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光田健輔論(86) 当事者の視点(1)
光田健輔が永眠したのは、1964(昭和39)年5月14日である。行年89歳であった。この連載も、今回で86回を数える。最初から光田の享年で終えるつもりであったので、残り3回を「当事者の視点」と題して、元ハンセン病患者(入所者)の評した<光田健輔の思想と言動>について検証してみたい。
私が、この「光田健輔論」を書く目的は、日本のハンセン病対策の先駆者であるとともに、ハンセン病政策の発案者である光田健輔の人生を辿りながら、その時々の時代背景との連関の中で彼の功罪を検証し、ハンセン病問題の核心を明らかにすることであった。
今までの考察は、光田健輔本人の論文や随筆、回想録、さまざまな研究者の著書や光田に関係した人々の記録、検証会議の報告書あるいは国賠訴訟の裁判記録など、可能な限りの資料を基にしたが、それらの多くは当事者、すなわち患者(入所者)以外の論考であった。
被害実態や自治会史、全患協運動史等から当事者の証言や記述を参考にしてきたが、それらは個々の事案についての証言であったり、療養所での出来事についての記述であったりと、やや断片的あるいは主観的な印象が強かった。
しかし、<事実>に関しては当事者の証言ほど信憑性の高いものはない。たとえ、そこに込められた<心情>や<思い>が主観性に偏ったとしても、当事者の視点こそが<被差別の立場に立つ>道であると私は思う。
先日、NHKの番組(知恵泉)で幕末の悪奉行として名高い「鳥居耀蔵」について放送されていた。出演者のトークによって掘り下げられる鳥居の人間像と彼の行った強引な施策の関係性が興味深かった。視聴しながら、鳥居が光田健輔とオーバーラップしていった。
トークからいくつか書き出してみたい。
<自分が正しいと思うことが、すべてではない>
「自分たちの目的こそがすべて」
「組織の正義(論理)こそが、すべて正しい」
「組織の威信を失うと日本にとって損害になる」
「大義のためなら、小さいことはかまわない」
「正義は人によってちがう側面(正義の多元性)がある」
「他人の正義(正しさ)を認める必要がある」
「他人の正義を知るためには想像力が必要」
「自分の視点しか持たないから、ブルドーザーのように邁進する」
「自分の正義によって切られる者の痛みを知る必要がある」
「学者としてのコンプレックスが原動力となった」
鳥居耀蔵のような人間は、大なり小なりの違いはあっても、どこにでも存在する。私も幾人かには出会った経験がある。自分の正しさを盲信し、周囲の声に耳を貸すどころか、強引な自己主張によって批判と否定しかしない。協調性の欠片もない。彼らに共通しているのは、鳥居耀蔵と同じく視野の狭さと正義の多元性を認めない高慢さだ。これは、昨今のネット上の誹謗中傷にも通底している。残念ながら、彼らは決して自らの非を認めない。自らの<正義>を<大義>と信じ込むからだ。彼らに感じるのは、やはり鳥居や光田と共通する自意識過剰と視野の狭さ、他者との共通感覚の欠落である。彼らのほとんどがネット上での発信に止まっていることで、被害も最小限であることに救われる。もちろん、不快な思いをする人間はいるが…。
しかし、鳥居耀蔵や光田健輔のように、権威や権力を有する立場に立っての言動は大きな影響と多大な被害を生むことになる。鳥居によって江戸庶民がどれほど苦しみ、蘭学者がどれほど辛酸を味わい、渡辺崋山や高野長英など有能な人物を失ったことだろう。それでも鳥居は自らの<正義>を信じ、幕府そして国家を守るという<大義>のための小事と思っていた。光田も同じ発想で同じく多くのハンセン病患者の人生を奪った。
出演者のトークの中で特に重要と私が思うのは「想像力が必要」ということである。
部落問題において、当事者から差別の実態を聞くとき、よく耳にしたのが「踏まれた者にしか痛みはわからない」という言葉であった。ある先輩は「この言葉を言われると、何も言えなくなる。心が折れてしまう」と嘆いていた。この言葉は真実かも知れないが、そこで関係性が断ち切られてしまうほどの遮断と拒絶を感じてしまう、とも語っていた。
この言葉に応えるための唯一の方法は何か。「想像力」だと私も思う。相手の「立場」「状況」「痛み」等々を、深く広く、多様に「想像力」を働かし続けることしかない。「わからない」ではなく「わかろうとする」ために限りなく「想像」するしかないのだ。「想像力」の対極にあるのが「独断」である。「想像力」は「知識」や「情報」だけでは不十分である。当事者との繰り返す「対話」の中で「想像力」は培われていく。差別を乗り越えていくためにも、人間関係を深く構築するためにも、自らの人権意識を高めていくためにも、「想像力」は不可欠である。
光田の書いた文章や発言から感じていた「違和感」の正体は、視野の狭さと想像力の欠如だと思う。前回までに指摘した光田の企画力や具体的な計画案は、現地調査と資料分析によって生みだされたものではあるが、あくまで「計算上」のハード面での計画であって、そこで暮らす患者の生活や思い、痛みなどに対する「想像力」はない。光田にとって患者は「生きた人間」ではなく「計画上(計算上)の人間」でしかない。たとえば、光田が「適当な作業」と簡単に言う「患者作業」が実際には病状を悪化させるほどの苛烈な実態であること、感覚を失った手指、足で行う作業がどれほど危険なものであるか、医師でありながらそれさえも想像できなかったのだろうか。まして、定員を増やすほどに患者の衣食住が縮小されていくことを、「同病相憐」とか「半座を分かち一食を割く」と訓話するだけでは、「想像力」に程遠いと言うほかはない。
多摩全生園の入所者である野谷寛三は、「ライ療養所の論理と倫理」と題した論文の中で「光田健輔論」を展開している。野谷の論考をもとに、当事者の視点から光田を検証してみる。
野谷の論文は、1956年2月~5月に多摩全生園の機関誌『多磨』に掲載された。この年は、まだ光田が長島愛生園長であった(翌年8月に退官)。
1950年代前半は変動の時であった。1951年には「三園長証言」があり、1953年には「癩予防法」改正案が国会に提出され、全患協による「改正反対闘争」が展開されたが、同法は成立し、「らい予防法」が施行された。野谷の論文はこの時代背景の中で執筆された。
光田氏にとって療養所の設立は、何よりもまず「国家社会の為に」絶対に必要なのであった。(これが光田氏を、それ以前の宗教的救済者と区別する、決定的な点である)。よって光田氏の精神的背景をなすものは、彼の郷党の先輩、伊藤博文、山県有朋らと同質の「国家主義」であることがわかる。その精神を標語的にいうならば「祖国浄化の精神」または「駆ライ報国の精神」ということができよう。これが光田氏の第一義的立場である。さてその上で光田氏の、もう一つの面が現れる。それは患者に対する「親心」である(親心とヒューマニズムとは一応区別すべきと思う)。光田氏はライ患者の「慈父」として仰がれている。思うに光田氏なくして今日の、ライ療養所の福祉はないであろう。たしかに光田氏はライ患者の「慈父」である。しかし、われわれはあえて思う。光田氏は「ライ患者の慈父」である以上に「祖国浄化の使徒」であった。だがこのことによって光田氏を云々すべきではあるまい。当時は国家至上の絶対制日本である。その時代に「ライ患者の人権」というが如きことは全く一つのナンセンスに過ぎないであろう。またそおような思想をもって、時の政府を動かしライ療養所を設立することは全く不可能であろう。
1956年の段階で、今日において「光田健輔」に関する論考では<定説>となっている「2つの立場」を看破していることに驚くが、これは野谷だけではない。各園の機関誌に掲載された入所者たちの文学作品や評論を読めば、彼らの学識と能力の高さ、鋭い視点には目を見張るものが多くあることに気づくだろう。だからこそ、彼らが結集した全患協が「癩予防法」改正反対闘争において理論的にも政治的にも、政府や厚生省官僚と対等以上に渡り合うことができたのだ。
ともすれば、戦前の各地を徘徊する浮浪患者を連想しがちだが、「無らい県運動」によって強制収容あるいは自ら療養所に入ったハンセン病患者には、有名大学在学中あるいは卒業後にさまざまな職業に就いて活躍していた人たちも多い。
北条民雄の評伝『いのちの火影』を著した光岡良二は東大文学部哲学科在学中に多摩全生園に入り、北条の友人として彼と暮らし最期を看取っている。彼の評伝は北条民雄を語るには必読の書であり、また野谷の論文も所収されている『ハンセン病文学全集』には光岡の文学作品や評論のいくつかも収められているが、その考察と論理、文章力には圧倒される。
…ライの伝染を防ぐために患者を隔離することは多くの場合、やむを得ないことであろう。しかしそのことは患者の人権を無視し、少数者(患者)が多数者(一般)のために人間放棄しなければならぬ、ということでは断じてない。とにかくこの指導理念から生れ出たものは患者隔離(治療ではない)政策であり権力威圧政策であり巧言優遇政策であった。
「祖国浄化」の立場からみる時、患者は国家の邪魔者である。ライという業病をなくすことが問題であって、ライという病気を医すことは第二義的である。従って名は療養所であっても実は患者収容所ないし患者ブチコミ所にすぎなかった。長島愛生園をたてた主な目的は患者を小島にとじこめ、ライを撲めつするためであった。
祖国浄化の大目的のためには患者は人間でなくともよい。否その方が都合がよい。
…だからこれら一部暴徒のための監禁室(むしろ監獄)設置には、ある程度の必然性を認めるのであるが、しかしそれがその後職員に悪用され、不当なる患者弾圧の具となったことを思う時、これに関する光田氏の弁明にもかかわらず、そのことに多くの疑問を禁じ得ない。(光田氏個人の善意は疑わないとしても)
光田の弁明とは、一部の「ライの兇悪犯」による「可憐な、多くの善良な病者がこうむる苦痛や迷惑」をなくすために「楽生園内に堅固な監禁所を作っ」たことであり、それは「手に負えない不良患者」から「善良な幾千の患者のためにとっていた手段」であるというものだ。
野谷が「光田氏個人の善意は疑わない」と但し書きを添えたことをどうとらえるか。これは「光田氏なくして今日の、ライ療養所の福祉はないであろう。たしかに光田氏はライ患者の『慈父』である。」あるいは「だがこのことによって光田氏を云々すべきではあるまい。」と書いていることと呼応している。当事者として、患者にとって療養所の存在が「救済」であったことは事実であり、それは光田への感謝でもあることを認めているからだ。これもまた<当事者の視点>であることは否定できない。
権力威圧政策が暴力的に患者の主体的自由を奪おうとするものであれば、これは巧言優遇を用いて、患者をして自発的に自己の主体性を放棄せしめんとするものである。職員にとってそれは、さして困難なことではなかったであろう。なぜなら住むに家なきライ患者にとり療養所ほどありがたい所はないからだ。療養所は文字通りロハで衣食住を給してくれるではないか。従ってこの衣食住と引換に患者がその人間的誇りを放棄し、自らを祖国浄化のために「豚」と化するとしても誰がそれを責め得ようぞ?
想像してみてほしい。不治の病と自他ともに認めるハンセン病者となり、社会や周囲の人々から露骨な差別と偏見に晒され、家族や親族に自らの存在が「迷惑」「感染源」となるために愛する家族や故郷を捨て、働くこともできず、路傍に片隅で憐れみの施しを受けながら、病勢が悪化してそれが容姿に顕著に表れ、手足の感覚が失われていく恐怖に苛まれながら各地を放浪するしかなかった。そんな時代の患者にとって、たとえ隔離されようとも、雨露を凌げて身体を横たえることができ、少ないながらも食べるに困らない生活を与えられれば、そこには感謝しかないだろう。これもまた<当事者の視点>である。
もし光田氏が単なる国家至上主義の徒にすぎないなら、彼は決してライ患者になど見向きもしないであろう。…光田氏の国家主義の底には温い血潮が通っていた。彼の患者に対する「愛」は政治的ボス的であったかもしれぬ。しかしむしろその故に彼の愛情は彼以前の「宗教的救済者」のそれに比し、より堅固であり、より有益であったともいえる。
野谷は光田の「有する第二の方向」を「患者に対する『親心』であった」という。宮坂道夫は光田の「家父長的家族主義」を<パターナリズム>と批判したが、野谷は「政治的ボス的であったかもしれ」ないが、「むしろその故に彼の愛情は…より堅固であり、より有益であった」という。野谷は、その根拠を次のように述べている。
…ライ療養所当局の二つの傾向を概観してきたのであるが、しかしこの両者を明確に区別することは実際上は困難である。両者は不可分の関係にあった。そしてこのことは次の事態において最も著しいのである。ライ院の堅調な事実は、それが一つの村落形態をなし、多くの患者が結婚生活を営み、また多くの者が作業に従事し、また所内に学校、教会寺院、図書館があり、その他多数の文化団体の存在していることであろう。いかにしてこのような事態が現出したか。おそらくそれは正接側の利益と患者側の利益、施設側の人道主義とこれに応ずる患者側の人間的覚醒、この四者結合、一致に基くものである。
「らい予防法」廃止以後、国賠訴訟で明らかになった患者被害の実態などから、我々はつい国のハンセン病政策の非人道さ、冷酷さに目が向いてしまい、まして絶対隔離政策を提唱し推進してきた中心人物である光田健輔への厳しい批判を行ってきた。私も知れば知るほど、調べれば調べるほど、あまりの理不尽で一方的な対策に憤りを禁じ得なかったばかりに、この「光田健輔論」においても糾弾してきた。安易な光田擁護論や時代的正当性には辟易さえした。
しかし、それは現在から過去を見る視点であって、過去に立って過去を見る視点ではなかった。必ずしも、その時代の当事者の視点から多元的・多角的に分析・考察してはいなかった。
かつて入所者への「聞き取り」で、光田の感謝する患者の声に、光田の欺瞞に騙されているのだと思っていた。国賠訴訟への提訴を見送った患者について金泰九さんに尋ねたことがある。金さんは「長く園で暮らしている人にはいろんな人がいるし、ここに来た事情もさまざまだからね。光田に感謝している者も多くいるし、彼らは恩を裏切れないと思っている。園に入って幸せかどうかわからないけど、今の落ちついた生活を壊したくないと思っているからね」と語ってくれた。
だからといって光田健輔の絶対隔離政策を、私はまちがっていたと断じる。過去への断罪ではなく、未来への警鐘として、私は光田健輔を許すことができない。
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