光田健輔論(81) 栄光の光と影(3)
私は、光田健輔の「影」として、<終生隔離><強制収容><断種・堕胎>を挙げたい。この3つは連関し相補することで、<絶対隔離政策>を形成している。
ここに一つの史実がある。
江戸時代、元禄期、将軍綱吉が出した「生類憐みの令」による全国に野犬が増えた。綱吉が死去して家宣が六代将軍となると世論にもおされて「生類憐みの令」は廃止された。しかし,今度は反対に,全国的に犬に対する弾圧が始まった。
岡山藩においても,増えすぎた野犬に対する「野犬狩り」が行われるようになり,正徳元年(1711)より弘化二年(1845)に至る134年間に,合計25回の厳重な野犬狩りの布告が町奉行より発令されている。平均して5年に1回は出されていることになる。捕まえた犬は日を定めて旭川河岸の花畠にある船積み場に集められ鹿久居島に送られた。
現在の備前市日生町には,陸地部の他に沖合に,鹿久居島・鶴島・頭島・大多府島など日生諸島とよばれる島々が点在している。鹿久居島は,その名の通り野生の鹿や猪の棲息が多く,池田光政・綱政はしばしばこの島で狩猟を行っている。
鹿久居島に放された野犬がその後どうなったかは史実に記されてないが、食べるものも少ない小さな島であるから、たぶん自然淘汰されたのだろう。
詳しくは、下記の拙文を参照してください。
光田の<絶対隔離政策>を調べながら、私はこの史実を思い出していた。「野犬狩り」を「患者狩り」に置きかえれば、その構図はまったく同じである。
事実、光田は、1916年に設置された内務大臣直轄の保健衛生調査会の委員に任命され、患者を隔離するに適する候補地を探している。光田は、絶対隔離の場所として離島を考え、沖縄県の西表島、岡山県の鹿久居島・長島の三島を調査している。山口県の生まれで東京在住の光田は、この史実を知らなかったと思うが、もし長島ではなく鹿久居島が選ばれていたらと思うと、不思議な因縁を感じる。
足りないのは<断種・堕胎>だけである。ここから見えてくるのは、光田健輔にとってのハンセン病対策は、ハンセン病の根絶ではなく、感染源であるとされたハンセン病患者の撲滅である。
光田健輔には4人の息子と2人の娘がいる。
1905(明治38)年、東京市養育院医員となった年に結婚している。その10年後の1915(大正4)年、前年に全生病院院長に就任した光田は、最初の「ワゼクトミー」(断種手術)を行っている。1931(昭和6)年、長島愛生園園長に就任し、東京から長島に移住している。当時、末娘は小学生だった。光田は6人の子供のうち3人も医師としてハンセン病に関わってくれたことを喜んでいる。晩年は四男の横田(妻の実家を継いだため)篤三の家族、孫と過ごしている。
なぜ、私が光田の家族について書いたのか。それは、光田の子供の何人かは、彼が患者に断種手術を施している間に産まれたということを確認したかったからである。さらに、彼が子供や孫と過ごしている愛生園においても断種手術は行われ、あるいは患者たちは光田の子供や孫を実際に目にしたかもしれない。これは光田だけではなく、医官たちも看護師たちも同じである。
患者が承諾したと言っても、それは「結婚の条件」であり、選択の余地のない苦渋の決断であったはずだ。自分たちは子供や孫を得て、人間としての幸せな家族生活を過ごしながら、それを許されなかった患者の思いを彼らはどう受けとめたのだろうか。この世に産まれる権利を奪う堕胎をどんな気持ちで行ったのだろうか。妊娠後期に入って堕胎され、生きて産まれた子供を洗面器の水に押さえつけて殺した看護婦はどんな気持ちで我が子を出産しただろうか。我が子を抱けなかった患者がいるのに、彼らはその手に我が子や孫を抱くことができたのだ。
私には、どうしても彼らを許すことができない。
断種・堕胎の被害については、今までも書いてきたし、被害の実態は各療養所の自治会史や『ハンセン病問題に関する検証会議 最終報告書』などに詳しいので、ここでは言及しないが、なぜ<断種・堕胎>が始まったのか、光田健輔の責任と罪過に関して検証しておきたい。
光田の虚偽記述は、彼の書く文章や発言の到る処で見ることができる。自己弁明どころか独断的解釈による誤魔化しや責任転嫁だらけである。しかも本当にそのように曲解していたり思い込んでいたりするから始末が悪い。
光田の虚偽について、『ハンセン病問題に関する検証会議 最終報告書』にも多くの患者が証言している。また、『倶会一処』(多摩全生園患者自治会編)には、次のように書かれている。
先ほどの医師以外で看護長が手術をしたという証言も書かれている。1917(大正7)年より全生病院に勤務し、長く看護長を勤め、メスさばきは先生より上といわれた川島盛昇は、「手術の準備をして待っていても、先生はなかなか出てこないで、用事ができたからお前に頼むなどといわれ、私も70人くらいは手術しましたね」と語っている。
藤野豊は、自治会史や医学雑誌に掲載された断種の臨床例や癩学会などの研究報告を元に、各療養所で行われた断種について検証している。その中で特に重要な問題を引用しておく。
藤野は、野島泰治だけでなく、全生病院医官藤田敬吉、元九州療養所医官榊原五百枝、栗生楽泉園医官玉村孝三、矢嶋良一の臨床報告も検証して、療養所における断種手術の「安全性」や医官あるいは厚生省技官(青木延春)の断種手術に対する考えを明らかにしているが、ここでは触れない。
私が問題視するのは、光田以外の医師も光田の影響を受けて各療養所で実施していることである。しかも「実験例」として学会誌や学会で報告していることである。光田自身もハンセン病患者への断種手術を広く推奨し、国外に向けても奨めている。
光田は「性分離への対応」を表向きの理由として、次のように述べて断種の正当性を繰り返し主張している。ここでも、自説への頑迷な執着をみる。
では、一体何人の断種手術が行われたのだろうか。
光田は1925(大正14)年の第25回日本皮膚科学会総会で、10年間で断種手術を受けた患者数を200人と挙げている。
断種・堕胎は戦後になっても行われ続けていた。その人数はどれほどに達するのだろうか。その人数だけ患者の子孫が絶えたことになる。光田の狙い通りだったとすれば、まさに「人生被害」である。
1933(昭和8)年、ナチス・ドイツが「断種法」を制定して以降、日本においても同法の制定を求める議論が活発化するが、その医学的根拠となったのがハンセン病患者への断種手術である。その「安全性」と効果についての臨床例データが大いに参考とされた。ここでもハンセン病患者は「人体実験」のモルモットとされたのである。
私はこうした<史実>を知るたびに、光田健輔が創り上げた絶対隔離を目的とした療養所システムを「動物園」のようにイメージしてしまう。徹底した管理・監視システムの下で、患者を死ぬまで「飼育」し、薬剤治験や医学研究のための「実験材料」としていたのではないか。そのシステムを運営する側に立つ医官や看護師、職員の患者を見る「まなざし」と「認識」は、はたして「人間としての患者」であったのだろうか。光田の患者観はそのまま弟子(門下生)たちに受け継がれて拡がっていったのだろう。私が問題として論じているのは、このことである。