「本妙寺事件」に関与した十時英三郞や宮崎松記らが本妙寺集落に居住するハンセン病患者に対して、どのような認識を持っていたかを検証してみたい。
「本妙寺事件」については、熊本県ホームページに掲載されている「熊本県「無らい県運動」検証委員会報告書」が最も詳しく論証している。以下、抜粋・転載しながら検証してみたい。
https://www.pref.kumamoto.jp/uploaded/attachment/49738.pdf
私が本論考において検証しているのは、ハンセン病問題を生み出した「要因」である。「絶対隔離政策」「断種・堕胎」「特別病室(重監房)」など、ハンセン病問題の歴史的実態を検証していくほどに、その実態を生み出した人間たちの「発想」「思考」「志向性」とそれらの背景が見えてくる。時代の制約もあるだろうが、彼らの人間観や人権意識の偏狭さに恐怖すら感じる。逆に人権意識は確実に拡大してきたとも思う。だが、まだまだ不十分であり、現在も大きな課題となっているジェンダーの問題や人種・民族問題、部落問題などに通底する価値観や人間観には、この時代の価値観や人間観が残存している。それゆえ、ハンセン病問題を生み出した価値観や人間観を明らかにしておく必要を強く感じている。
たとえば、上記で十時英三郞の「偏見」が指摘されているが、彼の言動やハンセン病患者への視線を「偏見」とみなすのは、現在の価値観であり人間観である。宮崎松記が「日本の国辱」「癩部落の存在は不都合」と論じるのも当時では一般的な認識であった。何より「浄化」という考えが当たり前であったことが恐ろしい。「浄化」の背景には、日本の歴史に内在してきた「賤視観」があり、そこに「優生思想」などが加わって形成された国粋主義がある。
では、本妙寺集落は、十時や宮崎が言うような「治外法権的」な犯罪者が集まる無法地帯だったのだろうか。
同じ光景を見ても、人間の主観によって記述内容は大きく異なる。このことは、管理側の人間、たとえば光田など療養所長が書いた記述と患者側の記述を読み比べれば明らかである。
宮崎には「隔離」が前提であり、目的(趣旨)は「伝染予防」であった。「浄化」とは、ハンセン病患者の療養所ヘの強制収容によって「本妙寺集落」の「解体・解消」を行うことであった。つまり、「本妙寺集落」の完全なる「消滅」が「浄化」なのである。
人はよく<他者のため、社会のため>と言って、自らの言動を<正当化>する。どれほど理不尽であり横暴なことであっても、その言動によって他者が深く傷つき、人生を破壊されようとも、自らを省みることは少ない。今では考えられない「人権蹂躙」の行為であっても、その当時は平然と行われていた。そんな過去を暴いても仕方ないだろうと言う声も聞く。しかし、たとえ時間を戻すことができなくても、歴史的事実を明らかにすることによって、その<正当化>の論理がいかに多くの問題を生み出すことになったかを将来に対する<教訓>とできる。
光田健輔ら絶対隔離推進者の論理、彼らの自己正当化、頑迷さ等々は、姿形は変わっても、現在においても残存し続けていると感じる。インターネット上に蔓延する誹謗中傷・罵詈雑言の類いは狡猾さを増しながら増加し続けているが、その根底には一方的な正義を振りかざし、自己正当化に終始する論理がある。
「本妙寺事件」の直接的な背景と経緯を見ておきたい。
上記の「国公立療養所」という表記はまちがいである。この時点では療養所はまだ「国立」ではない。この「官公立癩療養所長会議」において、「公立療養所の国立移管に関する議案」が提出され、1941年7月、すべて国立に移管された。なぜ、「国立移管」なのか。その理由は、出費している道府県に縛られずに全国から患者を収容できることになり、隔離の徹底が促進されるからである。これにより「無らい県運動」のさらなる進展が期待された。しかし一方で、「無らい県」達成の最大の障害が「癩部落」の存置であった。
少しでもハンセン病問題に関心のあれば小川正子と『小島の春』は知っていることだろう。小川正子は、東京女子医学専門学校から全生病院の見学に行った時に光田健輔と出会い、卒業後はハンセン病医療を志して、1933(昭和8)年に長島愛生園医官に就任し、瀬戸内の島々や四国各地などでハンセン病患者の隔離収容に奔走したが、1937(昭和12)年に結核を発病し、療養生活を送るが、1943(昭和18)年に死去した。『小島の春』は光田の勧めで雑誌『愛生』に執筆した患者の隔離収容の記録を一冊にまとめたものである。
小川正子と『小島の春』の功罪については別項で論じたいので、ここでは述べない。ただ、小川や宮崎、愛生園職員にとって、ハンセン病患者は「素直に収容隔離に応じる者」であって、それ以外は「百鬼夜行」でしかないという彼らの考えが、日本のハンセン病医療政策を歪めてしまったことは明らかである。