「部落問題」再考(1):犯人捜し
中世や近世といった歴史の世界にばかりに目を向けていると,現実感覚に乏しくなってしまう。ここ数十年の間に,部落問題は大きく様変わりしてきていることを実感する。部落差別も表面的には露骨さを隠している。差別が見えにくくなっているとも捉えることができるし,差別が解消してきているとも捉えることができる。しかし,実際は表層的にタブー化しているだけで依然として内在し続けている。
「差別はいけないことで,人間は本質的に平等であるけど…やはり現実は…」という二律背反の心理がどこかにある人間が社会(世間)の大勢を占めている感覚を否定できない。
同和教育から人権教育に移行してプラス面として感じているのは,部落問題だけでなく他の人権問題や差別問題にも積極的にアプローチしていくようになり,多面的・多角的な視点が求められるようになり,人々の視野が広がったことと思っている。
たとえば,ハンセン病問題と部落問題に関して個別の問題という捉え方と同時に包括的な問題という捉え方ができるようになったことだ。つまり,独自性と共通性を集合概念から捉えていくことで,最小公倍数と最大公約数の比較から差別の包括的概念が見えてくる。
ハンセン病を「病気」の問題ととらえ,部落問題を「出自」の問題と捉えることから,「排除」「排斥」の問題と捉えることまで,考察と認識に多面的な拡がりが生まれた。
インドのカースト制度が生み出した不可触民に対する差別と,日本の部落差別は「ちがう」ではなく,差別という包括的な概念から考察し,解決していく展望を見いださなければいけない。同様に,宗教上の差別も,人種による差別も,民族による差別も個々の独自性だけを見ていたのでは解決はしない。部落史の限界もここにあるように思う。
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差別の理由(犯人)探しをいくら繰り返しても,差別の根源的な理由が解明されても,具体的な差別の実相(言動・態度・視線など心情が表出された行為)が改められなければ,差別は解消されることはない。要するに,自分が他者に対してどのように接するか,どのような言動を行うかだと思う。
<根拠のないことで差別してはいけない>のなら,<根拠があればいいのか>という発想や思考の問題である。
理由があれば差別行為は正当化されるのかと同じである。根拠や理由の正当性と,言動の正当性は別である。この点を取り違えれば,差別の正当化につながる。また,このことを人間関係に当てはめれば,よくある子供のけんかと同じで,「あいつが先にしたから…」「あいつの方がひどいことをしたから…」と,自分の言動の理由を相手のせいにする。自分が正しいから,悪いのは相手だから,という理由で自分の言動を正当化する。これは詭弁であるが,このことに気がつく人間が少ないように思う。
部落問題に関する「Amazonのbook review」やブログなどの意見を読むたびに,差別意識の根深さと,未だに残存する偏見や先入観,独善的な主張,歪んだ劣等感,何より間違った歴史認識にぶつかり,愕然とする。
間違った部落史からの認識,そこから派生する部落観や差別意識は確かにある。その罪過は大きい。しかし,部落史からの歴史認識・部落観を変革できれば,部落問題が解決するといった発想は短絡的である。「何を学ぶか」が重要である。
ともすれば,部落史を「犯人捜し」と勘違いしてしまう。時の権力者が,徳川家康が,明治国家が…と,犯人を見つけ出して非難することが「目的」となってしまう。
これでは,被差別者にとっては「ルサンチマン」からの復讐劇であり,差別者は他人事で終わってしまい,第三者の批評家があれこれと論じるだけだ。
自己正当化に終始する人間は,他者からの正当な批判,社会の良識に基づく判断さえも不当なもの,理不尽なことと切り捨てて顧みることはない。実は,この社会に「人権尊重」が根付かない一因がそこにあると思う。
自己の正当性ばかり主張する人間は,客観的な自己分析・自己省察ができないのである。そのため,他者の人権に配慮することもできない。