の罪業)の「グラビア」に書かれた解説である。8ページにわたり「重檻房」の実際の写真や記録写真が掲載され、短い解説が付されている。
本冊子には、資料として<①高田孝『日本のアウシュビッツ』・付『刊行にあたって』谺雄二 ②復刻・瀬木悦夫「特別病室」>が掲載されている。重檻房発掘に関わった宮坂道夫・藤野豊・黒尾和久の4氏の論考も問題点が整理されていて一読に値する。本冊子は「社会福祉法人 ふれあい福祉協会」に問い合わせれば、入手可能である。
重檻房が設置されたのは1938(昭和13)年であり、1947(昭和22)年までの9年間運用された。日中戦争から太平洋戦争の終結、戦後までの戦争動乱を時代背景にもつ。戦時下という非常時は人々はもちろん政府にとっても「ハンセン病療養所」や「ハンセン病患者」に目を向ける余裕などなかった。このことは光田健輔ら療養所園長・施設側にとっては好都合であったともいえる。
ここで、それまでのハンセン病に関する重要事項を年次的にまとめておく。
私は「日本のハンセン病史」(ハンセン病政策の歴史)を3段階で考えている。
①「癩予防ニ関スル件」が公布されるまで
②「癩予防ニ関スル件」および「癩予防法」公布による法的強制力に基づく隔離政策
③ハンセン病特効薬「プロミン」の使用が開始されて以降 の3段階である。
各時期・期間については別項にて考察したい。ここでは、「重檻房」の背景となった②と③に関して若干の考察を行っておきたい。
②の時期は、ハンセン病が「感染症」であることが国際的に承認され、隔離政策が対策として実施されていく。それは諸外国が柔軟な隔離政策をとるのに対して非常に強権的な施策であった。宮坂道夫氏は、その理由(背景)を次のように考察している。
1909(明治42)年、全国を5区に分けて、青森・東京・大阪・香川・熊本に5つの公立ハンセン病療養所が設置された。第一区 全生病院(東京都 後の多磨全生園)、第二区 北部保養院(青森県 後の松丘保養園)、第三区 外島保養院(大阪府 後の邑久光明園)、第四区 大島療養所(香川県 後の大島青松園)、第五区 九州療養所(熊本県 後の菊池恵楓園)である。その後、入所者が増加したため、1930(昭和5)年,内務省管轄で日本初の国立のらい療養所として「国立らい療養所長島愛生園」(岡山県)が設立され、1932年には「栗生楽泉園」(群馬県)、1933年には「宮古療養所」(沖縄県)など全国に13ヶ所の国立のハンセン病療養所が作られた。さらに、韓国に「小鹿島(ソロクト)更生園」、台湾に「台湾楽生院」、満州国に「同康院」を建設した。
国際らい会議では開催される度に「強制隔離」の方針を弱めていく方向に各国が向かうのに対して、日本は逆に強化する政策をとっていく。ハンセン病療養所を拡張し、多くの患者を収容できるようにし、1935年に政府は20年間でハンセン病を根絶する計画を採用した。これを受けて各地方自治体で「無らい県運動」が本格化していく。
「無らい県運動」の結果、各療養所には収容人数をはるかに越える患者が送り込まれ、戦時体制下の中、患者たちは住居・食糧の不足、看護師や施設職員の不足、医療品の不足などに苦しむことになる。当然、隔離された施設に不満を持つ者、職員の対応や管理に反発を募らせる者、脱走・逃走を行う者が増えていく。それらに対処するために造られたのが「監房(監禁所)」であり、さらに「重檻房」であった。
それを可能にしたのが、1916(大正5)年の「癩予防ニ関スル件」の一部改正によって、療養所長に与えられた「懲戒検束権」であった。
これら日本のハンセン病政策を推進してきた人物が、光田健輔である。