あらためて先達による先行研究から「ハンセン病史」を詳しく検証していくなかで、ハンセン病問題が内包する<差別の本質>と<差別の連鎖>を考えるに至っている。
当然すぎることでありながら、この論理から思考する人間は少ない。日本MTLなど宗教的な「救らい思想」、「優生思想」、国際的な体面、公衆衛生など、ハンセン病に向き合った人達が掲げた<理由>や<目的>には、武田氏が指摘する「論理」が潜んでいる。それらは「絶対隔離」によって社会から絶縁した療養所を患者にとっての「楽土」と信じ込むことで自己正当化を図る論理であった。この論理は当事者に「患者のため」という<免罪符>を与える一方で、社会一般には自分には関わりのないことであるという<忘却>の機能を果たす。
この武田氏の指摘は、何もハンセン病問題だけではなく、他の多くの人権問題や社会問題にもあてはまる人間の思考様式である。武田氏は「忘却とは正直な能力である。自然に振る舞っているうち自覚的になったり、意識的になったりできないことを人は忘れる。忘れてしまったことは、存在しないも同然なのだから、それを非難したところで、『暖簾に腕押し』に近いものとなろう」と述べているが、同じことが繰り返される要因は「忘却」と「無関心」であり、「傲慢」と「頑迷」である。
「本妙寺事件」について検証してみたい。
聖公会の伝道師(宣教師)として来日したハンナ・リデルが、熊本市郊外の立田山麓にハンセン病患者を救済するために「回春病院」を開設したのは1895年である。その直接の原因は、1889年に来日した翌年、熊本で伝道活動を開始した彼女が、本妙寺の参道で物乞いをする多くのハンセン病患者を見て衝撃を受けたことに始まる。1923年からは、姪のエダ・ライトも手伝うようになり、1932年にリデルが死去した後は、彼女が引き継いだ。回春病院は、1941年に、日英関係の悪化による経済的理由などにより閉鎖された。
1905(明治38)年11月、リデルが上京し、病院経営への援助を大隈重信と渋沢栄一に要請したことが、日本におけるハンセン病対策の契機となったのは間違いないだろう。
リデルの訴えは国を動かしたが、その国が頼ったのが光田健輔であることが歴史の悲劇であったと、今更ながらに思う。さまざまな要因とさまざまな思惑が、まるで歯車のように、光田を中心に回り始めた。その後、光田は実際に熊本を訪れ、本妙寺集落に足を運んでいる。このことが「本妙寺事件」と関係していると私は思っている。
リデルが見た衝撃の光景を、藤野豊氏の著書より引用する。
この約30年後、全生病院の職員であった毛涯鴻が「本妙寺集落」について、『癩患者ノ浮浪状態』(1931年)のなかで、次のように紹介している。藤野豊氏の前掲書より引用する。
また、同じ頃に調査に入った癩予防協会の熊本市西部方面委員の十時三郎の報告をもとに癩予防協会がまとめた『本妙寺癩部落解消の詳報資料・四』(1941年)には、次のように記述されている。これも藤野氏の前掲書より引用する。
藤野氏も指摘しているが、毛涯も十時もハンセン病に関わる職員でありながら患者を「不逞ノ徒」とみなしたり、本妙寺集落を「社会的落伍者、前科者、不具者、癩患者等に依って形成された特殊部落」であり、「白昼何等憚るところなく賭博を為し、飲酒しては喧嘩に論する等全く荒み切った人間の集合場所」と認識している。
江戸時代に端を発する都市下層社会や明治期の資本主義が生み出した「スラム」は、全国各地に散在していた。その顕著なものが「被差別部落」であった。藤野氏は本妙寺集落を差別的呼称である「特殊部落」と表記していることについて、次のように述べている。
1934年の十時の報告によれば、本妙寺の総所帯数は149戸、人口は480人であ、そのうちでハンセン病患者の世帯数は35戸、人口は男58人、女54人であった。患者の職業は日雇、物貰、行商、貸家業、托鉢坊主、遍路、大工などと記録されている。
この本妙寺集落が警察によって強制的に解体されたのは、1940(昭和15)年7月9日であった。ハンセン病の専門医として本妙寺集落の解消に関わった宮崎松記について、藤野氏は次のように嘆いている。
熊本県ホームページに「熊本県「無らい県運動」検証委員会報告書」が掲載されている。熊本県における戦前から戦後にかけての「無らい県運動」および「現代におけるハンセン病問題の課題」などについて詳細に検証している。「本妙寺事件」についても、その歴史的背景など詳しく述べているので、参照してもらいたい。
https://www.pref.kumamoto.jp/uploaded/attachment/49738.pdf
私の問題意識は、「本妙寺事件」に関与した十時英三郞や宮崎松記らが本妙寺集落に居住するハンセン病患者に対して、どのような認識を持っていたかを明らかにすることである。それは、当時そのような世論を形成した光田健輔や内務省衛生局の官僚、日本MTL、癩予防協会の思想教化を明らかにすることでもある。なぜなら、「民族浄化」の大義名分のもとで差別や偏見すらが肯定され、人権蹂躙の行為が「正義」として正当化された、その「目的のためには手段を選ばない」思想こそが、<差別の連鎖>として現在も底流を流れ続けているからである。