「解放令」と民衆意識
明治元年十二月,明治新政府は全国各藩より優秀な人材を集め各藩の意向の統合と今後の政治方針について提案討議する機関を設けた。これが「公議所」である。公議所は後に「集議院」(明治2年7月,公議所廃止の後に置かれた政府内の諮問機関。同6年廃止され,職務は左院にひきつがれた)と改称されたが,この公議所で「賤民」に関する取り扱いが建議された。
理数御改定ノ議(福知山藩 中野斉)
諸道ノ内朱印地穢多地等,旧幕府ヨリ諸役免除ノ故ヲ以テ,路程町数ノ高ニ入ラザル者,往々有之,且土地古来ヨリノ沿襲ニヨリ,五十町一里ト称スルモノナリ,是等ノ類,理数平等ナラズ,人馬労ヲ掠ムルコト少ナカラズ,依テ以来都テ皇国従来ノ里程三十六丁ニ一定仕度奉存候
穢多ヲ平人トシ,蝦夷地ニ写スベキノ議(日出議員 帆足竜吉)
方今蝦夷ノ賊,追々御平蕩ノ上ハ,同所御用開拓ノ儀可然ト奉存候得共,同所ハ人口寡少ニテ,其事モ容易ニ行レ難キ儀ト奉存候。然レトモ当時穢多ト申ス一種ノ者アリ,古奥羽ニ住セシ一種夷人ノ裔ニテ … 穢多モ亦常人ト異ナル事ハ無御座候。且穢多ハ盗賊ヲ監スルノ名アリテ,実ハ盗賊ノ淵叢,且平人ト交ヲサル故,其悪事モ露顕不仕,大ニ政治ノ礙リ相成申候。此度御一新,非常ノ大赦被仰出候ヲ以テ宜シク尽ク召シ厚メ,伊勢大神祠ニ詣り,祓除シテ平人トナシ,之ヲ蝦夷地ニ移シ,金坑材木捕魚ノ利ヲ興シ,耕種蓄牧ノ業開カシメバ,穢多モ亦平人トナルヲ喜ヒ,遷徒ノ労ヲ忘レ可申
穢多非人廃止建議(大江卓造)
方今平民一途戸籍御取調の折柄 異種類の俗有之候ては 自然文明の教化を障碍するは必然の勢にして 之を一途に着せしむること最要の儀と奉存候 第一穢多等の名目を廃せられ之を平民一途の戸籍に編入致候様御仕法被為立度依て見込の廉々建立仕候然るに陋見の所論事情に悸り候廉も可有奉存候得共教化の万一にと奉存 微賤の身を不顧猥に政廷に備候宜く御評論の程奉願候。
辛未正月 民部卿 大木喬任殿 大江卓造 恐々謹白(明治四年)
穢多非人烟亡を平民となすの議(大江卓)
「前略」方今皇神種にして氏族平民となり 蕃種にして華族となるもの少不,穢多非人烟亡といへども亦此の皇神蕃の三種類に出でず 豈に平民に歯するを得ざるの理あらんや 然らば即天地の通義に基き 平民同一の権利を与へ同一の民法に従わしむべき当然たり 然りと雖ども因習の久しき弊習以て俄に変じ易からず 若し之を変ずるも其害亦行はれざる所あり。故に此の弊習を除かんには漸を以てせずんばあるべからず其の法果して如何ぞや 曰,穢多非人烟亡等名目を廃して適宜の名を付し従来の課役を免じ,全権の管轄官を設け,勧業の事を掌らしめ,任意自由の商権を与え,大牧畜等を開き,各自家産の大小に従い,若干の金を出さしめ,これを勧業資金となし,まず東京・大阪の両府に勧業局を建立し,海外の工者を雇入れ,諸工作の業を伝習せしむ。各地方のものといえども,この勧業局に入り伝習するを得せしめ,また多少の勧業資金を出さしめ,漸を以て各地方に勧業局を起こさしむ。然而して年月を歴るに従い,また漸次に二,三の権利を与え,ついに平民一途の域に至らしむべし。以上,惟その略概を論ずるのみ。
明治二年から四年に至るまで「公議所」では「賤民解放」に関する様々な建議・議論がなされた。これらの経緯に関しては,上杉聰氏の『明治維新と賤民廃止令』などに詳しい。
ここで改めて考えたいのは,歴史は連続しているということである。明治維新によって江戸時代は終わりを告げ,新しく明治時代が生まれ始まったが,政治体制・国家体制の大きな変革はあったとしても,人々の社会意識・社会認識(道徳的規範)が急激な変化を為したとは思えない。まして政治や国家体制を変革している一部の人々ではなく,多くの民衆がわずか数年で社会意識・社会認識を変えてしまったとは到底考えられない。
すなわち,明治二年から四年に建議された上記の内容,穢多非人に関する認識が明治になって急に変わったとは思えない。ここに書かれている穢多・非人に関する認識は,江戸時代の一般的な民衆の意識・認識であったと考えるべきであろう。
加藤弘造(弘之)の「非人穢多之儀,其縁由確説分り兼候得共,到底人類ニ相違無之者ヲ,人外ノ御取扱ニ相成候ハ,甚以天理ニ背キ候儀,且ハ方今外国交際ノ時ニ方リテ,右様ノ事其儘ニ被成置候テハ,第一国辱此上モ無之儀ト奉存候,何卒此御一新ニ方リ,右非人穢多ノ称被廃止,庶人ニ御加ヘ相成候様仕度…」という献言からも,江戸時代における穢多非人に対する「取扱」が推察できる。
このことは,解放令が太政官より公布された後,各府県よりの政府への問い合わせ,さらに民衆に対する告諭からも明らかである。
三重県渡会県庁の告諭(明治四年十月)
今般其方共儀別紙之通平民ト同様ニ相成候様被仰出候上ハ,御趣意柄難有相心得,向後格別ニ人たる道を相わきまへ,御制札之通,堅ク相守へき事
一 火之気けがれ等之事ハ追て土地一般御改正もあるへく候得共,先ツ当分之内宇治山田平民之仕来り同様ニ相心得堅く相守候こと,
一 平民同様ニ相成る上は,是迄之かまどを破り,灰など都て新しく清浄ニいたすへき事
このように,各県においても同様の告諭が行われている。「平民ト同様ニ」という文言は,先の四民平等(華族令)に「穢多非人等の賤民」が対象外にあったことを示しているとともに,江戸時代においても「四民」の外に置かれた身分(社会的立場)であったことを意味している。
「解放令」の通達は全国各村にまで申し渡されたが,一般民衆の対応もまた驚きと戸惑い,混乱を引き起こした。次の史料は丹波国氷上郡佐治村の「解放令」延期を求めた歎願書(「外島家文書」)である。同様な「解放令」の中止や延期(猶予)を求めて出された歎願書は全国各地にある。これは何を意味しているのだろうか。
乍恐奉歎願候口上書 丹波国佐治村
一,今般穢多非人之称ヲ御廃ニ相成,自今可為平民同様と御布告之趣,下方一統も及沙汰ニ候処,往昔ヨリ性ヲ分ケ候者共,新ニ同一ニ相成候義ハ,実 ハ血泪ノ至リ,一統承知致兼,深く難渋而巳申立,役人共論旨無之次第ニテ,前願御布告之日延,御猶予ニテ,是候処,往昔ヨリ性ヲ分ケ候者共,新ニ同一ニ相成候義ハ,実ハ血泪ノ至リ,一統承知致兼,深く難渋而巳申立,役人共論旨無之次第テ,前願御布告之日延,御猶予ニテ,是迄通り被扱ニ相成候様,天朝江乍恐歎訴被為成下候様伏而奉歎願候,何卒前書之始末柄,厚御賢察之上,御聞届ケ被為成下候ハハ,一統莫大之御仁恵難有仕合ニ奉存候
「解放令反対一揆」の起こった岡山県北部(美作)にある「勝北郡」では,五十四か村が連印して政府(当時は生野県の管轄であったので,その出張役所である「平福役所」)に歎願している。
乍恐以ニ書付奉歎願候
方今宇内一般之御所置を以,穢多非人之称被廃,職業も自来平民同一之御達に相成,承知奉畏,末々迄不洩触達候。然る処,素穢多之義は往古より貴賤之別正敷,歴然と相立候義は,御上様にも兼て被為知食候通,別火は勿論平民宅え参候砌は土間にて取扱候義,尚又,穢多共においては,数代平民之恵を請,飢渇之難を凌候不少,其他分別之廉々難尽筆紙義も御座候処,今般御一新洗之御布告に相成候ては乍恐小前一同承伏行届兼候体,自他御管轄無差
別,平民一同忘寝食苦心胸焦之色相顕,拋身命を赤心之歎願仕候に付,村役共においても誠に差偬罷在候。尤朝命の重御趣意は飽迄奉仕候得共,積年之旧習迚も変革難行届,万一人気動揺を醸し候様之事件に立至り候ては実々奉恐入候間,御寛典之思召を以,従前之通被為仰付候只管奉歎訴候。右歎上之旨趣被為聞食分,御許容被為成下候はゞ,広大之御仁恩永代忘却不仕,御慈悲一同難有仕合に奉存候。依之乍恐津山御管内より御願書御触書写相添,村々役人連印以書付御歎願奉申上候。以上
明治四年未十月 美作国勝北郡
平村ほか五四ヶ村
百姓代・年寄・庄屋連
この史料には,江戸時代の民衆が穢多・非人などの被差別民に対してもっていた差別意識・賤視観が具体的に記されている。
つまり,穢多・非人と自分たちの間には「往古より貴賤之別」があり,「歴然と相立」している関係であり,それは,「別火」はもちろんのこと,「平民宅え参候砌は土間にて取扱」ことであり,被差別民に対して「数代平民之恵を請」ことで「飢渇之難」を助けてやっていたのだという差別意識であった。
それらを理由・根拠として「解放令」(「穢多非人之称被廃,職業も自来平民同一之御達」)に反対(承知できない)しているのである。しかも,そうした差別観・賤視観は「御上様にも兼て被為知食候通」とあるように,武士のみならず一般においても当然のこととして認識されていたのである。だからこそ,彼らは「平民一同忘寝食苦心胸焦」すほどの衝撃的な思いであったのである。それは,「万一人気動揺を醸し候様之事件に立至」るかもしれないとの表現からもわかる。
この歎願書は,百姓代・年寄・庄屋など村役人が作成したもので,村落支配層である彼らが「解放令」によって村民が動揺し従来の村落秩序が崩れることを懸念したからだと考えられる。それは,「解放令」布達後一ヶ月も経たないうちに54か村の村役人たちが結集したことでもわかる。
このような状況から津山県は「解放令」施行の延期をはかり,「今般穢多非人之称呼御廃止相成候処,従来平民と格別区別相立居候処より,交接之間に不都合之議有之候趣,就ては東京表え相伺候義も有之に付,追て及沙汰候迄は,先従前之振合に準拠」するように布達した。
津山県は鶴田県・真嶋県などとともに同年11月5日に廃されて,北条県となったが,北条県が「解放令」を施行したのは,翌年2月12日であった。この布達では,歎願は「一切採用不相成」と中央政府の強い意志を伝えるとともに,「穢多ノ者共御趣意ニ甘へ,倨傲ノ所業有之候テハ決シテ不相済事」と被差別民に対して諫めている。
また,同4月には「積年之風習一時に改り兼,異論沸騰を生し候義有之哉に相聞へ,無謂事に候,就ては双方互に勘弁を加へ礼譲を尽し,不敬粗暴之挙動有之間敷様」という論告を出して,村々の鎮静に努めている。さらに郡長・里正らへは「尤同し平民といへとも自ら上下尊卑之分別有之儀ニ候得は,各々謙譲を尽し,下モハ上ニ接し,卑ハ尊ニ対し不遜不敬之振舞之様堅相心得」と説諭しているが,これらも平人よりも被差別民に対しての心得であり,実質的な差別温存とも考えられる。
次に,丹波国篠山の史料を紹介しておくが,この史料からも「解放令」を一般民衆がどのように受けとめたか,また旧穢多身分に対してどのような意識をもっていたかを推察できる。
「解放令」を実質的に無効にするべく村内決議によって定められた申し決めであり,旧穢多身分に対する高圧的な拒絶(排斥)である。
丹波国篠山県奥畑村の「村定」
一 穢多男女共,日雇之義者 一切相雇申間敷事
一 牛馬駄賃持之義,一切不為致候事
一 草履わらじ其外雪踏下駄はき物抔一切買取申間敷事
一 郷中俗家へ罷越候とも,多葉粉之火貸竝ニ縁先ニテモ腰掛サセ申間敷事
丹波国篠山県郡中組々年番よりの「歎願書」
穢多之儀ニ付日奉歎願候処,厚御配慮被下難有奉存候,然ル所御布告御趣意ニ相悸候而者奉恐入候ニ付,小前末々迄申聞セ候得共一同承服仕兼,強而申聞候得者争擾を引出し候様奉存候ニ付,乍恐左之箇条厚御憐察之上,御申渡被成下候様奉歎願候。
一 惣社并村社氏子ニ差入候儀得不仕候事。
一 穢多村庄屋組参会并免割ニ不立合候事。
一 戸籍帳面一村立之分者是迄通 但し本村付之皮多者本村戸籍帳之奥ニ一枚白紙ヲ除ケ置可然,尤肩書ニ穢多与相記シ可申可。
一 御役所御白砂江被召出候節,向後莚被下候儀ニ御座候得ハ,穢多村村,莚壱枚間を置,御据被成下奉存事。
一 穢多小前之者共組々村々俗家ヘ罷越,吸付烟草粉者勿論,落縁へ腰ヲ掛候儀御差留ニ被成下度奉存候事。
一 穢多村之郷宿於風深村ニ壱軒御立被下度奉存候事。
右之件々御聞届之上穢多之者へ急度相守リ候様被仰付被下候,組々一同ヨリ奉歎願候其外歎願致シ度儀数々御座得共,御布告モ御座候儀ニ付奉恐入罷在候,何分前個条者小前末々迄承服不仕候ニ付恐歎願候
明治四年未年九月 郡中組々 年番中
篠山県 御役所