個人的なことだが、今年になって数回に分けて家の片付けと、書斎および書庫の「断捨離」をおこなっている。先週から雑誌の整理に入り、随分と処分した。その中に興味深い1冊があった。
1980(昭和55)年、今から43年前の雑誌『現代の眼』(現代評論社)11月号は「反差別闘争の課題-差別のルーツを追え」と題した特集を組み、部落史・部落問題について興味深い記事を掲載している。1980年は、「部落史の見直し」、従来の部落史の再検討が始まった頃である。
特集の巻頭は「賤民史観樹立への序章」と題した、沖浦和光と菅孝行による対談である。聞き慣れない「賤民史観」であるが、あらためて読み直してみると、黒川みどり氏が『被差別部落認識の歴史』の「岩波現代文庫版あとがき」で述べている、次のことと関連が深いのではないだろうか。
つまり、差別を部落差別などの「個別史」として考察するのではなく、包括的・連関的に「全体史」として考察することで、「日本の社会構造や精神構造」を解明することが重要である。そのためには、「民衆の側の差別の論理と意識」を明らかにする必要がある。
この方向性(差別の全体史)からの著作としては、ひろたまさき『差別の視線』『差別からみる日本の歴史』、藤原靖介『部落・差別の歴史』、黒川みどり・藤野豊『差別の日本近現代史』などが挙げられよう。確かに、「個別史」にとらわれると、歴史的背景が偏ってしまう。日本の歴史を通底する根源的な差別構造や差別意識を明確にしなければ、現在及び将来に向けての差別解消に何を課題とすべきかも見えてこないだろう。
対論の中で沖浦は、部落史の(その頃の)通説に対して次のように疑問を投げかける。
沖浦の発言からわかるように、この当時までは「差別・貧困・悲惨」だけの部落史が語られていた。そのような被差別民の生活を強いたのが権力者・支配者であった。だから、責任は国家にある。マルクス主義歴史観からの「近世政治起源説」である。
沖浦は続ける。
さらに、沖浦は「起源」に対しても、次のように疑問を投げかけている。
この沖浦の疑問・批判は今では当り前のことであるが、40年前であるがゆえに、未だに十分に研究が進んでいない現状を実感する。彼のいう賤民史研究あるいは部落史研究が成果を出しているか、疑問である。確かに膨大な研究であり、共同研究でもしなければ時間的にも労力的にもむずかしいだろう。
対談の中に「賤民史観」という言葉は一言も出てこない。編集者が題名として名付けたのだろう。副題に「賤民中心の民衆社会史を描き出し主体としての民衆を解明していくことが要請されている」とある。これが「賤民史観」の意味ではないだろうか。
この対談を通して、2人が提言しているのは、この副題にあるように、賤民史を日本史の中に位置付けて、賤民の果たしてきた生産・文化・芸能などを明らかにすると同時に、差別の歴史的背景と経緯・変遷を明らかにすることによって、民衆を主体とした日本史の全体像が解明されるということである。
この「賤民史観」を左翼主義の差別思想であると批判しているのが福島県の隠退牧師吉田向学氏であるが、私には独断と偏見からの曲解としか思えない。吉田氏は「被差別部落の人が<みじめであわれできのどくな理由なく差別された人々であった>賤民として差別されてきた」という歴史観を「賤民史観」と解釈しているようだが、この対談を読む限り、そのようなことは2人とも語ってはいない。吉田氏もこの雑誌を読み、この対談から「賤民史観」という言葉を知って使い始めたようだが、どこを読めばそのような解釈に至るのか、さっぱり理解できない。
沖浦も菅も(彼らは「賤民史観」という言葉を使っていないが)「賤民」をそのように解釈していないし、述べてもいない。菅の次の発言が明確に否定している。
菅のこの発言が40年前にあったことに驚く。<互いのちがいをちがいとして認め合う>という考えは最近の人権運動のスローガンである。平等論は「同じ」を強調してきたが、本来は「ちがい」こそが平等の基底になければならないと私は思う。これは部落史論においても言えることだろう。自説に同意しない人間を「敵」として攻撃する人間を誰も相手にはしないだろう。
沖浦のこの発言からもわかるように、「賤民」を差別的にとらえてもいなければ、惨めで気の毒な人々であるとも見てはいない。賤民の姿を明確に歴史の中で再認識しようと考えている。
「賤民中心史観でもって、一度日本の歴史を再構成してみる必要があるんじゃないか」という沖浦の発言に対して、菅は次のように述べている。
彼らのこの発言から編集者は「賤民史観」という言葉を題名にしたと考えられる。つまり、「賤民史観」とは「賤民中心史観」であり、賤民を中心として歴史を描く賤民史であり、それは差別の歴史を明らかにすることである。
「賤民史観」は決して否定される歴史観でも歴史認識でもない。