光田健輔を、ミッシェル・フーコーの<牧人権力>の図式をもとに考察したのが武田徹である。武田の考察を『「隔離」という病』より抜粋して引用する。
この「個別化を行うものとしての権力」をフーコーは「牧人権力」と呼ぶ。
光田の言動は、確かに<牧人>である。光田の患者に対する<両義的な対応>も説明がつく。意に従う患者には限りなく優しくもあり、意に沿わぬ患者には限りなく冷酷である。愛生園という牧場で患者という羊を支配しようとした。光田に羊を慈しむ牧人の姿を見た後継者や患者は<慈父>と尊敬を込めて呼ぶが、監禁室に入れられ、草津(特別病室)に送られた患者は<隔離の鬼>と怨嗟の声を投げつける。
療養所入所者は「三園長証言」をどのように見ていただろうか。星塚敬愛園の入所者月田まさし「ハンゼン氏病の盲点 宮崎恵楓園長、光田愛生園長証言の批判」を検証してみたい。
「らい予防法改正への、私たち数年来の悲願は宮崎恵楓園長、光田愛生園長によって改悪への線上にある」と書き始めた月田は、「過去の圧迫と屈辱」とともに「二園長の意図」を明らかにしていく。彼は当事者として彼らの身に起こってきたハンセン病政策の事実と、それを実施してきた光田らの意図を的確に分析している。
至極もっともな意見である。今では「常識的な意見」とさえ思える。ここで月田が指摘しているのは、プロミン以後の特効薬による効果と国際的動向を無視して、戦前の「強制隔離」「絶対隔離政策」をむしろ強化しようとする光田や宮崎の姿勢である。
自治会史や患者の著書、月田以外にも『ハンセン病文学全集』に所収されている評論や文学作品の数々を読みながら常に実感するのは、入所者の勉強熱心と努力によって培われた見識の高さである。入所者の部屋を訪ねて驚くのは、本棚や床に積み重なる書籍の多さである。
初めて長島愛生園の金泰九さんの部屋を訪れた時、壁一面の本棚にびっしりと収められたさまざまな書物であった。ハンセン病に関する書籍や雑誌、資料はもちろん、政治から文学まで読み込んでの博識に裏打ちされた意見は傾聴に値した。
彼らは自らの病と向き合い、歴史的な流れを熟知し、ハンセン病に関する医学的知見や政治や社会の動き、療養所の将来などを真剣に考えていた。何より自分たちがなぜ強制収容され、隔離され続け、差別や偏見を受けてきたかをよく知っていた。それは、彼らの講演のすばらしさに如実にあらわれている。
月田の論文を続けよう。
当事者である患者として、また園長を日常的に接している(あるいは間接的に見知っている)入所(園)者としての立場から、戦前から戦後のこの時期までを実際に知っている者として、月田の言葉は重い。まさしく正論であり、良識的な疑問を呈している。だが、残念ながら、月田は光田や宮崎の「意図(目的)」にまで至っていない。
「三園長証言」で明白になったのは、光田や宮崎が「癩の根絶」ではなく「癩患者の絶滅」を「意図(目的)」してハンセン病対策を行っていたことだ。そう考えれば、月田の言う「科学者たるものの良心と信念」など端から彼らにはなかったことも、「二面政策」を平気で断行できたことも理解できるだろう。
私は医学に関しては専門的なことはわからないが、以前より不思議に思っていたのは、ギネスに載ってもおかしくないほどに解剖を行い、患者の四肢や胎児の標本を残し、犀川らの証言では何時間も弟子の医官たちと議論したという研究熱心な光田健輔は、何をそれほどに研究していたのだろうか。病理学者として癩菌の発見方法(「光田反応」)たハンセン病の「類型」を研究していたのだろうか。
「三園長証言」でも「癩病研究所」の設立を希望しているが、なぜ「治療」「治療薬」の研究が進展しなかったのだろうか。私にはそれが未だに疑問なのである。療養所勤務の医官が少なからずの論文を残していることはわかるが、論文の題名からは治療方法に関する研究は少ないように思える。二次障害や他の病気に対応した「治療」が優先されていたからだろうか。