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ハンセン病担当官の苦悩と喜び(3)

昨日、『かけはし』の著者である小川秀幸さん(三重テレビ放送報道制作部)より、高村忠雄さんの証言(『三重県のハンセン病問題、その資料と証言』所収)をコピーして送っていただいた。
前回、前々回と紹介した小川さんの『かけはし』からの孫引きになっていた高村さんの証言、その原本を是非とも読みたく、小川さんや三重県庁の宮本さんに頼んで、お手を煩わせてしまったが、一読して、その誠実で人間味に溢れた人柄が感じられる実直な証言であることがわかった。

何より担当官としての苦悩と悲哀が文面から強く感じられる。職務だから、国家のためだから、病気(感染症)なんだから等々の理由と目的で自己正当化し、患者を人間と見なさず、隔離を当然と思い、入所勧奨(強制収容)してきた関係者の姿を、患者の証言などから知っていた私には、高村さんの心情には救われた思いである。

直接に患者の元に出向くこともせず、机上で報告書や会議だけで判断し、「らい予防法」を楯に冷酷な命令書を機械的に発するだけの官僚には決して思いも及ばぬだろう。


数年前、私の敬愛する友人が最近のハンセン病問題を巡る新たな反動的な動きに危機感を感じて送ってきたメールがある。その一部を転載する。

「この手の輩が増えてきましたね。光田への批判を逆に批判することで自分の研究を証明しようとする。絶対隔離ではなかったとか必要であったとか、それによって救われた患者も多いとか」
若いハンセン病問題に関する研究者にもそのような傾向があることに危機感を抱いています。
そして、古い世代の一部でも、らい予防法時代と同じ価値観がいまだに保たれていることも感じます。
そんな人と出会った、忌々しい経験を紹介します。
4年ほど前ですが、全生園の明日を共に考える会などが主催した学習会で、德田先生に講演してもらいました。
市民センターの大きな会場いっぱいに人々が集まり、德田先生のすばらしいお話を聴くことができた感動的な会となりました。
しかし、講演会の最後に、化石のような光田信者の発言がありました。
德田先生の講演が長くなって質疑の時間がほとんどとれなくなり、司会(後藤さん)が「時間がなくなりましたが、どうしてもというご質問があればひとつだけどうぞ」とアナウンスしました。
この際に発言した年輩の男性の発言を、私の記憶どおりに紹介します。
この発言は、質問ではなく、単なる個人の意見の一方的な陳述でした。
「私はかつて厚生省の職員で、大谷藤郎さんのこともよく知っていて親しくしていたんですよ。全生園の予算もあれこれ苦労して決めていたのです。だからいろんな事情をよく知っているんですよ。今日の話(德田先生の講演)はそれはそれでいいですよ。まあ、認めましょう。でも、今日の話だけでは、正しいことはわからないですよ。皆さんは光田先生の論文を読んでいますか。論文も読まないで、光田先生を批判できないでしょう。論文を読んでから正しく判断してくださいね。まあ、よろしくお願いしますよ」(もっと長いが、だいたいはこんな口調、ニュアンスでまちがいないです)
私はすぐに反論はともかく「質問のみの時間に意見を述べるのはルール違反」と発言したかったのですが、会場を閉める時間がすでに過ぎつつあり、何も言えませんでした。
当人に文句を言おうかと思ったら、自分の発言後にそそくさと帰ってしまいました。
数ヶ月後に市民学会で德田先生にお会いした際に、不規則発言をそのままにしてしまったことをお詫びしました。
何年か前の「小川正子記念館」館長の末利光の発言もこのような立場(光田や小川は人道主義であった、隔離にも意義があった論)の典型ですね。

私も、国賠訴訟から数年経った頃から、特に「アイスター宿泊拒否事件」以後から「巻き返し」が起こってきたように感じている。まるで「振り子」のように反動が返ってきている。

この元厚生省職員のような人間は今も多くいるだろう。
彼は「光田の論文」というが、どれほど正確に光田の論文(私には「論文」とも思えない雑感や所感の類いであるが)を読んだのだろうか、甚だ疑問である。

光田は、一見、患者のことを思っているように“見せかけ”ながら、彼の本質はすべてのハンセン病患者を隔離し絶滅させること(祖国浄化)であった。「涙もろい」などのエピソードばかりを強調した評伝や回想録、弟子たちの思い出を真に受けて、「救癩の父」などと思い込んで光田を正当化してはいけない。
患者を救うことは療養所に隔離することであると、彼は本気で思っていた。そして、そのために彼が画策した数々を厳密に検証すれば、彼の本性がわかるだろう。特に栗生楽泉園につくった「特別病室(重監房)」一つとっても、意に沿わぬ人間に対する彼の冷酷な残虐性が明らかである。いくら「論文」や回想録、意見書に患者や国家を想う「救らい思想」が美談風に描かれていても、光田が行ってきたハンセン病政策(絶対隔離政策)によって多くの人間が悲惨な人生を送った事実は決して消えはしない。

私が最も危惧するのは、この元厚生省職員のような「自己正当化」によって「免罪」を主張する考えである。彼は療養所の施設や環境の改善、生活保護、医療体制の充実、医師や職員の拡充などを厚生省として尽力してきたと言いたいのだろう。それも「税金」を使って。私は官僚や公務員の「税金を使って…」という言葉ほど、高慢さを感じることはない。彼らは身銭を一切使わないにも関わらず、「税金」を自分の裁量で「使ってやっている」のだという意識で対応する。

それは光田健輔と同じ発想でしかないことに気づいていない。彼らの「救らい」とは、かわいそうな患者を「救ってやる」ことである。「~してやる」ということが傲慢さであることを些かも疑問に感じていない。むしろ、働きもせず、税金も納めず、国民の税金で衣食住を保障され、医療も受けることができる。これだけ「してやっている」のに、何を不満があるのか。これが彼らの言い分であり、自己正当化の根拠である。

元厚生省職員の言う「正しいこと」とは何であろうか。光田が突き進んだ「絶対隔離政策」を「正しいこと」と思っているのだろうか。国家や社会、一般人(健常者)を守るために、患者を犠牲にしてもよいとすることが「正しいこと」なのだろうか。

大谷藤郎については、別項にて考察するつもりだが、彼が国賠訴訟で証言した内容を元厚生省職員は知っているのだろうか。大谷は証言の中で「国や私どもが長年にわたって患者さん方を追い込んだ責任というものを私は感じる次第です」と述べている。

…国が一生懸命になって「大谷先生は療養所の処遇をよくするために努力しましたね」という質問を重ねるんですけれども、それに対して大谷先生は「たしかに私は努力をしました。努力をしましたけれど、それは療養所のなかで暮らしやすくなったというだけであって、入所者の皆さん方が自由になったとか、解放されたということは程遠かった」ということを、一つひとつの質問ごとに細かく反論されたわけです。

「…自分としてはよかれと思って進めた政策だったけれど、ほんとうの意味での解放ではなかった。差別や偏見の大もとである『らい予防法』という法律をそのままにして、いくら政策を重ねても根本的な解決にはならなかったというふうに自分は反省している。特に人権――人間の尊厳という問題で自分がやってきたことを振り返った時に、まったくそこでは何の解決もはかられていなかった」

「…ただ私が強調したいのは、法律を廃止しなくとも自分たちの生活が少しでもよくなればそれでいいと考えている人たち――この人たちをそういう考えに追い込んだのは誰なのかということだ。それは私たち国の責任ではないのか。私たち社会の責任ではないのか」

『証人調書①大谷藤郎証言』

大谷は、「らい予防法」を廃止しなければいけないという自身の思いは、厚生省内部でまったく受け入れられなかったとも述べている。「大谷藤郎さんのこともよく知っていて親しくしていた」と言う元厚生省職員は、本当に大谷の思いをわかっていたのだろうか。私には、大谷の名を出して厚生省を批判する德田先生に文句の一つも言いたかった、それだけのような気がする。

はっきりと断言する。このような元厚生省職員がいるから、ハンセン病患者への差別や偏見はなくならないのだ、と。
事実、昨今のハンセン病問題に関する論文には、光田の詭弁を真に受けて、光田健輔の擁護、絶対隔離政策の正当化に終始する論調が目立ってきた。


「らい予防法」に翻弄されたのは、療養所入所者だけではない。大谷藤郎が後悔と反省を述べた証言から遡ること46年間、「らい予防法」が廃止されるまでの約43年間、さらに90年間に及ぶ隔離政策、数え切れない人間が人生を狂わされたことを決して忘れてはならない。

戦争は今も繰り返され、人命が失われ続けている。ナチスによるホロコーストの教訓は生かされることなく、今もロシアによって、ハマスによって、イスラエルによって、捕虜への虐待は繰り返され、中東だけでなくアフリカ、中国でも少数民族への弾圧は行われている。

内実は、ハンセン病政策、絶対隔離政策と同じである。療養所とは名ばかりの実際は「収容所」であった。

次回より、高村忠雄さんの証言について読み解いていきたい。

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藤田孝志
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。